「お前……まさかバージェのっ」

 ほとんど言い切ったところで、ランスは言葉を呑み込んだ。誰に聞かれるわけでもないのに、思わず呑み込んでしまった。もはやそれは禁句タブーだったのだ。においては。

 リゼの背中に生えた、純白の翼。

 それはまさしく、リゼが〝バージェの民〟であることの表徴だった。

「お前を追いかけてた連中は、その翼を見たんだな」

 先ほどの執拗な追躡ついじょうを思い返しながらランスが問いかける。すると、案の定、リゼはこくんと肯いた。

 有翼人種ウィングドの翼の形状は民族によって異なるが、バージェの民のそれはカラスのものとよく似ている。雄々しくて、あでやかで、美しい。

 彼らは、その容姿が災いし、歴史上どの有翼人種よりも悲惨な運命を辿ってきた。見世物として晒され、慰み物として扱われ、身も心もボロボロになるまで弄ばれたのだ。——人間によって。

 それゆえ彼らは人間を憎み、恨み、深いたにの底へと身を潜めた。人間の足などとうてい及ばない、深い深い渓の底。太陽の光も満足に届かないようなその場所で、外界との関わりをいっさい断ち、ひっそりと暮らしている……はずなのに。

「どうして、渓から出てきた?」

 ちり、と空気がひりついた。このときのランスの顔つきは、この日いっとう険しいものだった。

 問いかける、ではなく、問いただす。静かに放ったその声は、肉迫せんとする勢いをどうにか抑えているようでもあった。

 リゼ自身、知らないはずはないのだ。有翼人種、とりわけ、バージェの民にとって、世界がどれほど残酷なものであるかを。どれほどの同胞が、痛めつけられ、穢され、その尊厳を踏み躙られてきたかを。

 雨音が、さらに強さを増す。

 容赦なく、小屋を殴りつける。

「どうしても……見て、みたくて。この目で、確かめたくて」

 これまであまり口を開かなかったリゼが、ぽつりとこぼした。

 たどたどしく、まるで琥珀糖のような声を、一音ずつ並べていく。

「空があおいこととか、海があおいこととか、山の色が……季節ごとにちがう、こととか」

 もつれた内心をほどきながら、つたない語彙を懸命に繋いでいく。

「渓のみんなが言ってること、嘘じゃないと思う……けど、それだけが、ほんとうに正しいのかな、って」

 訥々とした語り口。しかし、小柄な体の奥に秘めた強い意志は、ランスにじゅうぶん伝わった。昨日今日芽生えたわけではない、ずっとずっとリゼの中に息づき、色づいていたもの。

「わたしは、外の世界が、識りたい」

 単純な好奇心とは異なる、純粋な知識欲。

 感心すべきか憫笑すべきか……あんな目に遭ったにもかかわらず、リゼの気持ちは寸分も変わっていないようだ。

 リゼの双眸が、揺らめく暖炉の火を映す。

 ゆらゆらと、めらめらと、黄金色の中で明滅する。

「……お前の意志が固いのはよくわかった」

 ふうと、ランスはひとつ息をはいた。自身の外套を引っかけた椅子に腰を下ろし、両膝に両肘を乗せる。

 リゼの顔を見上げる。掬うように。

 炯々と、黒瑪瑙が光を放つ。

「けど、親御さんは心配してるんじゃねぇか? その様子だと、何も言わずに出てきたんだろ?」

 険しい顔つきそのままに、彼の追及は続いた。

 容姿から推察するに、リゼはおそらく十代なかば。まだまだ子どもだ。こんなふうに外に出るまでは、両親にかしずかれて暮らしていたはず。

 子どもを持つ身ではないが、突然子どもがいなくなった親の気持ちは想像にかたくない。今ごろ必死になって探しているだろう。

 ところが、リゼから返ってきた答えは、またもランスの予想をはるかに超えるものだった。

 ——絶句した。

「お母さんは、少し前に、病気で死んじゃって。お父さんは、いません。会ったことも、ないです。……お父さんは、人間、だから」

 いや、まさか。そんな。でも。

 たしかに、人間と有翼人種の生殖は可能だ。いわゆる交雑種ハーフは、けっして多くはないが、この世界のどこにでも存在する。

 しかし、バージェの民と人間の交雑種は〝存在しない〟というのが通説だ。歴史的にも地理的にも、2つの種が交わることは考えにくい。

 驚愕するランスをよそに、リゼは話を続ける。

「わたし、みんなより翼が小さいから、じょうずに飛べなくて。それは、お父さんが人間だからだって、言われて」

 よく見ると、リゼの翼は小ぶりだった。有翼人種が翼を広げた翼開長、その平均値は、身長のおよそ2倍。だが、リゼのそれは、身長と同じくらいにとどまっていた。あまり上手く飛べないというのもうなずける。それが、人間の父親の遺伝子を受け継いだ結果というのは、いささか受け容れがたいけれど。

「……親父さんのこと、何もわからないのか?」

「わからない、です。どこにいるのか……生きているのかさえ。……でも、お母さんは、お父さんは絶対に生きてるって、信じてました。とっても強い人だから、って」

 笑った。

「太陽みたいな、人だからって」

 リゼが、笑った。はじめて笑った。まだあどけない顔を淑女然とほころばせ、嬉しそうに。

 その様は、さながら春を告げる雪割草のように、可憐で美しかった。

 なぜ、会ったこともない父親のことを、こんなふうに話せるのか。

 それはきっと、亡き母が、優しく娘にくり返し伝えていたからだろう。


『リゼ。お父さんのように、強い心を持って。お父さんのように、広く、しなやかに、この世界を見渡して』

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