第2話
あれから何日がたったのか。
相変わらず、ヴィクトリアは殺風景な部屋に閉じ込められたままだ。あれ以来、なぜかレティスは毎夜通ってくる。昼間は一人になれたが、毎日レティスに夜が明けるまで好き放題にされるので、起き上がることもままならない。
ヴィクトリアは、かつての楽しかったころを思い返していた。厳粛な父と聡明な母、優秀な使用人たち。みんな、ヴィクトリアとレティスを分け隔てなく愛してくれていたと思っていた。しかし、ヴィクトリアがそう思っていただけで、レティスにとっては違ったのだ。
「ずっと自分は愛されていないと思っていたの? バカなレティス……」
手錠をかけられた両手を見下ろしながら、ヴィクトリアはつぶやいた。少なくとも、ヴィクトリアは愛していたのに。レティスを、義弟以上に。
◇◆◇◆
初めてレティスに出会ったとき、なんてきれいな子なんだろうと思った。まるで天使が我が家に舞い降りてくれたような、そんな幸せな気持ちになったのだ。
レティスは父の背中に隠れ、ヴィクトリアが差し出した手をおずおずと握った。暖かな手に触れた瞬間、子供ながらに、この子を守ってあげたいと思った。
ほのかな恋心を自覚したのは、14歳のころ。
リュクス皇国では、伯爵以上の男子は騎士になるか、文官になるかを13歳で選択しなければならない。レティスは騎士になることを選び、養成学校の宿舎に入った。
リュクス皇国では、騎士は花形職業であり、女性たちのあこがれの的だ。養成学校に通う騎士の卵たちを女性が見逃すはずはなく、学生たちもそんな女性の視線に当然気づいているため、いくら学校側が規律で縛ろうともこっそりと派手な生活を送る学生は多い。当然レティスもそんな遊び人になっていると思っていた。
ある日、ヴィクトリアはレティスに弁当を届けに行った。
本来なら、レティスに弁当を届けるのは、使用人の仕事だ。しかし、そのころのヴィクトリアは皇妃候補として、朝から晩まで家庭教師をつけられ、みっちり勉強をさせられていた。皇国の歴史から貴族たちの関係性、魔術の訓練にマナーにダンスに外国語。本当に目が回るほどの忙しさで、休息時間もほとんどない生活を送っていた。そんな目まぐるしい日々を送るうち、端的に言うと、たまっていた鬱憤がとうとう爆発したのである。どうしても一人になりたくて、こっそり使用人を丸め込み、レティスの弁当を持って家を抜け出したのだ。
ヴィクトリアにとって、一人で街を歩くのは本当に久しぶりなことで、うきうきとウィンドウショッピングを楽しみながら養成学校へ向かった。学校の門をくぐると、訓練を終え、休憩している何人かの生徒が目に入った。
「すみません。レティス・フォーベルマンを探しているのですが、ご存じでしょうか」
声をかけると、何人かが一斉に振り返る。
「フォーベルマン? あんた、いつもの使用人じゃないね」
「私は姉のヴィクトリアと申します」
「フォーベルマンのお姉さん? 公爵家の一人娘の?」
「え? ええ。弟にお弁当を届けに……」
「へえ。ついてきなよ。こっちにいるはずだ」
「ありがとうございます」
学生たちが怪しげな目配せをしていることにも気づかず、ヴィクトリアは彼らの後についていった。道中、学生たちが話しかけてくる。
「フォーベルマンのお姉さんにお目にかかれるなんて、光栄だなあ。あいつにあんまり似てないですよね」
「たしかに。でも、お姉さんもあいつに負けないくらいきれいだけど。お姉さん、あいつってちょっと変わってますよね。あんなにきれいな顔してて、女たちの間では、この学校で一番人気があるっていうのに、遊びもせず、ひたすら稽古ばかり。あいつほど付き合いの悪い男はいませんよ」
「そうそう。許されざる恋でもしてるんじゃないかって噂ですよ。同性愛者とかさ」
「まさか、弟が……」
ヴィクトリアは驚いて立ち止まる。すると、学生たちも立ち止まってヴィクトリアの方を振り向いた。
「まあ、あいつの話なんかよりもさ。フォーベルマンのお姉さん、俺たちずっとあなたに会いたかったんですよ」
「私に?」
「フォーベルマンにも何度も紹介しろって言ってたんですが、あいつ絶対に頷かなくて」
「え?」
「本当にきれいだよね、お姉さん。噂より実物の方がずっときれいだ」
学生の一人が、突然ヴィクトリアに詰め寄って、手を握る。
「やっ」
とっさに手を振りほどいた瞬間、抱えていた弁当が落ちてしまう。ヴィクトリアが慌てて拾い上げようとすると、再び強く腕を引かれ、近くにあった木の幹に背中をぶつけた。
「なにするんですか!」
「なにするんだと思う?」
答えにならない返事をしながら、学生たちはにやにやとヴィクトリアに詰め寄ってくる。
「人を呼びますよ!」
「どうぞ? さっき結界を張ったから、だれにも聞こえないと思うけどね」
先ほどから痛いくらいに腕をつかまれている。多勢に無勢だ。魔術を発動すれば、抜け出せるかもしれないけれど、父やレティスに迷惑がかからないか。無理やり冷静を保ち、考えを巡らせながらも、ヴィクトリアは背筋が冷たくなるのを感じた。
その時だった。轟音を響かせて、近くの木がなぎ倒された。
皆驚いて、振り返ると、レティスがこぶしを突き出して立っていた。レティスはヴィクトリアの腰ほどの太さのある幹にこぶしを打ち付け、なぎ倒したのだ。
「失せろ」
低い声でレティスが唸ると、学生たちはあっという間に散っていった。
レティスはゆっくりとヴィクトリアに近づきながら、口を開いた。
「姉さん、何しに来たの」
「えっと、あなたにお弁当を持ってきたの」
「弁当?」
「ええ。でも、ごめんなさい。落としてしまったの。すぐに新しいものを持ってこさせるわ。本当にごめんなさい」
レティスは無言でヴィクトリアを見つめると、一つため息をついて、落ちていた弁当を拾い上げた。
「いいよ。これで」
「だめよ。きっと中身がぐちゃぐちゃになってるわ。すぐ……」
「いい」
レティスは短くそう言うと、ヴィクトリアの手を取って歩き出した。
ヴィクトリアは弟に弁当一つ無事に届けられない自分が情けないやら悔しいやらで、うつむいて涙をこらえるのに必死だった。レティスはそのまま振り向きもせずにヴィクトリアを連れてゆっくりと歩き、校舎の裏の小高い丘までやってきた。そして、ポケットからハンカチを取り出して芝生の上に敷くとヴィクトリアに座るよう促し、自分も隣に腰を下ろした。そして無言で弁当のふたを開けて、中身を口に運んでいく。ヴィクトリアはその様子を見ていることしかできなかった。
「迷惑かけてごめんなさい」
ヴィクトリアは消え入りそうな声でつぶやいた。レティスはそれに答えず、ただヴィクトリアの頭をぽんぽんと優しくなでた。
帰り道、レティスが家まで送ってくれた。レティスとふたりで並んで歩くのは子供のころ以来だ。あのころはまだヴィクトリアの方が背が高かったのに、今ではレティスを見上げなければならない。隣に並んで歩いていると、街のいたるところでひとりの時には感じなかった視線を感じる。大半がレティスに向けられる視線だと気づいた。
「レティスってもてるのね」
「え?」
考えていたことがつい口に出てしまったようだ。あわてて言葉を探す。
「さっき聞いたの。レティスが学校で一番女の子に人気があるって。冗談かと思っていたけれど、一緒に歩いてみてわかったわ。街の女の子たちがみんなレティスのことを見てるんだもの」
それを聞いて、レティスは面倒くさそうに言った。
「どうでもいいよ、そんなこと。本当に大事な人がそばにいてくれれば、ほかには誰もいらない」
ヴィクトリアの心はどきりと跳ねた。そして、とっさに、自分のことを言われたのかと恥ずかしい勘違いをしてしまった自分を恥じた。
この時からだ。レティスのことを一人の男性として意識し始めてしまったのは。
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