チョキを出した俺たちは
あの日(そう、今や「あの日」とだけ言えば、日本国民の大半には伝わるはずだ)、俺はバイトでへとへとになった体を引きずって学生寮に帰った。コンビニ弁当の入ったマイバッグを机に置いて、高校の部活で着ていたジャージに着替えた。当時の俺のシフトは廃棄弁当が出る時間ではなかったため、コンビニ弁当は定価で買っていた。楽な格好になった俺は冷蔵庫から発泡酒の缶をふたつ取り出して弁当といっしょに抱え、隣室の隅田をたずねた。
その日(そう、今や「その日」とだけ言えば、日本国民の大半には伝わるはずだ)の夕方、隅田はちょうど大きいレポートを提出した直後で(本人曰くレポートを「しばいた」直後で)、とても機嫌がよかった。水滴のついた発泡酒の缶をひとつ手渡すと「俺はいまとても気分がいい」といって飲み始めた。同じ講義を取っている俺は、自室のノートパソコンで眠るまっさらなレポートを脳裏に思い浮かべた。
隅田の部屋にはテレビがあった。学生寮の部屋がとても狭いという事情のため、多くの学生はテレビを置いておらず、俺もその一人だった。だからこうして隅田の部屋に行って夕方の番組をぼーっと見ていると、きまって実家で過ごしていた頃を思い出した。
夕方のアニメが流れていた。食い入るように見るものでもないが、あえてチャンネルを変えるというほどでもない。なんとなく見続けていると、番組の終わりにある、じゃんけんの時間になった。
俺も隅田もチョキを出した。
本当になんとなくだった。
画面の中の女性が掲げていたのは、グーの札。俺たちの負けだ。
そのあとはテキトーに漫画の話をしたり、アイドルのネット番組を見たり、俺より勤勉な学生である隅田からレポートのアドバイスをもらったりしたあと、自分の部屋に帰って寝た。
俺のその日の記憶はこのような感じだ。本当になんでもない日だったことは確かだ。
翌日、朝早く電車に乗った俺は、大学生らしく「月曜日の1限に講義を入れるもんじゃない」と思った。思ったからそのようにツイートすることにした。電車が混んでいるとあまりすることがないのだ。スマホでTwitterを開くと、ツイート入力画面に遷移するまでの一瞬のあいだにひとつの投稿が目に留まった。
〈昨日のじゃんけん、みんなチョキ出してるっぽい?なにこれ?ドッキリ?〉
素朴なツイートだが、どぎつい量のいいね・リツイートが付いている。詳細を開いてリプライを確認するが、ツイートが重くてじれったい。眉間に力がかかり、鼓動が速くなる。
俺は手のひらに奇妙な汗をかいていた。
スマホを持つ右手、きのうチョキを出した手のひらだ。
片手でつり革に掴まりながら必死で情報を収集したところ、いくつかのことがわかった。
まず、テレビ局の発表によれば、昨日の視聴率はこれまでの週の放送と比較しても違いはなかった。また、放送を視聴した人の全員がじゃんけんに参加したというわけでもなく、視聴だけしてじゃんけんに参加しなかったという人が優勢だった。しかしながら、じゃんけんに参加した人は全員チョキを出した。
どうやらそのようであった。スマホから顔を上げ、体の緊張を解こうとしたところで、俺は大幅に電車を乗り過ごしていることに気が付いた。
こうして俺たちは、あの日じゃんけんに参加した全員がチョキを出したという、このうえなく奇妙な"偶然"の原因を解明することに躍起になった。サブリミナル効果を利用した心理的工作?秘密裏に行われた大規模な社会実験?
このムーブメントにいち早く目を付けたネットで有名なエンジニアによって、チョキを出した人の当日の行動について情報を集積するためのwebサイトが翌日のうちに作成された。当日の行動や服装から、気温と天候、食べたもの、見ながら考えていたこと、一緒に見ていた人の数とその関係性、見ていたテレビの型番、音量に至るまで。要するに、思い出しうる情報はすべて盛り込むことが共通認識の基本方針となった。
この文章の冒頭の内容は、そのwebサイトに俺が書き込んだものだ。隅田が名前くらい伏せてくれといったから書き込む際にはしぶしぶ「同級生のA」としたが、俺は最後まで実名を出すべきだと考えていた。というのも、チョキを出した俺たちはかつてない異常事態に巻き込まれているのだから、原因の解明のためにはどんな断片的な情報も落としてはならないからだ。
こうした奮闘もむなしく、あの日の出来事の原因として指摘できるものは全く発見されなかった。テレビ局は放送から3日後の夕方に会見を開き、放送された映像のデータを特例的に公開してあらゆる解析を受け入れることを発表した。
しかしながら、アニメの映像をどれだけ精査したところで、これだけ多くの人たちの行動を確実に操作できる心理的効果などは発見されるべくもなかった。
結果として、公開されたデータは哀れにもネットの膨大な素人目に曝されるのみとなった。物語の構成や登場人物のセリフ、色使いから効果音に至るまで、視聴者のじゃんけんの手を誘導するよう無意識的に働きかける要素があるのではないかというこじつけが行われた。つまり質の悪い大喜利の会場となった。
俺たちの心は全く満たされないままである。
本当のことが知りたいのだ。
このころ、ネット上ではじゃんけんに参加した合計人数が概算され、その全員が同じ手を出す確率が算出された。その非常に小さい確率を、パチンコのレアな演出だとか麻雀で天和が出る確率と比較した画像が話題になった。
あの日の放送以降、じゃんけんは放送されていない。じゃんけんのみならず、データ放送を利用したクイズ企画や占いコーナーも検討にかけられているらしい。どうにもアホらしいことだが、こうしたコーナーを放送すると「またあんなことが起きたらどうする」という声が一定数届くようなのだ。理屈が通っていないし迷惑なことだ。でも、気持ちはわからないでもなかった。
じゃんけんに参加しなかった人からの冷たい視線も深刻だった。どうやらあの"偶然"のインパクトは体験した人にしか理解できないらしい。俺たちはあくまで「原因の究明に勤しんでいる」のだが、傍から見ればじゃんけんの手に拘泥し続ける謎の集団がいるだけであった。このことは俺たちをたいへん疲弊させた。
放送から5日後の朝、大学をサボって情報収集を続ける俺のスマホに、同じくネット探索のさなかにある隅田からリンクが送られてきた。それはYouTuberのライブ配信だった。
〈【緊急配信】チョキを出さなかった女の子にインタビュー〉
俺はため息をつく。ひとりがチョキを出していなかったところで、既にものすごい人数がチョキを出していたことはわかっているのだから、事態の特異性はさして変わらないのだ。
だが、わずかでも情報を欲していた俺は目を奪われた。くやしいが、スマホにかじりつく。この配信は以下のような内容だった。
二人組の男性配信者がソファーに座っている。画面のもう一方の端には椅子があり、小学校低学年くらいの女の子がそわそわした様子で座っている。配信者の片方が、画面外にいるらしい女の子の父親に確認する。
「おとといの夕方、○○ちゃんはじゃんけんコーナーを見たんですね」
「はい」
「そのときにパーを出したんですね」
「はい」
「うぉ~~~!」
配信者が驚いた顔を見合わせる。コメント欄が流速を増す。父親の声はマイクから遠く、くぐもっている。カメラと蛍光灯の相性がよくないのだろうか、クリーム色の壁面に縞模様の明滅が生じている。
配信者が優しい声色を作って女の子にたずねる。
「○○ちゃん、じゃんけんしたの?」
「うん」
「パーを出したって本当?」
「ぅーん……………」
女の子はちょっと笑った。首をかしげて、画面外のお父さんのほうを見て、ちょっと笑って、胸元のボタンを触って、首をかしげて、ちょっと笑った。前歯が2本抜けている。
沈黙が訪れる。コメント欄が急速にしらける。配信者がアイコンタクトを取り、おそらくは軌道修正を行うことにしたのだろう、ソファーから腰を上げて半分立ち上がるような姿勢になり、画面外に向かって声を上げる。
「お父さんちょっと~!」
「RSA暗号の安全性は、素因数分解の難しさに基づいており、……」
講義時間はすでに半分が経過していた。教室の後ろの扉から入り、隅田を探して隣に座る。
隅田は俺より少し早く大学生活に復帰した。テレビを持っている学生の数自体がとても少ないということもあり、学内での俺たちの扱いは単なるスチューデントアパシーだった。
隣を見てみるとすました顔をしている隅田だが、じゃんけんの件に没頭しすぎたあまり、高校のころから付き合っている彼女とかなり険悪な状態にあるとのことだ。
あくびをかみ殺して暗号学の講義を聞く。連日の不規則な生活がたたった寝不足に加え、そもそも休んだ数コマ分のビハインドがあるため、内容は普段にもまして耳から耳へ素通りしていく。
「……たとえば私たちの毎日の生活に欠かせない通信は、まさに暗号によって安全に……」
俺は手元に置いたスマホをもてあそぶ。ここ数日じゃんけんの調査にフル稼働させたせいで、なんだかいつもよりべたべたしている気がする。
結局、真相の究明は諦めるしかないのだろうか? 俺たちはもう本当に疲れていて、心のどこかでは、あれは実際ただただ珍しいことが起きたのだ、という形で済ませたいとも思い始めていた。隣からはスピーという寝息が聞こえて、俺ももう起きていられない……
「………つまり、もしも攻撃者が膨大な素数の中からたまたま当たりを引けば暗号は突破されてしまうのですが、まあ、そんな低確率な事象は起こらないわけです」
冷たい場所へ吸い出されたみたいに急激に目が覚める。聞き逃してはいけないフレーズを無意識が捉え、意識が勢いよく引き上げられる。つまり、このとき、俺はこういうことを思っていた:「とても低い確率」、これが俺たちにとってなんだというのだろう? 俺たちはとんでもなく低い確率でしか起きない事象を体験した。誰が何と言おうと体験した。それは実際に起きたのだ。
俺たちは何をすればいいのか? どこへ行けば答えがわかるのか?
講堂がぐるぐると回りはじめる。これまでの人生で頭の中に蓄積されてきた確率や統計に関する直感が急速にリアリティを失い、形がくずれ、ギュンギュン揺れる脳みそから猛スピードですり抜けていくようだった。
そうしてついに眠気に負け、俺は机に突っ伏した。
あらゆる解決から見放された俺たちのいくつかの落胆を記して、この話は終わる。
一連の騒動によるほとぼりもある程度冷めた頃、俺と隅田は、サブスクやキャッレス決済、ネットショッピングなどの退会手続にめちゃくちゃ詳しくなっていた。もちろんクレジットカードなどはもってのほかだ。飲み会で俺たちだけは現金しか持っておらず、支払いの際に不便するということも頻発した。個人情報を通信に乗せること全般も嫌になり、可能な限り対面での、紙での手続きを選んだ。
じゃんけんに参加しなかった大多数の人たちからは、本当にくだらないこだわりに見えるだろう。それでも、スマホに重要な情報を入力するとなると、頭の中に漠然としたハッカーのようなやつが登場して、
「うおっ、これ本当に突破できることあるんだ、ラッキー♪」
と言い出すから、そういうときにはあの日チョキを出した右手が汗をかいて止まらないのだ。
仮にこの先、生活の不便さに折れることがあったとしても、確率に関する直感は完全には元に戻らないだろうと思う。
遂には、「このたびの奇跡はファーストコンタクトである」という見方も登場した。すなわち、人類より上位の存在によって引き起こされた、メッセージ性のある事象なのだと。突拍子もない意見ではあるが、なんとかして奇跡に理由を見出したい気持ちはよくわかった。なんというか、これはとても苦々しい気持ちなのだ。
ネット番組のニュースコーナーで司会者が言う。
「もちろん珍しいことではありましたよ。でも神様?からのメッセージだっていうのは、さすがに、ねぇ」
コメント欄に「w」の文字が増える。コメンテーターが半笑いで続ける。
「まあメッセージでもいいんですけど、僕の話したいことはそれとは関係なくて。今回の件が実際にとある数字に表れてるらしいんですよね」
「はい、このような調査結果が出ているようなんです」
応えたアナウンサーがモニターを遷移させると、三本の棒からなるグラフが現れた。それぞれの棒にはグーチョキパーが書き込まれている。
チョキの棒だけ少し短い。
「チョキを出す人が減っている、ということでねぇ」
寝そべってスマホを真上に掲げて観ていた俺は、事の顛末のあまりのばかばかしさにスマホを落っことしそうになった。「ほかにする表情がひとつもない」という理由で自動的に浮かぶ、気の抜けた消極的な笑みが存在することを俺は初めて知った。
「やっぱり、あの体験をしたらもう(チョキを出すのは)怖いんですかね?」
「じゃあこれからはパーを出すのがいいですね。勝率が高いんで。まあ、そしたらチョキを出す人の数もじきに戻ってくるんじゃないでしょうか(笑)」
チョキを出した俺たちは、なにをする必要も、どこに行く必要も別になく、なんとなく気持ちの悪いそれからを過ごすことになる。
後日、隅田の部屋で以前より更に安い発泡酒を飲んでいると(俺はバイトをクビになった)、夕方のじゃんけんコーナーが復活していた。
隅田はグーを出した。
俺はチョキを出した。
画面の中の女性が何を出したのか、俺たちは覚えていない。
時が経ってどうでもよくなることでしか今回の件は解決しないだろうということ、そして、そのようになってくれればもうそれが何よりだということに、納得し始めていたからだ。
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