ピクニック

松本育枝

ピクニック

ぼくの時計の小人が逃げた。

ぼくは止まっている時計を見て呆然とした。24時間以内に小人を探して連れ戻さないとぼくの時間も止まってしまう。すなわち「死」だ。


ぼくたちは生まれると一つの懐中時計を与えられる。それは一生大切に携える決まりだ。その中にはぼくたちの人生を時間とともに守護してくれる小人が住んでいて、生まれた瞬間からカチコチと時を刻み始める。その姿はぼくたちには見ることはできないが、それが確かにいることは時計が動いていることでわかるのだ。


今、ぼくの手の中にある時計は止まっている。それはすなわち小人が逃げたということだ。

ぼくは心を落ちつかせようとして目を閉じた。小人はなぜ逃げたんだろう。小人が逃げることは滅多にないと言われている。時計を乱暴に扱ったり携帯し忘れることが多いと、ウンザリした小人がどこかに行ってしまうこともあるらしい。でもぼくは時計をとても大切にしていた。大切にし過ぎるほどに、だ。


ぼくはふと思った。「大切にし過ぎるほどに」?もしかしたら小人はそれでウンザリしたのだろうか。ぼくは先週、恋人に会った時の彼女の言葉を思い出した。

「うん、大切にしてくれてるのはわかるんだけど、一緒に居るとなんだか疲れちゃうの」

ぼくは、ぼくの時計の小人がそっくりそのままのセリフを残して去っていったような気がした。ベッドの隣には時計専用の小さなベッド、朝起きれば一番に時計を磨き(自分の歯よりも先に)、シルクの白いハンカチで包んで大切に胸ポケットに入れて携えた。日中はもちろんぼく以外の誰にも触れさせず、帰宅すればまた磨き直し、眠る時にはベッドに置いてシルクのカバーを掛け「おやすみ」と言って眠った。


恋人にも時計にもぼくは捨てられたのだろうか。大切にし過ぎたが故に。

ぼくは恋人と小人の気持ちになろうとしてみた。でも、彼らの気持ちになるのはとても難しかった。ぼくはあきらめて、それでもとにかく彼女に会いに行こうと思った。あと少ししか生きられないなら彼女にもう一度会いたい。


彼女の家に着くと、ちょうど仕事に出かけるところだった。驚いた顔をしたが、ぼくは黙って止まっている時計を彼女に差し出した。彼女はそれを見ると、その場で会社に電話を入れて急用ができた旨を伝え、ぼくを家に入れてくれた。

ぼくは、ぼくが考えていたことを彼女に伝えた。

「君と小人は同じことを考えているんじゃないかと思ったんだ。ぼくが、その、きみたちを大切にし過ぎるってことについて。それに小人が戻ってこなければ、君に会えるのはこれが最後だから」

彼女はだまって温かい紅茶と自分の時計をぼくの前に置いた。その時計はぼくの時計とそっくりだけど少し違和感があった。なんだろうと思って見ていると、音が不自然なのだ。カチコチというのではなく、カカチチ、ココチチ、と重なっている。


「今朝からそんな音がするの」彼女は言った。

「もしかしたら、この中にあなたの小人がいるんじゃないかしら」

カカチチ、ココチチ。

ぼくはしばらく黙って時計を見つめた。そして時計に向かって言った。

「ぼくは君をとても大切に想っている。ぼく自身よりもずっと。それはわかってほしい。でもそれがもし少し負担になるなら、気をつけるよ。たとえばたまに磨くのを忘れるとか」

ぼくは顔を上げて彼女を見た。彼女は微笑しながら頬を少し赤くしていた。


帰り際、「明日は日曜日だからピクニックに行きましょう。迎えに行くわ」と彼女は言った。

「小人が戻ってきてたらね」とぼくは答えた。

彼女は黙って自信ありげにうなずいた。

翌朝、ありがたいことにぼくは目覚めた。隣にはハンカチをかけ忘れておいた時計がカチコチと時を刻んでいる。

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ピクニック 松本育枝 @ikue108

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