第35話 忌み地の歴史に終焉を

芥野あくたのの『あくた』ってゴミって意味なんだってさ」

「マジか、それじゃあいつはゴミ女?」

「うげぇ、俺さっきあいつに触っちゃったよ」

「とりあえず手ぇ洗っとけぇ」

「ははははは」


 同じクラスの男子たちが教室でひとりポツンと肩を落として座っている亜梨砂ありさに聞こえるような声で話していた。給食の後の昼休み、クラスの女子たちは校庭に出るグループや教室では気の合う仲間同志で集まっている。その中で芥野あくたの亜梨砂ありさだけが孤立していた。

 彼女が暮らすのはその学区内では口に出さずともみ地と知られる引地ひきち地区、その中でも古紙回収業という家業のこともあって、亜梨砂はますますクラスメイトから避けされる存在だった。


「お――い、亜梨砂、いっしょに帰ろうぜ」


 二年生の教室にやってきたのは大先輩の六年生、大門啓介だった。教室の入口では身を半分隠すように四年生の高峰勇次も顔をのぞかせている。


「啓ちゃん、勇ちゃん」


 亜梨砂は満面の笑みを見せながら二人に駆け寄る。同じ地区に住む幼馴染の三人は学校でも苗字ではなく名前で呼び合っていた。学年が違うのにそうすることが他のクラスメイトには奇異に映るようで、亜梨砂はますます教室内で孤立を深めてしまうのだった。

 でも亜梨砂は淋しくなかった。


「もしおまえをいじめるヤツがいたら俺に言えよな。俺と勇次で締めてやるからさ」

「ううん、大丈夫だよ。啓ちゃんと勇ちゃんがいるから」


 そう言っていつも笑っている亜梨砂にとって彼ら二人こそが心の拠り所だった。


 放課後、児童たちは帰路に就く。高台にある小学校に通うのは同じく高台かその中腹あたりのマンションやら住宅街に住む子どもがほとんだったがごく少数ながらそうではない子たちも存在した。

 引地ひきち地区、それは武蔵野台地の東端に形成された入り組んだ谷戸やと一帯の呼び名だ。かつては流れ者や牛馬の殺生を生業とする者が暮らす集落、いつしかその名に近い「み地」とまで呼ばれるようになるそこを出自とする者たちは日々目に見えない差別を受け続けていた。

 最年長の啓介と小学四年生とは思えない長身の勇次はまだしも、最年少の亜梨砂は格好のいじめの対象になっていた。急な坂を下って帰る背後からは罵声が浴びせられた。啓介と勇次が出れば簡単に蹴散らせるのだが、するとまた「引地の子が」と噂されるのだ。だから二人は坂上のガキどもがいなくなるのを見計らって亜梨砂に駆け寄ると彼女の気持ちが落ち着くまで引地地区のシンボルでもある小津山おづやまと呼ばれる児童公園で時を過ごすのだった。


 いつしか空は夕焼けから夕闇へと変わっていく。気がつけばベンチに座っているのは啓介ただひとり、顔を上げた先には闇の中でスポットライトに照らされた勇次と亜梨砂が彼を見つめて立っていた。言葉をかけようにも声が出ず、ただ口をパクパクさせるばかりの啓介の前で子どもから大人の姿へと変貌した勇次が悲しげな顔とともに背を向けて暗黒の中へと消えていく。

 幼く小さかった亜梨砂もすっかり艶めかしい姿となっていた。黒革のボンテージコスチュームに真っ白なガウンを羽織った彼女が寂しそうに微笑んだ瞬間、その身体からだは一瞬にして地面の中へと飲み込まれていく。消えてしまった彼女を捕まえようと腕を伸ばしながら駆け寄った啓介もまたいつものダークスーツ姿、しかしその足元、亜梨砂が立っていたその場所には真紅の鮮血だけが残されていた。



 大門啓介は目を覚ました。車は赤坂御所の石垣を左に見ながら外苑東通りを南へと進んでいる。


「くだらない夢を見たものだ」


 彼は心の中でそうつぶやくと腕時計に目を落とす。時間通り、順調だ。そう、彼はこれから再開発プロジェクトの会議へと向かう車中にいたのだった。



 都心の一等地、高い塀と鬱蒼たる常緑樹に目隠しされて建つそれは伊集院グループが重要な会議や要人の接待に利用する施設だった。

 外から射し込む木漏れ日が窓際の絨毯をやわらかく照らすそこは大会議室、静まり返ったその空間は眠気を誘うどころかむしろ張り詰めた空気が漂っていた。

 上座の席にはプロジェクトの筆頭幹事である伊集院グループ会長の伊集院いじゅういん祥一しょういちが、その真向かい、部屋の扉を背にした席には大門啓介がいた。他には関連省庁の役人たちと並んで建設族議員、金融機関のお偉方、それに彼の同業者たちも顔を見せていた。彼らとは親密と言えるような関係ではなかったが定例会のたびに目にする顔であったし、みな一様に押し黙ったままなのも毎度のことだった。

 しかし今日はいつもと様子が違う。そう山鯨やまくじらだ、会議のたびに声を張り上げては強引に進めてしまうあの山鯨氏の姿が見えないのだ。そして今、大門啓介は不快な胸騒ぎを覚えていた。


 会議が始まる。伊集院会長がまずは形式的な挨拶をするとその場の全員が座ったままで小さく頭を下げた。厳かな雰囲気の中、続く言葉に大門啓介は虚を突かれる。


「さて、本題に入る前に申し上げねばならないことがございます。大門会長、今このときを以ってあなたにはこの場から退席していただきます」


 突然の宣告だったが周囲の誰一人として動じることがないのは彼を除く全員に事前通告がされていたのだろう。彼はすぐに状況を察した。

 そうか、今日のこの場に山鯨の姿が見えなかったのはそう言うことだったのか。氏も排除されたのだ。いや、むしろ氏が先に刺されたのかも知れない。そして保身のために自分を売ったとも考えられよう。


「大門会長、引地ひきち地区でのご活躍はお見事でした。しかしながらあの地はビジネスには向いてない、収益とは縁遠いものであるとの判断がなされました。よってあのエリア一帯はその地形を活かしつつかつての引地川ひきちがわの清流を復活させる親水公園として利用されることが決定しました。そう、の地の歴史はついに終焉を迎えます。あとは時がすべてを流し去ってくれることでしょう、忌まわしき過去もそこで生まれ育った人々の苦悩も」


 ふざけるな、あの土地はこれから金を生み出すんだ。だからこそ山鯨氏に献金と利益誘導の段取りをつけてきたのだ。くだらん公園なんかにされてたまるか。大門啓介は怒りに奮えながらもそれを悟られぬよう必死で歯を食いしばる。そこに伊集院氏が追い打ちをかけてきた。


「大門会長はあの引地地区の出身とのこと、おそらくそれなりのご縁や人脈があったからこその成果であると察せられます。しかし、本当にそれだけでしょうか。ただでさえ厄介な場所です、あまりにスムーズ、出来過ぎた話ではないですか」


 その一言で周囲がざわめき立つ。


「その上会長はタワー型ビルの建設も計画しておられますね。そしてそこをカジノ誘致のモデルケースにしようとも考えておられる、それらすべてを山鯨先生のお力を盾にして」


 大門啓介は伊集院会長の一挙手一投足を注視する。彼のこの自信はどこから来るのだ、もしや何か情報を得ているのか。すると伊集院氏は最後通告にも似た一言を発した。


「大門会長、もうこれ以上は言わせないでください。私はあなたご自身の英断に期待します」


 宣告とも思えるその言葉に続いて様々なノイズが遠く聞こえてくる。これまで山鯨氏に抑えつけられていた不満がここぞとばかりに吹き出したのだ。しかし大門啓介にとってそんなことはもうどうでもよかった。自分たちには自分たちのやり方がある。こうなったならもうなりふり構わずだ、一気に片をつけてやろうじゃないか。

 大門啓介は今一度議場を見渡す。みな一様に冷たい目を自分に向けているのがわかる。

 よかろう、勝負はこれからだ。

 彼は決意を固めると黙ってその場を後にした。

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