遠く青く染まる

十市 社

  1

 ニナの叔父がいなくなった。その知らせを受けたとき、りょうは朝食をとるためにリビングに下りてきたところだった。正午も近くなって、寝巻きのままようやくダイニングテーブルについた椋に、母親は嫌な顔一つせずカウンターキッチンでトーストを準備し、それを尻目に椋はただぼんやりと平日のテレビ画面を眺めていた。起きぬけだろうと片時もスマートフォンを手放せなかった高校生のころは、つい去年の夏ごろまでは、こんなふうに無為に目線を固定していられるテレビをありがたいと感じることもなかった。

 卒業を境に同級生と連絡を取りあうこともなくなったスマートフォンがテーブルの上で短く鳴動し、メッセージを簡略表示した通知バナーがロック画面に浮かぶと、内容や発信相手を確かめるまでもなくニナからだとわかった。今では家族以外で日常的に椋とつながっているのはニナしかいない。

〈ユーイチおじさんがいなくなった〉

 その短い文字列から、ただ事ではない不穏さを受けとって椋はスマートフォンを取りあげるとメッセージアプリ上の通話ボタンをタップした。それでなくても、ニナが絵文字もスタンプも添えず、ごく端的なメッセージをよこすときは返信を求めているのではなく、椋の声を聞きたいときだ。

「いなくなったって、どういう?」

 通話がつながると、前置きもなく椋は問いただした。

「――わかんない、けど」一拍あって弱々しい声が返ってきた。「部屋にも、どこにもいないんだって。連絡もずっとつかないし」

「ずっとっていつから?」

「わかんない」くりかえす声に、早くも戸惑いと同程度の投げやりさが混じるのを椋は感じとった。出会った当初から、追いつめられるとすぐに考えるのを放棄しようとする傾向がニナにはあった。「ねえ、椋今どこ?」

「家だけど」答えたあと、扱いなれている椋は間を置かず軌道修正した。「それより、おじさんは無事なの?」

「知らないよ。見つかんないんだから」

「どっか出かけるとか、誰にもなんにも伝えてないってこと? 旅行とか、用事でしばらく部屋空ける――とか」

「聞いてたら騒ぐわけなくない、ママたち」

 もっともだった。スマートフォンを握ったまま、椋はニナの叔父が一人で暮らしているコーポの外観を思いうかべた。生活道路に面して各部屋のベランダが整然と並ぶ、二階建て軽量鉄骨のシンプルなコーポ。外階段の登り口近く、敷地と道路を隔てているフェンスの前に埋めこみ式の屋外掲示板があって、アクリルの扉で守られた掲示面積の左半分を〈見ています。〉というキャッチコピーを大きくあしらった防犯ポスターが占めていた。

「何もなきゃいいけど」

 ニナの叔父の身に何か起きたのでなければいい、という思いで椋はつぶやき、その片隅で、ニナの叔父が何かをしでかしたのでなければいい、というかすかな懸念が頭をかすめた。1DKのコーポを外から眺めたことがあるだけで、ニナの母親の弟に当たる叔父の人となりについて、椋は彼女たちから聞かされてきた以上の情報を持っているわけではない。

「ママは結局、最初はびっくりしてたけど、ほっとく以外ないって」ニナの声はまだその方針に納得していないというニュアンスだった。「いつかこうなるんじゃないかって気はしてた、とか言うんだよ今ごろ」

「こうなるって?」

「だから、逃げるってこと。なんか、実家から出たときもそうだったんだって。言ってた。今の部屋に住みはじめたのだって、おじいちゃんたちから――家族から逃げたかったんだって、ママは思ってるみたい」

「――容赦ないね。相変わらずおじさんには」

 ニナより一段浅黒く、常に眉山をくっきりさせている母親の顔が脳裏に浮かんだ。猫のように相手から視線を逸らさず、よくも悪くも簡潔にはっきりとした物言いをする人、というのが椋から見た印象だった。弟であるニナの叔父とは五つほど歳が離れていて、小さなころからあまり反りが合わない姉弟だったらしく、ニナが生まれてからは特に、用がないかぎりわざわざ顔を合わせることもなくなっていると聞いた。実家との橋渡しや姉としての監督責任から連絡をとることはあるが、ニナの知るかぎりその逆は皆無だという。

「前はそうだとしたってさ」と、ニナは母親への不満をもらした。「今度はどうかわかんないじゃん。ちゃんと確かめたわけじゃないんだし。もしかしたら――」

「あー」椋は曖昧な声音でさえぎるように共感を示し、そのあと「心配してるんだよ、それきっと。お母さんなりに」とニナのなかの母親への反発を和らげようとした。「それ以上悪いことにはなってないって、お母さんも思いたいんじゃない?」

 何かを飲みこむような短い間があった。それでも結局飲みこむのはやめにしたらしく、ややあって「そういうとこ嫌い」という悪態がぼそりと返ってきた。

 母親のことか、それとも母の肩を持つかのような椋のバランス感覚を指しているのか、その両睨みから発せられたのかは確かめてもいいことはなさそうだ、と長いつきあいから椋は感じとった。

「とりあえず、そっち行くよ」とだけ代わりに伝えた。「ちょっとかかると思うけど」

「ん」

 ニナの反応はそっけなかった。それでも、ニナがそれを望んでいることは間違いなかった。もはやすべてがうまくはいっていなくても、椋に必要なときニナがそうしてくれたように、彼女に必要なときにそうすることに迷いはなかった。

「ついたら連絡するね」

 そう告げて通話を終えると、母が「どうしたって?」とカウンターキッチンごしに訊いた。カウンターにはトーストとウィンナーが載った皿とサラダの小鉢が用意してあった。

「ニナのおじさんが見つからないって」

 通話中に椋が発した内容から、すでに大方の事情は察していたようだった。「どうしちゃったんだろうね」と思慮深い声音でもらしつつ、スイッチが切れた電気ケトルを取るとマグカップに湯を注いだ。「七浦ななうらさんとこ――関係ある感じ?」

「どうだろ。わかんないけど」

 現状ニナにもわかっていないのだから、椋にわかるはずもなかった。カウンターの皿と小鉢を受けとってテーブルに置き、ドレッシングの分量が椋の好みからするとやや心許ないサラダをフォークでつつきはじめると、インスタントコーヒーが入ったマグカップは母がカウンターを回りこんでテーブルまで運んできた。

「とにかくじゃあ、早いとこ食べて準備しなきゃね」カップを置いて、その手で椋の寝ぐせのついた髪を軽く引っぱった。「時間かかるんだから」

「わかってるって」

 口ではうざったくあしらいつつも、椋は母の手を払いのけなかった。昨夏までの椋だったら、迷わず左手でぞんざいに振りはらっていた。年明けごろまでなら、触らせるどころかそもそも近づかせなかった。その時期を経ているから、再び今こうできる価値を口にするのに母が慎重になっているのもわかった。

「終わったらそのままでいいからね」

 後片づけより約束を優先するよう念を押して、母はキッチンへ戻っていった。母がパートを辞めてもう半年以上になる。その責任を椋に背負わせないためなのだろう、「家にいたらいたで、やること全然なくならないっていうね」が最近の母の口癖だった。決して安くない金を出してくれている予備校に、いまだまともに通えずにいることを咎めることもなかった。

 カウンセラーの助言が頭に浮かんで、すぐに椋はそれらについて考えるのをやめた。やめるにはほかのことをするか、ほかのことを考えるのが今のところ最も実践的だった。冷めていくトーストをかじり、ウィンナーにフォークを突きたてて、七浦はもうこのことを知っているだろうか、と椋は意識的に思いをめぐらせた。その気になればメッセージアプリで連絡はつけられる。しかし彼がまだ知らなかった場合に、それを椋から伝えてどうなるものでもない。少なくとも、ニナたちに断りもなく部外者が伝えていい内容ではなかった。

「ごちそうさま」

 朝食を手早く食べおえると、母に「時間がかかる」と揶揄される準備のために洗面所へ移動した。歯を磨き、洗顔ネットで根気よく育てたきめ細かい泡で顔を洗って、二階の部屋に戻ると化粧水と保湿クリームを手のひらでじっくりと浸透させてから、こめかみにしつこく顔を出す赤いニキビのてっぺんにそっと、憎しみをこめて市販薬を載せる。洗顔のついでに濡らしておいた髪をドライヤーで乾かしおわるころには、ゆうに三十分がすぎていた。心にも時間にも余裕があるときはパックやウォーターピーリング、イオン導入なんかも加わって、一時間を超えることも少なくない。

 着替えをすませてリビングに戻ると、母はフリースのプルオーバーパーカーとスキニーパンツという組みあわせを選んだ椋を見て「ニナちゃんのチョーカーは?」と確認した。

「あるよ」

 椋は首元からステンレスのチャームがついたチョーカーのレザー部分を引っぱりだして母に見せた。チョーカーといっても細いレザーを縒りあわせたネックレスに近いもので、ニナに会うならニナにもらったものを一つは身につけるべき、という考えの母は小学一年生にハンカチやティッシュを持たせるときのように毎度確認してくるのだった。

「いいじゃん」

 フードから垂れる左右の紐の長さを調節してくれる仕草のあと、母は具体性のない褒め言葉を口にした。その気配りが椋には申し訳なくも心地よかった。

「じゃあ、ちょっと行ってくるね」

「いってらっしゃい」と快く母は送りだしてくれた。「気をつけてね」

 袈裟がけにしたショルダーに財布とスマートフォンをしまって椋は家を出た。新たな着信があることは、手に取ったときに通知ランプの明滅でわかっていた。五分後に駅へつくと、ホームの丸く太い柱に肩でもたれて、電車を待つあいだに内容をチェックした。風はあるものの、秋晴れのすごしやすい日だった。先刻の通話履歴を表す受話器のアイコンの下に、ニナからの大量のメッセージが左揃えで連なっていた。

〈おじいちゃんたち一応警察には届けたって〉

〈でもたぶん意味ないって言ってる〉

〈部屋の荷物とか、見た感じそのままだって〉

〈電気もつきっぱなしで〉

〈最後におじさん見たの、今んとこ自治会のあの人っぽい。ママから聞いた〉

〈あの世話焼きの。でも一ヶ月以上前みたい〉

〈これ絶対あのリストのせいなことない?〉

〈なんでおじさんそんなことされんといかんの?〉

〈ニートだから?〉

〈てかにーとじゃねえし〉

〈ハーフだから? それがな・ん・な・ん・イヤまじで〉

 そこまで、長くても二分と間隔を空けずに届いていた。しかしそのあとは十五分近く空いており、そのぶん戻ってきたときにはいっそうヒートアップした文面に変わっていた。タイムスタンプによれば、椋が家を出る十数分前のことだった。

〈はあ?マジありえん〉

〈七浦のばばあ。今聞いたんだけど〉

〈自治会から、もうあのイカレご老体にも連絡がいったって〉

〈そしたらあのばばあ、これで安心だって言ったんだって〉

〈はあ⁉安心?ハア?〉

〈もしおじさん死んじゃってたらとか考えろよ〉

〈どうすんの責任とれんの?〉

〈ば・ば・あ!〉

 カワウソのキャラクターが膝蹴りを入れているアニメーションスタンプにこめられたニナの憤懣にあてられて、椋は画面から顔を上げた。ちょうど踏切の鳴る音が遠くに聞こえて、電車の到着が近いことを知らせていた。

 ニナがメッセージでここまでストレートに怒りをあらわにするのも珍しかった。椋とけんかになったときでも、ここまで乱暴に敵意をむきだしにすることはほとんどない。とはいえ人が一人、それも幼いころから知る親族の行方がわからなくなったのだから、冷静でいろというほうが無茶ではあった。

 到着のアナウンスが流れ、電車がホームに入ってくると、ひんやりした風に椋の伸びに伸びた前髪は巻きあげられた。目まぐるしくスライドしていく車両の窓に、自分とよく似た、どこか浮かない顔をした人影が映るのを椋は見ていた。いまだに捕まえきれずにいる誰かが、椋の顔をして映ってはかき消されていった。

 かつては同級生たちが、常に周りにいた数えきれない友人たちが、椋という存在をいわば外側から定義し、形作り、押しとどめていた。今、椋は同級生たちの誰にも出くわしませんように、と願いながら電車に乗りこんだ。「今日は講義午後から。そっちも?」なんてもし悪気もなく声をかけられたら――そう想像するだけで、まだ心がすくみそうになる。

 平日の昼間とあって車内はすいていた。見知った顔もなかった。椋は無人のシートの端に座って、電車が走りだすと〈今、電車乗った〉とニナに報告した。

 向かいの窓の外を、平野ののどかな街並が淡々と流れていった。大学受験のプレッシャーを引き金に受験生の一人が心のバランスをくずそうと、風評にさらされた大人が一人、人知れず行方をくらまそうと、街は何事もなかったかのように静かに佇んでいる。前日に降りつづいた雨で澄みきった秋の陽気が、遠くの山を空よりも一段深い青に染めていた。

〈怒ったらおなかすいた〉

〈チーズケーキ食べたい。チーズケーキ食べたくない?〉

 一駅もすぎないうちに、立てつづけに届いたニナのメッセージはもういつもの調子だった。買ってきて、という要求に等しい提案に〈いいね〉と返すと、瞬く間に既読になり、意気投合を表す筋肉隆々の腕をクロスさせるスタンプが送られてきた。

〈よろ〉

〈セブンのやつとかでかめへんさけ〉

 縁もゆかりもないはずの唐突な関西訛りでニナの依頼は締めくくられた。

 改札を通るときに使ったICカードのチャージ残高にまだ余裕はあったはずだよな、と頭をめぐらせながら、椋は、何事もなかったかのようにチーズケーキ代の心配をする自分もまたこの街の加担者にすぎないことになぜだか少し慰められる思いがした。




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遠く青く染まる 十市 社 @TohchinoYashiro

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