小説キャンパーズ

葉島航

プロローグ(1)

 ――事実は小説よりも奇なり。

 泉一郎は草の上に寝転び、深い息をついた。

 視界いっぱいに満天の星が広がっている。日中騒がしいセミも、この時間はさすがにおとなしい。時折、夏とは思えないほど涼しい風が吹く。

 少しずつではあるが、大学生活に慣れてきた。生まれて初めての一人暮らしに手こずりながらも、それなりに楽しい毎日だ。

 泉は身を起こし、後ろを振り返る。そこには立派な旅館と、巨大な「菖雪館」の看板がたたずんでいる。

 ここは、泉の祖父が所有する老舗の宿である。それなりに栄えていたのだが、祖父の体調が悪化し後任も見つからなかったため、一度閉めることになった。

 旅館は三階建てで、二階と三階にはそれぞれ六つの客室を構えている。一部屋十二畳ほどの広さがあるため、正面から見るとなかなかの横幅だ。荘厳な造りの瓦屋根が、一層風格を感じさせる。

 一階にはロビーと食堂、宴会場が並び、地下に大浴場が設けられている。泉も、両親に連れられてよく温泉に入ったものだった。もちろん今では、食事処の鍵は閉ざされ、大浴場の湯は抜かれている。

 明治時代から代々受け継がれてきたこの旅館は、祖父にとって、自分の肉親も同然であるらしく、何があっても手放す気はないようだ。最近、耐震工事を兼ねて大規模なリフォームをしたばかりだから、建物の耐久性に問題はない。しかし、手入れの方が問題だった――建物に人が入らなくなると、急速に老朽化する。業者に管理を委託すれば話が早いのだが、祖父はそれを突っぱねたのだ。どこの誰とも分からん馬の骨が、うちの旅館に出入りするなど気に食わん、というのがその理由だ。こうなると頑固一徹な祖父のこと、泉の両親を含む親族一同が頭を抱えたというわけである。

 看板を降ろした旅館に住み込んでくれる人を雇いたい。加えて、十二の客室をはじめとする設備へ、まめに風を通してくれる人であることが必要だ。極めつけに、その人は祖父が心を許している人物でなければならない。

 ちなみにこの旅館が位置するのは山の中腹である。人里を抜けて国道を進むと国立大学が見え、その向こうにトンネルがある。トンネルを抜けると東側にこぢんまりとした山があって、大人の足で二、三分も登れば広大な広場に到着する。この広場は砂利を敷いた駐車場であり、そのど真ん中に巨大な旅館が鎮座しているのだ。付近には商業施設も娯楽施設もない。

 泉が大学の共通試験で大失敗し志望校を変更したのは、旅館の管理問題が浮上したのと同時期である。やっとの思いで滑り込んだのが、何の因果か旅館からほど近い国立大学だった。さらに、祖父は泉のことを目の中に入れても痛くないほどに溺愛していた。

 そうして今、星空の下で、泉は明かりの消えた旅館を見つめているというわけである。

「それにしたって、マジか――」

 彼はつぶやく。

 つまるところ、彼はこの温泉宿に、四月から一人で住んでいるのであった。

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