第3話 ミエルが感じた怪しい匂い

 二人が事務所のある古ぼけたビルの前に戻って来たのは午後七時にならんとする頃だった。見上げると最上階の窓から明かりが漏れている。ママは自分たちを待ってくれてたんだ。二人は顔を見合わせてともに頷くと狭い階段を上がって行った。


「ハァ、ハァ、ほんとにこれだけはマジでなんとかして欲しいし」

「慣れと言うかコツみたいなのがあるんだよ」

「帰ったら帰ったで部屋までもまた階段だし」

「ハハハ、ダイエット、ダイエット」

「うるさい、こんなの足が太くなるだけだし」

「あ、痛っ」


 相変わらず文句を言いながら五階までの階段を上がる晶子は軽口を叩きながら先を行くミエルの尻にパンチをお見舞いした。


 さて、賑やかしもここまで、ドアの前で息を整えるとミエルは三回のノックに続いて「ただいま戻りました」の声とともにドアを開けた。その後から晶子もまた同じように挨拶をする。


「二人ともご苦労様、早速報告をお願いね」

「はい」


 そう言ってミエルがママのデスクの前に立ったとき、その視界の端に強面の中年男性の姿が映った。東新宿署の相庵あいあん警部だ。ミエルはすぐさま警部に向き直ると「ご苦労様です」と一礼する。それを見ていた晶子も同じようにペコリと頭を下げた。


「よお、少年少女……いや、お嬢さん方かな、こんな時間まで仕事なんてお前さん方こそご苦労なこった。それでどうだったよ、引地ひきち地区の様子は」


 警部の問いにどう答えればよいのか、ミッションには守秘義務もあるし返答に窮しているミエルにママが助け舟を出す。


「二人とも心配いらないわ。貞夫さだおちゃんは全部知ってるから」

「そうですか、それなら……」


 ミエルはミッションで赴いた場所で感じたことをありのままに話した。途中から晶子も会話に加わって今見てきた引地ひきち地区なる街を散々にこき下ろした。そして二人は口を揃えて、できることならば二度と行きたくないとも。そう言う二人に相庵あいあん警部は頷きながら言った。


「なるほどな、君らはそう感じたわけか。まあそんなもんだろう、とにかくそういう感性ってのは大事にしておくんだぜ」


 ミエルと警部がそんな会話をしている合間に晶子はさっきの現場からずっと取り上げたままだったミエルのスマートフォンをママのデスクの上に置く。ママはそれをノートパソコンとUSBケーブルで接続すると二人が撮って来た写真をディスクに取り込んだ。一連の写真を眺めながらママはつまらなそうに鼻を鳴らしながらスライドショーを進めた。

 やがて一枚の写真でママの手が止まる。


「晶子ちゃん、これは何かしら?」


 それはあの芥野あくたの紙業しぎょうなる建物から出てきてこちらを威嚇する男の写真だった。画面の下部三分の一に写り込んでいるのは撮影者である晶子の指だろう、しかし男の顔も背景の一部もうまい具合に撮れていた。


「それは晶子が撮ったんです」


 そこからはミエルが説明を続けた。


「ママが印をつけた建物って古紙回収をやってる会社でした」

「そうそう、芥野あくたの紙業だったっけ、でもすぐに怖い人が出てきて……」

「なるほどね、それで二人とも脅かされちゃったわけだ」

「そうなんです、うろちょろすんな、って」

「だからあたしはバレないようにミエルからスマホを取り上げて隠したんです。そのときにたまたま撮れたのがその写真で」


 すると今度は相庵あいあん警部が興味津々の様子で身を乗り出した。警部はママの隣に立つと一緒になって画面を覗きこむ。


「しかしこりゃ、いかにもな野郎だなぁ。シャツから墨が見え隠れしてるしロクなもんじゃねぇ、またぞろ連盟あたりの三下だろうな。ところで出てきたのはコイツ一人だけだったか?」

「はい、この人だけでした」

「それに言うだけ言ったらすぐに引っ込んじゃったし」

「ママ、その写真提供してもらえるか?」

「いいけど、どうするつもり」

「半グレ専門の連中に当たってみるさ」

「いいわ、あとで転送してあげる」


 ママと警部との会話の端々からうかがえるのはやはりこの物件にまつわる怪しい匂いだった。きっとまた再開発とか地上げとかのネタを掴んだに違いない。ミエルは写真を撮ったときに薄々気付いていた、その物件だけが周囲の建物よりも間口も面積も広かったことを。ママはきっとあそこを狙っているんだ、でもヤバそうな先客がいるもんだから警部さんの協力を仰ぐつもりなんだ。


「ミエルちゃん」


 ママがいきなり彼の名を呼ぶ。同時に警部も晶子もみな自分を見つめている。


「あなた今ちょっとよくないことを考えてたでしょう」

「えっ、いえ、そんなことないです」

「ううん、あなたがぼんやり一点を見つめてる時って大体おかしな妄想してるのよ」

「いや、その、ちょっと、ぼんやりしてて」

「ふふふ、いいわ、少しだけお話してあげる。その土地はね、引地ひきち地区でも大きな物件のひとつなのよ。あそこには政府肝入りの再開発事業の話が上がっててね。私はあんなみ地に興味なんてないんだけど代議士やら財閥系デベロッパーが絡むとなればね、のひとつもしたくなるってものよね」


 やはりそうだ。この人はちょっと前に新宿五丁目のメイド喫茶を手に入れたばかりなのにまたもや何か企んでいるんだ。そもそもこの人はそういうことを商売にしてきた人だ、だからそんなことに驚くことはない。しかし気になるのはママが発した言葉だ。ミエルはママの機嫌を損ねないよう注意しながら尋ねてみた。


「ママ、ひとつだけ教えてください。ママは今、み地って言いました。それってどんな意味ですか? それに相庵警部も引地ひきち地区を知ってました。あそこには何があるんですか?」

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