第9話 拗らせ女は、弱ってる男に弱い。

「ドキュメンタリーって、難しいね。」

 会議室で出されたお茶を啜りながら、紗恵子がため息をつくと、谷口も大きなあくびをしながら頷いた。

「俺、今週はスケジュールの組み直しで寝れなかったっす。」

 acheが曲作りをしないおかげで、最近の制作風景の撮影は進捗がほぼない状態だった。このままでは、前半の稼働が無駄になってしまうので、後半に比重を増やすスケジュールを相談するための打ち合わせで、彼らの事務所に来ていた。打ち合わせの準備に追われていた谷口は、先ほどの言葉通りクマが深くなっていた目で、じとっとこちらを見遣った。


「それより、なんで坂上さんは今日も来てないんですか。」

「先輩は、やばい案件が重なって死にそうな顔してるから、来るなって言ったのよ。」

 坂上は、中堅なこともあり、いろんな案件の監督係として駆り出されている。しかも、プライドは高いが責任感がある彼は、後輩や客先のトラブルも絶対になんとかしようとするから、新卒が入稿ミスをしたチラシの修正と、CM起用タレントのスキャンダル、客先の開発の遅れによるプロモーションスケジュールの引き直しなど、トラブルが舞い込み続けていた。


 そんな中でも、この現場に来ようとする彼を、紗恵子と部長で押しとどめて、少なくとも暫くは、現場では紗恵子と谷口で対応しようということになったのだ。


「谷口がいれば、うちらだけで大丈夫でしょ。」

「あんま頼りにしないでください。」

 紗恵子の言葉に谷口が後ろ向きなことを言う。

「褒めたんだから、少しくらい嬉しそうにしてもいいのに…っていうか、和田さんたち、遅いね。」

「たしかに。いつもは受付して会議室に着く頃にはいるのに、今日は約束の時間も過ぎてますね。」

「五分だけだけど…メッセージも返事がないわね。」


 そんな風に二人が訝しんでいると。

「やましー、エクレアが食べたいー!」

 なぜか、今日は会わないはずの芸能人が、会議室に入ってきた。  


 予期せぬ人物の登場に、谷口は勢いよく立ち上がり、紗恵子もワンテンポ遅れて椅子から立ちながら、挨拶をした。


「acheさん!お疲れ様っす!」

「acheさん、お疲れです。って、今日の打ち合わせは同席しないはずですよね。」

 紗恵子の問いに、acheはうん、と頷いた。

「そうだよ。今日の俺は和田ちゃんの伝言係で来た。」

「伝言、ですか?」

「レコード会社のおっちゃんが急に来たんだけど、和田ちゃん捕まってさぁ。俺だけ抜けようとしたら頼まれたんだよ。『お待たせしてすみません、難しければ、後日にさせてください』だって。おっちゃん、同伴の予定あるって言ってたから、遅くて一時間だと思うけど。」

 acheが説明をしつつ、手近な椅子に座った。二人に座れとジェスチャーをするので、どうやら居座るつもりらしい。


 というか、担当アーティストに伝言係をさせるマネージャーもなかなかだな…と思いながら、紗恵子は椅子に座り直し、社用携帯の予定表アプリを確認した。

「私は、後ろの予定は特にないから大丈夫だけど、谷口は?」

「俺も、合コンの時間までは大丈夫なんで、余裕です。」

「えっ!合コンいいなぁ。俺も行きたい。」

 谷口の返事に、acheはスマホをいじりながら羨ましそうな声を出した。

「acheさん来たら女の子みんな取られちゃうっすよ。」

「いやいや、ぐっちゃんイケメンだし、面白いし、そんなことないよ。」

 acheの言葉に相好を崩している谷口を紗恵子は冷めた目で見つめた。


「acheさん、伝言は承りましたから、暇なら早く帰って休んだらどうですか?」

 谷口にしろacheにしろ、疲れてんだから帰れる日は合コンなんかで命を削らずに、家で休養をとって欲しい…そんなふうに思って紗恵子は言ったが、acheは首を振った。

「暇じゃない、今はエゴサで忙しい」

 それも家でできるでしょ!と突っ込みそうになる紗恵子の横で、谷口は目を丸くしていた。

「え、意外っす…acheさんそんなことしてるんすか?」

「うん、面白いよ。色んな意見があって、つい見ちゃうんだよなぁ。」

「え、本当にすごいっす。俺、自分のことじゃなくても、悪口とかきついコメントが苦手で、SNSあんまり好きじゃないんすよね。」

 「それをしかもエゴサーチなんて…」と谷口が苦い顔で話すが、それを聞いたacheは「ああ、そんなこと…」と軽く笑った。

「顔も見えないやつがどんな酷いことを言ってきても、全然平気だよ。よく知ってる人に何か言われる方がよっぽどしんどいし。」


 その言葉に紗恵子の心臓はドキリと嫌な音を立てた。


「社長とか、怖そうっすもんね…」

「確かに、あの人もすげぇ怖いよ。」

 谷口が本気で怖がる顔をするから、acheが少し笑った声を出した。その時、なんとなく、彼の目線が紗恵子のあたりを捉えたような気がしたが、紗恵子は社用携帯に落としていた視線を上げられなかった。


「…まあ、それも慣れるけどね。俺、空っぽな男だから。」

 acheの言葉に、一瞬、答えに詰まった谷口の空気を察したのか、acheは思い出したように立ち上がった。

「あ、二人が時間大丈夫って、和田ちゃんに言いに行かないと。またねー。」


 パタンと出て行った後、谷口はバツの悪そうな顔でこちらを向いた。

「なんか最後…俺、話題選び間違えちゃいましたよね…。」

「いや、軌道修正してたと思うよ。多分、言うつもりのない言葉まで口が滑って、慌てたんじゃないかしら。」

 谷口にフォローを入れながら、根本的には私のせいだろ!と紗恵子は自分に苛立った。

 あの時の言葉を彼はもう忘れている、なんていつの間にか勘違いしてしまっていたんじゃないだろうか。


「…でも、ちょっと元気なさそうだったし、エクレア買ってくるわ。あ、和田さん来たら教えてね。」

 紗恵子が行くなら自分が…と後輩らしく買いに行こうとする谷口に、合コンに向けて仮眠か作業でもしておくようにと笑って、紗恵子は会議室を出た。


 会議室を出るとacheはすぐに見つかった。

 同じフロアの自販機の横に設置されたカウンターに座ってる彼に近づき、三歩くらい空いた距離から、そっと声をかけた。

「acheさん。」

 すると、acheはこちらを振りかえって首を傾げた。

「ああ、やましー、どうしたのそんな遠くから。」

「あ、いや、なんとなく…。」

 返したくなければ、聞こえないふりができるように、なんて小賢しく気遣ったふりをしたなんて、自分からは言いたくない。少し誤魔化しながら、二歩近づいて、紗恵子は怪訝な顔をするacheの目の前に立った。


「あの、acheさんは、空っぽじゃないですよ。」

 勢いで出てきてしまったが、今の自分の言葉が彼に何か届くのだろうか…。


 紗恵子の不安を見透かすように、その言葉を聞いたacheはじとっとした目で彼女を睨んだ。


「俺、昔ね、『中身が空っぽで、本当は誰のことも好きじゃないくせに』って罵られたことがあるんですよ。」

 やはり、あの時に悪意を持って投げた言葉は相手にきちんと刺さってしまっていたようだ。

「それは…その人はきっと、自分が望む愛され方をしなかったことを、相手のせいにしたかったんですよ。」

「まあ、浮気ばっかりしてたからね。」

「それは、最低ですね。」

「最低でごめんね。」

 茶化すようなacheの言葉に、紗恵子は自販機にコインを入れながら口を開いた。

「ご自身が空っぽだと思ってしまったのが、曲が作れない原因なんですか。」


 acheはその質問には直接答えずに、別の話を始めた。

「4th AVEは他のメンバーも作るし、タイアップも多いからキッカケがあって作りやすいんだ。」

「…今回のソロは、制作段階でのタイアップはあえてゼロにしているって和田さんから聞きました。」

 ドリンクを取り出しながら答えた紗恵子の言葉に、acheは頷いた。

「何に心を動かされて、何を伝えたいのか、自分と向き合って、探してみたいと思ったんだ。だから、みんなにも手伝ってもらって試行錯誤してたんだけど…」

 谷口や坂上へ漫画を借りたり、絵を手伝わせたり、映画のおすすめをきいてた理由はこれだったのか、と紗恵子は少し納得した。そして、一度言葉を切ったacheは、少し目を細めてから、そのまま話を続けた。

「ぐっちーもさかっちもだけど、この業界の人って、みんなセンスいいね。勧めてくれたやつ、全部良かった。けど、どれが好きかって聞かれたら全然分かんなくて…やっぱり俺って中身がないんだなって思ったよ。Heartacheを作れたのが奇跡でさ、もう何が作りたいかも分かんねぇ…。」


 acheは、紗恵子の服の袖を摘んで、彼女の顔を見上げながら、小さな声でつぶやいた。

「空っぽじゃないっていうんならさ、教えてよ、俺の中身。」


 紗恵子は、心臓に針が刺さったような痛みを覚えてながら、袖を掴まれている方とは反対の手で、スッとacheの手に持っている、開いていないほうじ茶を自分の買ったミルクティーに差し替えた。

「昔のことなんであまり覚えてないですよ。」

 前置きの後、紗恵子は小さく息を吐いて、ほうじ茶を煽って喉を潤してから、口を開いた。

「私の知ってる秋は、出かけることが好きで、どこに行くのも好きだけど、博物館と映画館が特にお気に入り。ビール党で、カップ麺はカレー味が好き。おしゃれは好きだけど、いつも悩みすぎて買い物も着替えも時間がかかる。あ、でも料理の手際はピカイチ。それと、コーヒーやほうじ茶より、甘いミルクティーが好きで、あとは…人のちょっと困った顔を見るのが好きっていう困った癖がある。」

 紗恵子が、acheの手に持たせたミルクティーのプルタブを開けてやると、彼はそのミルクティーを一口飲んだ後、続きを促すように紗恵子を再び見つめた。

「あと、acheさんは、メイクの浅井さんが使う美顔器はEMSよりスチーマーがお気に入り、お弁当は肉派、相変わらず椎茸は嫌いだけど、好き嫌いは少ないところは変わってない、あ、歌と人の困った顔を見るのが好きなのもか。後、谷口の漫画は二回目に借りてたもの方が好みだった。」

 紗恵子が言葉を切った後も、acheは大きな目をパチパチと瞬かせたまま微動だにしないので、紗恵子は「きっと、思っていた回答ではなかったよね?」と焦った。

「なんかパッと思いつくものだから、しょうもないもんばっかですけど…答えになってますかね…?」

 相変わらず目をパチパチとさせたまま、ぼーっとしたような顔で、acheは答えた。

「なんか、秋ってやつはめんどくさそうなやつだね。」

「acheって人も大概ですよ。」

 紗恵子が笑顔で即答すると、acheはふふっと笑った後、もう一度、ミルクティーを飲んだ。

「すげえ甘いけど、やっぱり美味しいな。」


 そして無言でミルクティーを飲み続ける彼に合わせて、紗恵子もほうじ茶を飲んでいると、ペットボトルの中身が半分になった頃に、紗恵子の携帯が鳴った。

『山下さん、今、和田さんから連絡が来て、打ち合わせが終わったみたいです。』

「分かったわ。すぐに行きます。」

 通話を切った紗恵子は、会議室に戻ろうとacheに断った。

「じゃあ、仕事に戻ります。」

「あ、待って。」

 掴まれた手につんのめりそうになって振り返ると、椅子から立ち上がっていたらしく、acheがすぐ目の前にいた。

「ぐっちゃんに、二つ謝っといて。」

「ふたつ?」

「一つは、さっきは変なこと言ってごめん。」

「はい。」

「もう一つは、もう一回スケジュール調整させるかもって。」

 それは、後ろ倒しをしなくてもいい、つまり曲を作る…と言う意思表示だと紗恵子は受け取った。

「調整くらい何回でもやりますよ。いい曲つくってくれるなら」

 紗恵子が発破をかけるように言うと、acheはニヤリと笑って「まかせて」返した。


 その目が、力強く、どこか懐かしい目だったから、紗恵子が思わず息を詰まらせていると、acheは急に少し屈んで目線を合わせてきた。

「いい曲つくるから、俺のこと助けてね。」

 紗恵子は、その綺麗な瞳に吸い込まれないように、できるだけ目を細めてにっこりと笑いながら答えた。

「もちろん、弊社一丸で。」

「つれないなあ。」

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