第7話 イケメン相手だとメイクが楽だとメイクさんに聞きました。
あのプレゼンの後、詳細の打ち合わせを数回して、大まかな段取りを取り決めた。といっても、具体的な広告展開は、アルバムの製作と並行して調整しつつ、とりあえず、ドキュメンタリーの素材集めを進めていこうというふわっとしたものだが、撮影は、タイアップを考えているテレビ番組の紹介で、ドキュメンタリーに強いチームが組めた。
なんでも彼のソロを聞いて、番組で取り上げてくれないかと打診していた監督がいたそうだ。
撮影は10ヶ月の制作の間に、4th AVEのライブ、レコーディング、と言ったイベント的な場面と、何もない時期も2週に一回程度制作風景を撮ることになったのだが、ざっくりと引かれたスケジュールを見て、acheはこちらを見遣って首を傾げた。
「山下さんは、全部来るの?」
「スケジュールによりますが…あ、居ない方がよければ全然…!」
と紗恵子がそこまで言ったところで坂上が飛び出て、遮った。
「大丈夫です!調整します!」
その言葉に、acheはにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。」
だからなんで!?私のいないところで伸び伸びやってよ!と思う紗恵子のそばで、坂上とacheは握手を交わしていた。
「お前、acheに好かれてるよな。」
打ち合わせの帰り、ポツリとつぶやいた坂上に、紗恵子は飲みかけていたお茶を噴き出してしまった。
「はあ!?」
「まあ、わかるけど。」
「なんで!?」
もしかして、距離感が近いとかで怪しまれたのだろうか。いや、あいつの距離感は誰にでもああなはずだし、言い訳すれば大丈夫…。そんなふうに、頭の中で言い訳を高速で組み立てる紗恵子の横で、坂上はぐっと拳を握りしめて誇らしそうにこちらに笑いかけた。
「あの提案の時のお前、かなりカッコよかったし、頼もしかったんだろうな。」
「…アリガトウゴザイマス。」
焦って損をした。
「…俺、坂上さんのプライド高いけど、素直に人を認めるところもかっこいいと思いますよ。」
谷口の失礼な褒め言葉に、坂上は呆れた顔をした。
「プラ…お前も素直に褒めろよ。」
二人のやりとりを眺めながら、紗恵子はこっそり気合いを入れ直した。
だめだ、早速ペースが乱れてる気がするけど、しっかりしよう。
これは、仕事、大事な仕事…、私情は持ち込まない。今度は振り回されない。
ただ、紗恵子は忘れていた、仕事では振り回されないことの方がよっぽど少ないことを、そして今回の相手が、あの0.01ミリオリエンをしてくるやっかいなクライアントだということを。
「やましー、喉乾いた…。ほうじお茶ラテ持ってきて。」
「さっきコーヒー飲みたいって言いましたよね。」
紗恵子は楽屋の扉で、acheのこだわりだという、一駅隣のコーヒー屋のテイクアウトを握り潰さないように気をつけながら、貼り付けた笑顔で聞き返す。
「だって、30分も経ったら、コンディションも変わるんだもん。」
じゃあ、30分もかかる店指定してんじゃねえよ。
「せめて抹茶ラテじゃダメですか?」
抹茶ラテなら出てすぐの自販機で売っていたし、ほうじ茶ラテなんて下のコンビニに売ってるかすら微妙なものを買いに行きたくない。
「ほうじ茶だったら、スタンバイの間に、”何か”浮かぶかもって思ったんだけどなぁ。」
「行 っ て き ま す!!!」
昔は麦茶とほうじ茶の違いもわかんないインスタントコーヒー派だったくせに!という言葉を飲み込み、紗恵子はヒールを踏み鳴らして踵を返した。チラッと目に入った彼のマネージャーは、プロデューサーと打ち合わせをしていたが、こっそり紗恵子へお詫びのジェスチャーをしていた。
「くそう、秋より、acheの方がタチが悪い。」
企画が始動して一ヶ月半、撮影が行われるたびに、acheはめんどくさいワガママと奇怪な行動を連発していた。
「ぐっちゃん、点描画の黒ベタ手伝って!」
「やましー、お昼たこ焼き食べたい!焼いて!」
「さかっち、おすすめの映画ある?」
「やましー、ボディビルのポーズして!」
他のメンバーと扱いの差があるような気もするが、恋愛と違って仕事では、振り回されているのは紗恵子だけじゃないことが救いだ。
「acheさん、曲作ってないですね。」
「作ってないわね。あ、あのコーヒー飲んでもいいわよ。」
「このままだったら、アルバム購入特典用のオフショットばっかりになりそうって監督も苦笑いっすよ…。」
クリエイティブを担当している谷口ですら、現状では、メインのドキュメンタリーの構成を全くイメージできないのだろう、テレビ収録のリハで人の少なくなった楽屋のソファの背もたれに寄りかかりながら、苦い顔で笑っていたが、一転、少しはにかんだように言葉をつづけた。
「でも、acheさんに頼られると、なんか、ついお願い聞いちゃいますね。」
その言葉に紗恵子は五分前の彼らのやりとりを思い出す。
『ぐっさん、この漫画の続き貸してほしいな。』
『もちろんです!明日全巻持ってきます!』
確かに、あの時は谷口に引きちぎれそうなくらい左右に動く尻尾が見えていた。
『明日は、別のコンペの作業で死ぬほど忙しいんでしょ。』
紗恵子の言葉にも、『そんなの、なんとかします!』と全く聞いてなかった。
「あんたメロメロだもんね。」
「最初の打合せとか怖くてドキドキしてたんすけど、今は見つめられると別の意味でドキドキします…。」
「ちょろいな。」ふっと、紗恵子が笑うと、谷口が悔しそうな顔をした。
「うわ、やましーに言われた、悔しい…!」
その言葉のすぐ後、バシッという音と共に、谷口が少し前につんのめった後、頭を押さえた。
「痛い!…何するんすかやましー。」
「やましーって言うな。むかついたから叩いただけ。」
「パワハラっすよ。」
「あんたは言い返せるタイプの後輩だから、パワハラじゃなくて…ただの暴力かな。」
「余計ダメじゃん…。でも、確かに山下さんすごいですよね。」
そう谷口が言ったと同時に、肩に何か重いものがのしかかり、頬に少し冷たい何かが触れた。
「やましー、髪乾かしてー」
すぐに、後ろから誰かに肩に顎を乗せられたのだとわかったし。人物にも予想がついたが、とりあえず紗恵子は会話を続けた。
「なにが凄いのよ?」
「ほら、突然の距離感にも動じない。」
「いや、びっくりしてるわよ。acheさん、なんで髪濡れてるんですか。」
ライブでもない、テレビの収録で、リハ後にシャワーを浴びるなんてあまり聞いたことがない。
「リハの帰りに廊下歩いてたら、つまづいて、持ってたほうじ茶ラテが頭にちょっとかかって、臭かったから、トイレで洗った。」
「…何してるんですか。今から本番なんですからメイクさんじゃなきゃ…浅井さんはどこですか。」
「浅井さんは俺に説教だけして、今はshiroの髪乾かしてる。」
shiro、4th AVEのドラムの彼は、acheよりも先にメイクが終わっていたはずだ、ということは、紗恵子が買ってきたほうじ茶ラテが、彼にもかかってしまって、メイクの浅井さんは被害者を優先させた…というところだろうか。
「なら仕方ないか、ドライヤー貸してください。」
顔を手のひらで隠して、大きく息を吐いた後、紗恵子はマネージャーがどこからか借りてきたドライヤーを手に取った。
「でもね、acheさん、私たちはあなたの雑用係じゃないんですけど。」
「えー、なんて?」
紗恵子は髪を乾かしながら、文句を言うが、acheは弁当を開けてほとんど聞いていなかった。
「曲作ってるとこ撮らせてください。」
「えー?あ、やましーもお腹減ってた?」
「言ってないです。」
「大丈夫、やましー、多分余るから一個あげる。」
「ちっ…」
「舌打ちした?」
なんでこれだけ聞こえるんだよ。
「してません、谷口がしました。」
「俺のせいにするのひどいっすよ!」
借りてきたドライヤーの性能と高級サロン仕込みの髪質のおかげで、髪の毛はすぐにサラサラに乾いていた。今日はオイルを少しつけるだけだと聞いていたので、マネージャーが聞いてきた分量を手に取ってそっと馴染ませる。
顔の作りがいいとセットも案外シンプルに済むんだな…と思いながら、なんとなしにacheの手元に目をやった紗恵子は顔を顰めた。
「避けられた椎茸、寂しそうにしてますよ。」
「うるさいなぁ…人生短いんだから嫌いなものを食べてる時間が勿体無いじゃん。」
「山下さんの言う通りですよ、acheさんは普段の食事がアレ過ぎるんで、ちょっと苦手なだけの椎茸は頑張って食べてください。」
「和田ちんまで、普段は諦めてるくせに…!」
マネージャーも援護にacheは裏切られたような顔をしていたが、渋々椎茸を小さな一口づつ噛んで飲み込んでいた。ざまあみろ。
「なあ、やましー。」
「今度はなんです…うぐっ。」
足りなさそうな部分にオイルを足していた紗恵子だが、acheに声をかけられて返事をしようとした瞬間、振り返った彼が何かを押し込んできた。
あ、これにんじんだな。と気づいた紗恵子が少し苦い顔をすると、acheは、「自分の方が好き嫌い多いくせに。」とごく小さい声で囁いた後、ニヤリと笑った。
「にんじんも気分じゃないからあげる。」
「あ…acheさん。…何するんですか!お箸で人の口突っ込んだら危ないでしょう!」
「だって素手はばっちいじゃん。」
「そういう問題じゃなくてですね、大体…」
あんたの顔面で、こんな距離感がおかしい行動を誰彼かまわずしてたら、違う意味で危ないのよ!
そう言おうとしたところで、扉の外からの声に遮られてしまった。
「4th AVEの皆さん、まもなく本番でーす!」
「はいはい、ごめんね。行ってきまーーす。」
扉の外にいた浅井に最終チェックと仕上げをされてながら、スタジオへと向かっていく彼とメンバーの姿を見ながら、谷口はポツリとつぶやいた。
「山下さんって時間差で顔に出るタイプなんですね。」
「ドライヤーが暑かったのよ。」
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