𓇓 𓏏 𓊵 𓏙
中田もな
𓁹
やつの研究室には、古びた本棚があった。そこには研究書が几帳面に並んでいたり、あるいは適当に積まれたりしていた。
「何か、気になるものがあるかい?」
手元の史料から目を上げて、やつは柔らかい笑みを浮かべた。久しぶりに会ったかと思えば、随分と印象の変わった男だ。
同じ研究室にいた頃は、髪の毛は伸ばしっぱなし、銀縁の眼鏡は手垢だらけの、そんな杜撰な雰囲気だった。が、いい加減に大人になったという自覚が芽生えたのだろうか。ひっそりとコンタクトデビューを果たし、服装にも気を遣うようになったようだ。
「……原シナイ文字の研究でもしてるのか、おまえは」
俺は本棚の中段から、折れ目のついた本を取り出した。やつは「ああ、それね」と言いながら、ポリポリと頭を掻く。
「別に、ただの趣味だよ。古代文字の研究者として、基礎ぐらいは押さえておこうと思ってさ」
原シナイ文字とは、現シナイ半島で発見された、古代文字群の名称だ。ヒエログリフの影響を受けて誕生したと想定されており、アルファベットの起源とも言われている。
「でも、君も同じ気持ちだろ? 古代文字を見ているだけで、わくわくする。だから、ほんの少しだけでも、齧りたくなる」
やつは満足そうに頷くと、コーヒーを淹れに奥へと引っ込んだ。どうやら、俺と語り合うつもりらしい。「ブラックでいいかい?」と尋ねてきたが、俺はあえてそれには答えず、蛇の形をしたn音を眺めた。
「それにさ。原シナイ文字の研究は、ワディ・エル=ホル文字の解読にもつながるだろ? あの、未解読文字の――」
未解読文字。
甘くて、繊細で、妖艶な響き。
俺は顔を上げた。にっこりと笑ったやつが、マグカップを差し出していた。
「――なぁんて、君はとっくの昔に知ってるよね。未解読文字の界隈では、かなり有名なものらしいし」
「……まぁな」
未解読文字。
この言葉に、どれだけの憧れを持っていたことか。
俺が院に進んだ理由。それは、研究者になるためだった。魅力的な古代文字と、神秘的な未解読文字に踊らされて、ブラーフミー文字だとかインダス文字だとか、そういう文字を追いかけ回した。
……思えば、いつからだろうか。研究に対する熱が、すっと冷めてしまったのは。
何かが違う。そう思った。だから俺は、研究者にならなかった。博士課程を中退して、そのまま民間企業に就職した。
――いや、違う。ならなかったんじゃない、なれなかったんだ。漫画が好きなだけでは、漫画家になれないのと同じだ。研究者という職は、やはり単純なものではなかった。
分かっている。分かっている、はずなのに。研究者になったやつを見ると、暗い感情が沸き起こる。嫉妬と呼べば、容易いか。頭が押しつぶされてしまいそうな、そんな感覚に陥ってしまう。
今日だって、本当は断る予定だった。夢を諦めた俺が、夢の渦中にいるやつを見て、同じ気分になるはずがない。だが、やつの誘いがあまりにもしつこくて、結局ノコノコと遊びに来てしまった。
一体、どんな理由があるというんだ。サラリーマンになった俺を、研究者の夢を捨てた俺を、強引に誘い通した理由は。
「で、おまえは俺と下らないお喋りがしたくて、こんな埃っぽいところで待ち合わせたのか」
「まさか。是非とも君に、見てもらいたいものがあるんだ」
やつは汚い机の上から、分厚い史料を取り上げた。どうやら、石板に刻まれた古代文字らしい。やつの文字だと一目で分かる、ミミズのような殴り書きが、紙の端々に書かれていた。
「これは、『第十三番聖典』というものだ。シリアの首都ダマスカスと、古代都市アレッポの中間地点に、破損のない状態で埋まっていた」
「第十三番聖典……?」
何だ、それは。
全く、聞いたこともない。
「君が好きな、未解読文字だよ。それも、つい最近、発見されたものだ」
やつの話は右から左に、俺はじっと文字を見つめる。
何の法則性もない、いやに不気味な文字列。周辺文字との、類似点もない。
――正真正銘の、「未解読」文字。
きっと、そうかもしれない。そうなる可能性が、十二分にある。
「……十三ってことは、一とか十とかもあるってことか?」
「さぁ、どうかな。唯一分かっているのは、これは『忘れられた城』に関する碑文だってことだ」
やつは言った。この石板には、「忘れられた城」へ行くための、壮大な道程が刻まれているのだと。
「忘れられた城は、砂漠の果てにあるらしい。そこは永遠の喜びと、無償の慈悲で溢れている……」
「はぁ、忘れられた城、ねぇ――」
――おい、待て。
俺は咄嗟に顔を上げた。明らかにおかしいはずなのに、思わず聞き流すところだった。
「……おまえ、さっき、これは『未解読文字』だって言ったよな?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、おまえは――」
――何で、この石板の内容を、知っているんだ。
やつは目を細めた。その瞳は、この世のものとは思えないほど、真っ黒に染まっていた。
「知りたい?」
俺は寒気を覚えた。
𓇓 𓏏 𓊵 𓏙 中田もな @Nakata-Mona
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