(四十二)遺失

 窓の外の遠いところで、族父たちの声が散り散りになりほぼ聞こえなくなったころ、崔氏もそっと自室を後にした。

 自分の手で片付ける旨を族弟妹たちには伝えておいたので、曹植の寝所としてあてがっていた一室はそのままになっている。


 ひとりきりでなかに入ると、彼のために別室から運び入れた文具や調度品類を片付け始めた。

 ごくかすかに、けぶるような墨の香りがそこかしこに残っていた。

 紐解かれることのなかった何束かの竹簡も、漆の光沢がまだつややかなひじかけも、あっけないほどすぐに片付いてしまうものだった。


 最後に寝具だけが残った。

 これも日干しのために屋外へ運び出そうと膝を床に着いたとき、ふと光るものが目に入った。

 しとねしわの間から控えめに顔をのぞかせるそれは、あのとき曹植が水中に投じるのを思いとどまった玉環だった。


(お忘れになったのだわ)


 手放そうか手放すまいか、春先の冷たい川水に膝まで浸りながらあれほど真剣に悩んでいた至愛の品なのに、なぜこうも簡単に他人の家に置き忘れてゆくことができるのか。


 たった十数日間の滞在でも、生活全般における彼の鷹揚おうようさ、というかいいかげんさを崔氏は身に沁みて分かったつもりでいた。

 しかしそれにしても、古今の詩賦を何十万字と暗誦し、崔家の書庫目録も一度目を通せば頭に入ってしまう集中力の塊のような青年が、こんな大事なものを平気で置き忘れてゆく粗忽者と同一人物だとはとても思いがたい。


(本当に、ふしぎなかた)


 なかば驚きなかば呆れながら、それでも崔氏は胸の鼓動が早まるのを抑えられなかった。

 少しでも力を込めれば砕けてしまう泡沫に触れるかのように玉環を拾い上げ、おそるおそる掌に置いてみた。大きさの割には重い材質だった。


(もう一度だけは、あのかたに会いに行ってもかまわないと、―――これは、天の計らいだろうか)


 平原侯一行は騎兵にも馬車にも駿馬をそろえているとはいえ、携行する行李の類も多いため、それほど早くは街道を移動できないはずである。

 たとえ崔家の農耕馬でも、御者と婦人ひとりを乗せた軽装の車を引くだけならば、日が落ちるまでには確実に追いつけるであろう。


 もちろん、本来ならば女子である自分の出る幕ではなく、族父であれ族弟であれ、男の族人に預けて届けてもらうべきである。

 だが第三者を介する場合、この玉環を布にくるんで託す際には「決して中を見ず、平原侯さま以外の人目に触れぬようにしてください」と言い含めざるを得ない。

 すると、まるで盗品か何かのように要らぬ注意を引き、ひいてはその話題がどこかで漏れることになるだろう。それは絶対に避けねばならなかった。


(わたしが、お届けすべき―――わたししか、届けられないのだ)


 崔氏は声もなく玉環を見つめながら、なめらかに磨き上げられたその外縁を指先でそっと撫でてみた。血液の循環とともに少しずつ、温かいものが全身に染みとおってゆくような気がした。


 あのかたにもういちどお会いできる。路上の一瞬ででもいい、もういちどことばを交わしたい。最後まで言えなかった大切なことを、最後の最後にお伝えしたい。


(―――愚かな)


 崔氏は首を振った。

 憐憫れんびんを乞うような拙い情を告げて、あのかたを困惑させるわけにはいかない。最後の最後に苦い思いを抱かせて、この地を後にさせるわけにはいかない。


(あのかたに、幸せであっていただきたい)


 その気持ちだけは真実だと、自分でも信じられた。


(あのかたの幸せに必要なのは、他ならぬしん夫人おひとりなのだ。

  たとえ結ばれ得ないとしても、胸中で夫人を偲びつづけるために、この玉環はあのかたから失われてはいけない。

 宿を供した主人側の義務として、何も言わずに、ただお返しすればいいのだ。

 ―――車を出そう)


 ようやく決心がついた。

 胸が空っぽになったような、それでいてつかえが下りたような、奇妙に広漠とした気持ちだった。


 だが、そのとき崔氏はふと、


(これをお返ししたら、あのかたを偲ぶ品は何もなくなる)


と当たり前のことに気がついた。


 むろん平原侯一行が辞去の際に崔家へ贈った数多の品々のなかに、崔氏個人への高価な贈り物も含まれているわけだが、本当の意味で彼を偲ぶよすがとなるものは、この玉環以外にないのだった。


 いずれ誰かほかの男に嫁ぐ身なのだから、手元に形見など残らないのはむろん正しいことである。

 だが崔氏は、足元が静かに崩れゆくような気分になった。

 最後の名残を惜しむかのように、玉環を持ったまま、無意識のうちに窓際に立った。


 大きく開け放たれた両の木板の間からは、傾きかけた日が豊かに注ぎ込んでいる。

 このへやのものはすべて、空気すら、本当はもうしばらく閉じこめておきたかったのだが、房内には曹植が残していった墨の香りばかりでなく、煎じ薬の匂いも少なからず染み付いてしまったので、家人にいぶかしがられないためには換気をせざるをえなかったのだ。


 半身で日を浴びる位置に立ちながら、崔氏は玉環を目の位置にかざしてみた。

 陽にかざす角度を変え、裏表を改めては眺めるうちに、玉環は絶え間なくきらきらと光を散らした。玉の材質自体も選びぬかれたものであろうが、施されている彫琢が緻密な分だけ、反照の粒子もまたこまやかになるかのようだった。


 なめらかに磨き上げられた外縁から中央の孔縁、そして陰刻のひとすじひとすじに至るまで、ゆっくりと触れてみた。

 いとしさと悲しみが融けあったような、抗いがたい気持ちがあふれてきた。


(―――いまだけは、こんなことをしても、許されるだろうか)


 崔氏は首を回して室内を見渡した。当然ながら誰もいなかった。

 それでもしばらく逡巡を重ねた上、ようやくのことで意を決し、玉環の縁に唇を寄せた。

 唇の端にほんのわずかに触れた表面は、冬の大地のように硬く冷たかった。

 その冷たさに弾かれるようにして、彼女は顔を離した。

 すぐに玉環を袖の先で何度も拭き、さらに手巾で念入りに磨き上げたが、心音は胡楽こがくのように急速に高鳴り、収まるところを知らなかった。


(本当に、愚かなことをしている)


 先ほどと同じ戒めを、崔氏は改めて己に言い聞かせた。

 全身をめぐる熱は陶酔というよりも、心腑をえぐられるような痛みに近かった。


 これをお返ししたらもう、あのかたに会いに行ける理由もない。

 あのかたがわたしを思い出す理由もない。

 あのかたのいちばん大切な場所は、かの婦人―――甄夫人のためだけに空けられている。


(でもわたしはやはり、できることをするしかない。

 ―――これを、お返しするしかない)


 崔氏はもういちど玉環を見つめ、唇を寄せた。本当に、これきりなのだと思った。

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