弔いの場所

りりぃ

第一話

 最後に弔いの涙を流したのは、ひと月前だった。

奥さんと一人娘の、三人家族。まだ肌寒いけれど冬のコートはうっとうしい、三月半ば。「高校、ちゃんと卒業したよ」と泣き笑いを浮かべる娘に、その人の唇は微笑むように動いた。それが、最期だった。


 夜勤明けの帰り道、私は墓園に立ち寄った。墓園といっても、不気味な雰囲気はまったくない。一周するのに、早足でも三十分以上はかかる広さがあり、犬の散歩やウォーキングをする人の定番コースになっていた。中央にはトイレと水飲み場を備えた広場があり、休日にはボール遊びをする親子連れなどもみられた。その広場の隅のベンチが、私の弔いの場所だった。

 私は静かに腰をおろした。ベンチのきしむ音、風の音、遠くで吠える犬、かすかに聞こえるエンジン。しばらく何も考えずに耳を澄ましていると、やがて足音が近づいてきた。

「誰かステったのかい?」

 私は小さく笑って振り向いた。いいえ、と答えるとおじいさんは安心したように頷いた。

 もうすぐステる人が入院してきたんですと言おうとして、やめた。

「すっかり板についてますね、業界用語」

「せっかく教えてもらったんだ、使わないと損だろう」

 医療現場では人が亡くなることをステルベンといい、誰々さんがステった、という風に使うと教えてから、おじいさんはその言葉を私との会話に取り入れるようになった。

「小夜さんに教えられなかったら、一生なんのことかわからずに終わっただろうからなぁ。人からものを教えてもらうというのは儲けもんだ」

「業界用語って改めて誰かに教えてもらうわけじゃないから、なんとなく耳から覚えて、改めて自分で調べてなるほどってなるんですよね」

「看護学校では習わんのかい?」

「いえ、まったく」

 おじいさんが隣に腰をおろすと、ベンチが大きくきしんだ。壊れる前に取り替えようかなどと呟いているおじいさんを横目に、私は初めて〈ステンベン〉という言葉を耳にしたときのことを思い出した。

「今でこそ何も思わずにステるステるって言ってますけど」

「ん?」

「初めて聞いたときは、嫌な響きだと思いました。物を棄てるの棄てるだと思ったんです」

「ふむ……なるほど」

「思いませんでした? 私が初めて言ったとき」

「……いいや。なんという意味だろうとは思ったが、そこまで回らなかった。君と初めて会ったとき、君はどうしたのかと思うほど号泣していたからね」

「……そうでした」

 あれから二年になるのに、ここはまったく変わらない。

「さて、掃除に行くとするか」

 けれど立ち上がるおじいさんの背中が少しずつ小さくなっている気がして、私は目を閉じた。夜勤明けの倦怠感と、ここの思い出をなぞりたい気持ちとが相まって、当分立ち上がれそうにはなかった。


     ☆


「死ぬってね、すごく怖いことだと思うでしょう」

 繚子さんは、そう言ってさもおかしそうに笑った。

「余命の宣告をするかしないかって難しい問題だと思うけど、でもね、わかるのよ。改めて大先生に言われなくたって、わかるの」

 私はどういう表情がふさわしいのかわからず、ベッドサイドに立ち尽くしていた。病室は4人部屋だが、今は繚子さんと私の二人きりだった。初夏の日差しが眩しくても、繚子さんはカーテンを閉めることを嫌がった。

「でも、突然なんでしょうね。今はこんなに元気なのに」

 わざとらしく腕回しをしたり、足踏みをして見せる。

「死ぬときって、もっと前々から弱っていくものだと思ってた。腰が痛くて節々が痛くて歩けなくなって、食べれなくなって、寝たきりになって、目をあけていられなくなって、まぁ四十そこそこで腰が痛くちゃ、やってられないか」

 足踏みをやめて、繚子さんはベッドに腰掛けた。

「喋りすぎね、わたし。ごめんね、血圧を測りに来たのよね」

 左手をまっすぐこちらへ伸ばす。よく日焼けした腕は、まるで枯れ木のようだった。私は下手な作り笑いを浮かべて、血圧を測り始めた。軽く触れた指先にはあたたかさが伝わってこなくて、枯れ木に流れるやる気のない血の熱に、私は怒りたい気持ちになった。

 繚子さんに脳腫瘍が見つかったのは、半年前のことだった。

 地域のバレーボールサークルに入っていた繚子さんは、なんとなくボールが二重に見えてきたのが始まりだったと話していた。試合ではミスを連発するようになって、チームを引っ張ってきたエースとして悔しかったと、明るく笑っていた。

 今はまだ元気なのにという繚子さんは、嘘つきだ。平気そうに歩いているけれど、足がうまく動いていない。飲み込む力が弱くなっていて、本当に小さく切ったものでないと上手く食べられない。普通の水はむせてしまうから、飲み物にはとろみ粉を混ぜてゼリー状にしている。お喋りしたあとは、息切れを隠すように下を向いて雑誌をみている。さっきみたいに笑いかけるときだって、私の姿は幾重にもぶれているはずだ。

 それでも、何も知らない人には、元気に見えるかもしれない。繚子さんは病院のパジャマを着ることを嫌って、バレーボールチームで作ったというTシャツと、ジャージを着て過ごしていた。たとえば廊下に立っている姿だけを見れば、誰かに面会に来た家族にも見える。

 どんな結果だろうが自分で聞きたいと強く希望し、医者から告げられた検査結果は、治療対象にはならない、末期だった。今の状態が奇跡といっていいくらい、腫瘍は大きく、パソコンに映し出された検査結果の画像は、経験も知識も乏しい私から見ても、異質なものだった。

 すべての検査が終わって、繚子さんは一度退院した。タイムリミットがわかったから、思いっきり好きなことをして過ごせるわ、と楽しそうに笑っていた。繚子さんはきっと、手当たり次第にやりたいことをやったのだろうと思う。半年の間に海外旅行に四度行った疲れが溜まったのか、それとも確実に身体が蝕まれていった結果なのか、買い物先で倒れて運ばれてきたのが、つい三日前のことだ。幸い意識はすぐに戻り、大きな身体の変化もなかったが、半年前とは明らかに違う繚子さんの様子に、私は戸惑った。

 こんなにべらべらと喋る人だったか、こんなに、血の気のない枯れ木のような腕だったか。

 血圧計をはずすと、繚子さんは「少し疲れた」と言って横になった。

「リハビリまで少し休んで、たくさん運動できるようにするわ」

「無理しないように、頑張ってくださいね」

 ぎこちなく会釈をして、私は病室を後にした。

 数分後、繚子さんの部屋の前を通りかかった私は、思わず立ち止まった。

 繚子さんはイヤホンをして小さくうずくまり、泣いていた。


      ☆


 夜勤明けの翌日は休日だったが、私は墓園へ出向いた。休日に行くのは初めてだった。

「珍しいね、真昼間に」

 一通り墓園のごみ拾いを終えたらしいおじいさんが、私のもとへやってきた。広場には、親子連れが三組、ぶらぶらと散歩していた。

「ちょっと、思い出したいことがあって」

「その年で物忘れとは思いやられるなぁ」

 おじいさんはからからと笑い、私も小さく笑った。

「ここに初めて来たときのこと、思い出したくて」

「ぼくのぽんこつな記憶でよければ、教えてあげようか」

 おじいさんはゴミ袋をベンチの脇に置いて、ゆっくりと腰掛けた。

「あれは、二年前の今頃か……いや、もう少し前かな。五月に入る前だ」

「そうですね、仕事を始めた、その月だったはずです」

「君はとにかく大泣きして、一本向こうの通路を歩いていた。その細い砂利道を歩くのは、よっぽど墓園に慣れている人か、近道をしようとして道に迷った人だが」

「私は道に迷ったほうですね」

「でも、近道をしようとしたわけじゃないだろう? 泣きながら何かを求めて無我夢中で歩いた結果、たまたまその通路に入り込んでしまった」

「……正直、どこをどう歩いてたどり着いたかわからないんです。近所にこの墓園があるのは知っていましたけど、入ったことは一度もなくて」

「何故泣いていたのかは、思い出せるのかい?」

 きっとすべて覚えていながら尋ねるおじいさんに、私は素直に頷いた。

「理由は思い出せます。でも感情が上手く思い出せなくて」

「ほう……感情が?」

「私は、ショックで悲しくて腹立たしくて、泣いたはずなんです」


 文字通り右も左もわからない、入社して三週間ほどたった日のことだった。

 心停止を告げるモニターのアラームが鳴り響き、その赤い光を見た瞬間、思考が停止した。

 病室に看護師が集まり、医者が駆けつけ、家族が泣きながら名前を呼ぶのが聞こえた。親戚たちが病院に到着するのを待ち、死亡確認が行われるのを、私は部屋の隅でただ見ていた。

「死後処置、やったことないでしょ? 一緒に入りなさい」

 てきぱきと処置の準備をする先輩が、立ち尽くす私に声をかけた。言われるままにただ物を運んで手を動かした。冷たくなり始めている身体にそっと手をかけた瞬間、私は急に、思い出した。

 私は、数時間前にも、この身体を拭いたのだ。確かに温もりがあるこの身体を拭いて、パジャマを着替えさせて、確かに生きていたこの人に触れていた。布団を掛けて枕を直して、そのあと、点滴をするために針を刺した。慣れない手で針を刺した瞬間、声は出さなかったけれど、この人はかすかに顔をしかめた。確かに痛がっていた。針先に血がのぼり、針は無事に血管の中に入っていった。だって私はわずかに逆流してきた血を見た。確かに生きた血管がそこにあった証拠だ。確かに、確かにこの人は生きていた……!

「外に出なさい」

 先輩の声で顔をあげたが、涙で視界が歪んでいた。手も震えて、まともにタオルを持っていられない。足の力が抜けて、立っているのがやっとだった。

 すみませんと小さく謝り、私は部屋を出た。事情を察したらしいスタッフたちが、ナースステーションの奥で休むように声をかけてくれた。連れられるまま私は奥の小部屋に入り、椅子に座り込んだ。

 小さく聞こえるスタッフたちの声を、私はぼんやり聞いていた。


(今日あたりステると思ったのよね)

(もう少し持つかと思ったけど、朝方やばかったもんねぇ)

(奥さんもずっと付きっ切りで……)

(でも九十いくつでしょ、頑張ったね)


 しばらくして部屋に入ってきた先輩は、静かにこう言った。

「仕事中に泣くのは、プロ失格」

 私は黙っていた。

 腫らした目でその日の仕事は何とか終えた。外に出た瞬間、様々な気持ちが押し寄せてきて、私は泣きながら歩き出した。家にはすぐに帰りたくなくて、でも人目につくのは嫌で、小道に逸れたのだと思う。そうして抜けた先は、墓園に繋がっていた。


「君は来るべくしてここに来たんだよ」

 おじいさんが言うと、何だか説得力があった。

「君は、いくつもの感情を一気に抱えてしまって、爆発してしまったんだね」

「そうですね……きっと一番は、悲しみです」

「そうだね。悲しみ、そして怒り、疑問、失望、驚き、不甲斐なさ、すべてが対立していたんじゃないかな」

「……死人に、初めて触れました」

 おじいさんは優しく頷いた。

「ただ死人を目の当たりにするより、きっと悲しかったんです。数時間前の、生きたその人を知っていたから、ただ、信じられなかった。いえ、理解はできるんです。でも、確かにさっきは生きていたのにって思うと……何がいつ変わったのか、わからなくて」

「そうだね。わかる人なんていない。ただ、受け止めるだけなんだよ」。

「泣いちゃいけないって怒られました。人が死んでも泣いてはいけないだなんて、納得できなかった。そんなの人としておかしいって思いました。たった今死んだ人の前で平気な顔してるなんて」

「確かに平気な顔をして、平気な気持ちでいたらおかしいね。でも、今は少し違う風にも思えるんじゃないのかい?」

「そうですね……」

 おじいさんは思いを引き出させるのが上手い。言いたいことを言いたいタイミングで言えるように、心のひらき具合をそっと調節してくれる。

「泣いてたら仕事にならないのも事実ですから」

「でも泣かないのがいいことじゃない。人の死を悲しんで弔う気持ちは、忘れちゃいけない大切なことだ」

 だから弔う場所を作ればいい。他にいい場所がないならここなんてどうだろう、と。初めて会ったあの日、おじいさんはそう言った。

 その日から、ここは私の「弔いの場所」になった。誰かがステると必ずここへ立ち寄り、仕事中にこらえた涙を、空っぽになるまで流した。

「この場所で泣いてるとき、私は安心できたんです」

「安心?」

「他の人の心なんて見えるわけじゃないから、本当のところはわからないですけど。みんな、平気そうに見えるんです。いつ頃ステるだろうとか普通に話して、手際よく死後の処置をして。そんなふうになるのが、怖いと思いました」

「そうだね」

「いつか自分もそうなってしまうのが怖くて、だから泣いている自分に安心できたんです。泣いている私は、大丈夫って」

「泣くことが気持ちの表れなら、それで充分だよ。それが正しいとか間違いとかじゃあないんだから」

 泣いていた私が正しいと言われなくて、何だかほっとした。でも、今の私をおじいさんは何と思うのだろう。その時にならないとわからない。けれど〈泣く〉ことから今もっとも遠い場所に来てしまったようなこの感情は、間違っていないと言えるのだろうか。


     ☆


「小夜ちゃん、振り袖は買った? それともレンタル?」

 繚子さんは雑誌の献立コーナーを眺めながら言った。

「あ……成人式ですか? 私は、レンタルでした」

「やっぱり今はそうよねぇ。買ってもそうそう何度も着ないし、もったいないものね」

「娘さん、ですか」

 少し迷って言った言葉に、繚子さんは顔をあげて笑った。

「そうなの、来年なのよ。きっとあの子ならレンタルでいいっていうと思うんだけど。ねぇ、レンタルと前撮りって、セットのところもあるんでしょう? どのくらい前に撮れるの?」

 わたし間に合うかしら、と悪戯っぽく笑う繚子さん。

「私は……夏くらいに撮ったと思います」

「夏かぁ。なら早く決めて申し込まなきゃいけないわね。あの子のん気だから、そういうの疎いのよ。間に合わせたいこっちの気持ちもわかってって感じ。まぁ、何も話していないからわかるわけないんだけどね」

 私はただ立っていた自分に気付き、慌ててお膳をサイドテーブルに置いた。食器のふたを外すと同時に、かすかな湯気が立ちのぼる。

「あぁいい匂い。今日はお肉かぁ。いただきます」

 曖昧に笑顔を作って部屋を出ようとした私に、小さな声が届いた。

「お膳、下げに来なくていいからね」

 食事はすべて小さく切り分けて、一口ずつ時間をかけないと飲み込めない。到底、下膳の時間には間に合わなかった。

 下膳に間に合わないくらいどうだっていい。娘の成人式に命が間に合わないことを、繚子さんはどう思っているのだろう。


 ナースステーションの奥の小部屋で、声を荒げている男性がいた。そこは医師が、患者やその家族に病状の説明や治療方針などを話す部屋として使われている。

 少ししてから、繚子さんの旦那さんだとわかった。繚子さんには知らせず、こっそり先生と話したいことがあって来たらしいと、先輩方が話していた。

「違う病院にも診て欲しいんだって」

「まぁね、信じられない気持ちはわかるけど……」

 スタッフの間にも、重苦しい空気が流れる。避けられない結果がわかっている第三者たち。その中に聞こえてくる旦那さんの声は、まるで駄々をこねているようにさえ思えた。勝ち目のない相手から必死に守ろうとするその叫びは、あまりに虚しくて、無防備すぎるほどまっすぐで、何にも受け止められることはなかった。それでも私は、わからなかった。自分が悲しいのか、この先どれほど悲しくなるのか、わかりそうになかった。


 数日後、繚子さんは退院した。

これ以上治療を受けることなく、残された可能な限りの時間を我が家で過ごすことを選んだのだ。あんなにセカンドオピニオンを希望していた旦那さんは、いま何を思っているのだろう。ほんの微かな希望に見境なくすがる姿は見たくなかったのに、すべての可能性を断ち切って現実を受け入れるその姿も、私はもどかしく思った。

娘さんは、もうすべてを知っているのだろうか。私は、見たこともない娘さんと自分を重ね合わせてみた。何も考えることができなかった。考えるのをやめようとして、ふと、成人式のことを思った。何が間に合って何だと間に合わないのか、そんなことを考えながら生きるのだろうか。


     ☆


 その日、墓園におじいさんはいなかった。これまでも会えないときは何度かあったのに、私はやけに不安になった。

 おじいさんは、墓園の近くに一人暮らしをしていた。数年前に病気で奥さんを亡くしてから引きこもりがちだったが、ある時思い立って、墓園の清掃ボランティアを始めたのだそうだ。市で決められた会社が管理運営をしているから、ぼくなんかいてもいなくても変わらないんだけどね、と自嘲し、墓園を綺麗にするというのは口実で、外の世界に触れていたいだけなんだよと、話していた。

 はっきりとした年齢はきいていないが、おじいさんはかなり若々しかった。以前美容師をしていたのに、自分の髪は切れないんだから困ったと、ゆるい天然パーマの白髪をひとつ結びにしていた。いつもアイロンのかかったシャツブラウスを着て、軽く袖をまくっていた。墓園の中では吸わなかったが、隣に座ると染み付いた煙草の匂いが風に乗ってきた。学校で習った肺の病気のことを次々思って、私はさらに、不安になった。


 それからしばらくは、変わり映えのない日々が続いた。特に用事はなかったが、私は何度か墓園へ立ち寄った。おじいさんはいなかった。

 患者さんがステる時に立ち会うこともなかった。だから、しばらくは〈弔いの涙〉を流すこともなかった。

 けれど。

 罰当たりなことに、私は誰かがステる瞬間に立ち会って、試したかった。自分が今まで通り、〈弔いの涙〉を流すことができるのか、試したかった。

 何故、努力してこらえなければ溢れてしまうほどだった涙が、その気配を消したのか。いざというその時に、涙が出ない自分を想像すると、私は怖かった。


     ☆


 少しの肌寒さが心地よくもある、秋晴れの日だった。定時であがることができたら、久しぶりに墓園に寄ってみよう。そう思いながら、白衣に着替える。連休明けの日勤で、なんだかからだが重い。

 病棟は、どこか落ち着きがなかった。ナースステーション内に人気はなく、向こうの廊下がざわめいている。ふと目をやった心電図モニターの一覧の中に、私は見つけた。

 ――繚子さん……!

 私は小走りになった。会いたいけれど会いたくない。見たいけれど見たくない。それでも足は止まらなかった。個室の中に、ふたりの先輩がいた。その横に、うつむいた旦那さんの姿があった。ゆっくりと部屋に入る。横のソファーに、女の子が座っていた。きっと娘さんだ。でも、顔を見ることができない。

 小さく会釈をして、先輩たちが部屋を出た。私はおそるおそる繚子さんへ近づいた。名前を呼ぼうとして、声が出なかった。

 言われなければ、繚子さんとはわからないかもしれない。

 左目は不自然にかたく閉じられ、開きっぱなしの右目は、宙をまっすぐ見据えている。筋肉どころかすべての肉がそぎ落とされ、骨だけがようやく人の形を造っているようだった。水煙のあがる酸素マスクは、顔全体を覆いそうで、呼吸を助けているとは思えない。

 もう一度名前を呼ぼうとして、やはり声は出なかった。

 頭から、角が生えていた。

 繚子さんの、検査画像を思い出す。何ともそぐわない、異質なかたまり。あれは、頭の中の出来事だと思っていた。でも、それは頭の中に確かに存在し続け、繚子さんの命を吸い上げていた。次第に大きく成長して、こうして頭の外へも、姿を現したのだ。今にもはち切れそうな、繚子さんの《角》。触れた瞬間、頭が、破れてしまいそうだ。

 私は立ち尽くしていた。

 旦那さんにも娘さんにも、気の利いた一言すらかけられずに、ただ立っていた。

 しばらくしてようやく、私は右手を動かした。繚子さんの手を、それが本当に繚子さんの手なのか、確かめるようにそっと握る。温度はない。人肌の感触もない。けれど次の瞬間、繚子さんの手は、私の手を、握り返した。精一杯の命をこめて、握り返した。

 あの日。

繚子さんにすべてが告げられたあの日。

「自分の名前の由来って、知ってる?」

 繚子さんは、紙に自分の名前を書いて見せてくれた。

「百花繚乱の、繚。色々な花が咲き乱れるように、美しく生きてほしいっていう意味がこめられているの」

 こんな姿になることを、繚子さんは想像していただろうか。最期の最期まで、こんな姿になってまで。

 繚子さんは、美しかった。


     ☆


 夕暮れ時の墓園。

 死を悼むように、空も木々も燃えるような紅だった。

「今日は、何だか会える気がしたんです」

 何の根拠もない予想は見事に当たり、私は久しぶりにおじいさんと会うことができた。

「しばらくだったね。元気だったかい」

「今日、ひとりステったんです」

「そうか……」

 いつもなら、私は泣いた。

 その患者さんとの思い出や、家族との会話を思いつくままおじいさんに話し、気の済むまで泣き明かした。けれど。

「泣くことって、弔いなんでしょうか」

 おじいさんも答えを知るはずがない。

「そういう時も、あるだろうね。でも、そうじゃないときもある。もしこの先、そういう時がきたら、思いっきり涙を流すといいさ」

 私は空を見上げた。気持ちのいい空だった。

「美しかったんです。強くて、芯があって、迷わず立ち向かっていって、最期まで戦い抜いた」

「立派だね」

 私は頷いた。なぜか自分のことを褒められたように、嬉しかった。繚子さんの弔いに、涙は似合わない。私はようやく、そのことを確信した。

「そうそう、実はね、お知らせがあるんだよ」

「なんですか?」

「なんとついこの前まで、入院してました」

 驚いておじいさんを見る。冗談のように言う様子が、心配を煽る。

「いや、大したことはなかったんだ。でも、何せ一人暮らしなもんだから、何かあったらどうするんだと娘が騒いでね。娘んちの近くに、引っ越すことになった」

「引っ越すんですか……?」

「なに、隣町だよ。自由気ままな暮らしもよかったけど、孫と戯れる毎日も悪くないと思ってね」

 隣町という言葉に安心するが、それでも寂しい気持ちが残る。

「私も、実は何かあったんじゃないかと心配だったんです。今回はよかったですけど、たしかに一人暮らしは不安ですよ。お孫さんもいるなら、よかった」

「ここは、変わらないよ」

「え?」

「もちろん変えてもいい。でも、変わらなくてもいい。小夜さんが泣いて弔いたいときは、来ればいいんだ。ごみを拾いたいときは、ぼくもここへ来るよ」

「……そうですね。ぜひ、そうします」

「ああそうだ、ぼくのときは、どう弔ってくれるのだろう」

「これは考えておくものじゃないんですよ」

 私たちは笑いあった。

「強くなったね」

「強さを、分けてもらえた気がするんです」

私はこの先、何人の死と向き合うのだろう。何人の生き様と向き合うのだろう。

「たぶん、ずっとここは、私の弔いの場所です」

人の数だけあるその生き様に。

ただその人だけの、最高の弔いを。


〈おわり〉

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弔いの場所 りりぃ @lysclair

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