(四十四)激昂
「やあ」
突然呼びかけられ、弾かれたように顔を上げると、
このかたが冠を着けておられるところを初めてみた、と崔氏は思った。
従僕の手で念入りに整えられたのであろう装束と相まって、彼の衣冠すがたは彼女が想像していた以上に凛とした風儀を
だが、そんなことを考えている場合ではないのも分かっていた。
唇は瞬時に玉環から離したものの、いまさらどうしようもなかった。
「忘れ物をしたと思って戻ったのだが、
戻ったのだが、―――――――ひょっとして、そなたが好いた男というのは、俺だったのか」
曹植はふしぎそうな顔で崔氏を見ている。彼女は呆然としたまま、小さくうなずくほかなかった。
全体に薄暗い房のなか、わざわざ舞台を選んだかのように窓際に立ち、注ぎ込む斜陽に半身が照らし出されたこの状況では、もはやどんな釈明も意味を成すはずがない。
だが、曹植の声は途端に、喜びにあふれた子どものように明るくなった。
「何ともはや、―――何ということだ。
あのときそう言ってくれれば、話が早かったものを」
「まさか、そんな、―――申し上げられるはずがございません」
彼の表情があまりに手放しでうれしそうなので、崔氏はひた隠してきた自分をつい露わにしてしまった。
「あのときそう申し上げていたら、わたし、あなたの妻になってしまった」
「それでよいではないか。万事解決だ!」
「だってあなたには、想うおかたがいらっしゃるのに」
「俺は気にせぬぞ」
「―――わたくしは気にいたします」
唐突に、自分のなかで
目の前の安堵しきった顔を見るほどに、腹が立ってたまらない。
予見なく掘り当てられた水脈のように、自分でも驚くほど率直なことばが迸り始める。
「あなたさまは、ご自分のお気持ちが楽になることしか考えておられぬのだわ」
「いや、聞いてくれ」
「うかがいません。よろしいですか。わたくしはあなたをお慕いしているのです。
あなたが妾を何人お
ですが、あなたのいちばん大切な場所を、ほかのどなたかが占めていると思うのはいやなのです。息苦しいほど耐え難いのです。
わたくしがその婦人になれなければ意味がない。形だけの妻でも本当の妻でも意味がありません。それぐらい狭量な女なのです」
「いや、決して―――」
「分かったら一刻も早く、
どうぞ、玉環です。二度となくされぬように、懐にきちんとしまわれますよう」
「あ、うん。そうする」
「どうか心なさいませ。これを所持されていることが周囲の方々に、殊に五官中郎将さまに知られたら、間違いなく大変なことになってしまいます」
「
曹植はいまさらのように、すべて腑に落ちた顔になった。
「
「―――はい」
「あの、清河の船着場の詩について話したときか」
崔氏は小さくうなずいた。
義姉上、というときの彼の発音は、その一語のためだけにとっておかれた優しさを帯びているように聞こえた。目の奥がまた少し熱くなった。
「道義の上からは、お二人が結ばれますように、とは申し上げられません。ですが」
崔氏はことばを切った。できるだけ平静に聞こえるようにと願った。
だが、次に発した声は、深いところで震えているのが自分でも分かった。
「鄴ではお二人が少しでもお近くにいられますようにと、清河からお祈り申し上げております」
曹植は困惑した顔になった。
「何か誤解しているようだが、義姉上と俺の間には―――義姉上から俺に対しては何もない。俺の一方的な感情があるだけだ」
「
それを贈っていただくような仲なのに、何もないはずはありません」
「贈られたというか、あのときはいろいろ事情があった」
「言えないようなご事情ですか」
口に出してしまってから、さすがに言いすぎだったと崔氏も思った。
だが曹植は怒気を示すでもなく、
「言えないような事情なのだ」
と短く答えた。
「―――そうなのですか」
崔氏もそれ以上は訊けなかった。
「ですが、たとえ相愛のご関係でなくとも、いましがたおっしゃったように、平原侯さまに甄夫人へのやみがたいお気持ちがある以上は、わたくしが入る場所などありません」
「いや違う、それはだな―――」
「ともかく、玉環を速やかにお持ち帰りください。
今度こそ厳重に、―――墓室にまで持ってゆけるように、腕にでも首にでもくくりつけておかれますように。
今度失くされたらもう、届けに行く者などありません」
「え、そうなのか」
「そんな暇はなくなります」
「―――そなた、ああは言っていたが、実はすでに婚約が定まろうとしているのか」
「今はまだですが、近いうちに必ず、そのときは来ます」
「ならば俺に嫁げばよかろう」
(―――どれほど人の話を聞いておられぬのかこのかたは)
崔氏はもはや最後の忍耐の緒も切れて一歩踏み出し、相手が列侯であることさえ忘れてその頬を張ろうとした。
自分の真情が全く届いていないことで、ほとんど侮辱されたような気持ちになったのだ。
手はすんでのところで押し止められた。
「お放しください」
「かくも気性の激しいむすめだとは知らなかった」
「わたくしが好きだと申し上げたからとて、妻でもない他家の婦女子に触れていいことにはなりません。お放しください!」
「どうしても、俺のいちばんでなければだめか」
曹植は静かな声で尋ねた。
その凪のような平らかさに打たれて、崔氏の昂揚はふいに収束した。
「だめです」
「俺は順位をつけない主義だが」
「けれど、あなたのなかでは誰も甄夫人に代わることができない。それをご自分で分かっていらっしゃる」
「だがそなたも代えがたい女だ。今からそうなった」
「ひとを愚弄なさるのですか」
「そうではない。―――そなたの言うとおり、あのかたはたしかに、何というか、俺には永遠の神女だ。
だが、
「ならばお好きなだけ
「口のほうも意外と辛辣だな。分かっていようが、俺が言うのはそういうことではない。
つまり、―――俺は超俗の天人でも神仙でもない。
報われない思慕に殉じて
あのかたとは別に俺の前には現実の人生があって、一個の男児として天下に遂げたい志もある。
そのための道をともに歩む伴侶がいたらいいと、いま初めてそう思ったのだ。
たとえ父母から命ぜられることがなくとも」
崔氏は黙りこんだ。
何か厳しく跳ねつけることを言わなくてはと思ったが、うまくことばが見つからなかった。
「―――なぜ、そんなふうに思われたのです」
「それぐらい真剣に好いてくれるなら、俺の有り余る欠点を見逃してくれるばかりか、埋め合わせてくれるだろうと思ったからだ」
「―――あなたというかたは、ひとから与えられることばかり考えていらっしゃる」
「そうなのだ。自分でも問題だと思っている」
崔氏は呆れるあまり何も言えずに曹植を見た。
いつでもどこでもくつろぐことのできる彼にしては、珍しく深刻な顔をしていた。
このかたの最大の問題は、と崔氏は心から苦々しく思った。
(こうしてそばにいるだけで、どうにかしてさしあげたいという気持ちにさせられることだわ)
そしておそらく、彼の父母兄弟や家臣たち、さらには友人たちも、ときに愕然とさせられときに本気で腹を立てながらも、最後には同じ気持ちになるのだろう。
崔氏としては十分、猛々しい憤りに満ちた表情をしているつもりだったが、どうやら傍目には、頬を染めてうつむいているだけらしかった。
彼女がそれ以上何も言わないのを見て取ると、曹植はふと指を彼女の顎にかけ、己のほうへ顔を向かせた。
彼のほうが少し目線が低いにもかかわらず、崔氏のなかで、昨日この房で押し倒されたときの視界の暗さがふとよみがえる。
いま芽生え始めた怖さはあのときの比ではない。
本能的に目を閉じると、温かくやわらかいものが唇に触れかけ、全身はたちまち硬直した。彼の顔が離れた。
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