(三十九)桑中

 曹植はとうとう腹を決めたように、崔氏に向かって小声で言った。


「今まさに盛り上がっているさなかだから、この隙に出よう。

 歓声に紛れて、我々の足音も聞こえぬだろう」


「お待ちください」


「どうした」


「婦人が、“死んでしまう”と言っているように聞こえます」


「―――いや、それは、ことばどおりに受け取らなくともいいと思うが」


「でも、もし男の側が危害を加えていたら」


「それはない。保証する。列侯の印綬いんじゅを賭けてもいい」


「そのようなものを賭けてはなりません」


「とりあえず出よう」


 曹植は不安げな顔の崔氏を何とか説き伏せ、戸口へ向かおうとしかけた。


 だがその際、彼らのうちどちらかが、物陰に積まれていたからの桑摘み籠を蹴り上げたようであった。編み籠の乾いた音が、床を伝うように鳴った。


 間の悪いことに、そのときには奥にいる男女の声も、天上の高みに達して急降下したかのようにぷつりと絶え、荒い息が響くのみとなっていた。


 曹植と崔氏は開けた戸のほぼ正面にいた。もう少しで敷居を越えようというところであった。つまり、室内の暗がりにいる者の目には、外から差し込む月明かりのなかで彼らの姿が―――少なくとも輪郭ははっきり見えているということである。


「―――伯女はくじょ?」


 崔氏を小字おさななで呼んだのは、女のほうの声であった。

 ということは、族内では彼女より上の世代に属する者であり、先ほどの嬌声の成熟した艶やかさに鑑みても、二十代か三十代あたりの女か、と曹植は推測した。

 しかし、いま暗がりから聞こえてくるその声は、艶めきを失ったどころではなく、地中へ消え入るようにか細く、震えていた。


 崔氏は硬直したように一瞬停止し、しかし意を決したように振り返った。


「五の叔母上」


「あなた、そこで見ていたの」


 かろうじて問いかけるその声は、動揺というよりは恐懼の色に染まっていた。


「いま、参ったばかりです」


 一緒にいるのは誰なの、と問われる前に、崔氏ははっきりした口調でつづけた。


「わたくしがお世話をしております平原侯さまとともに、こちらへ」


「―――まあ」


「侯が明日中にこの邸を発たれることは、叔母上もご存じのことと思います。

 わたくしはどうしても思いを抑えがたく―――侯がご出立になる前に、一晩だけでもご恩愛を賜りたく、わたくしからお願いして・・・・・・・・・・・こちらにご同行いただいたのです。

 朝まで一緒に過ごしていただくために」


 今度は曹植が唖然あぜんとする番であった。とはいえ逆光のため、暗がりの中のふたりには表情は見えていないであろう。


「ですから、お願いです。

 どうか叔母上、それと、もうひとりそちらにいるかた、わたくしたちのことは・・・・・・・・・・、何も見なかったことになさってください。

 わたくしたちも、この小屋で何も見ず、聞こえませんでした。平原侯さま、そうですね」


 あたかも恋人のように手を握られて問いかけられた側の曹植は、ようやく話が呑み込めてきたとばかりに、一拍遅れてからうなずいた。


「ということなのです」


「―――わかりました」


 叔母上と呼ばれたほうの婦人は、小さな声のまま暗がりから答えた。消え入りそうな儚さは変わらなかったが、いくらか安堵の響きが混じっていることは、崔氏にも聞き取ることができた。


「わたくしたちは別の場所を探しますが、いずれ来る巡回の者たちは、この室内の声を聞き取るかもしれませんので、叔母上がたも長居されぬほうがよろしいかと」


 それだけ言うと崔氏は、曹植の手を握ったまま蚕室の外に出て、さしあたり入口からは死角になる壁際へと身を寄せた。

 そこでようやく彼の手を離し、張り詰めた口調で詫びた。


「平原侯さまのお名前を出してしまい、それにお手まで握ってしまい、申し訳ございませんでした」


「いや、婦女子の側から迫ってきたというなら、俺には別に不名誉にはならないが、―――あんなことを言ってよかったのか」


 もちろん、本来はいいはずがなかった。丞相の御曹司から強要されて泣く泣く枕席に侍らされる、というのとはわけが違う。

 そのような事態ならばまだ、丞相家の不興をこうむらないように我らが族女のひとりが尊い犠牲を払ったのだ、という美談が宗族内で成り立つ余地がある。

 しかし逆に、未婚の族女が自ら平原侯に思いを寄せて一夜の情事を懇願するなど、不名誉の一語では表せないほどの不名誉である。


 だからこそ、崔氏は叔母に向かってそのように伝えたのだった。

 わたしとあなたは同じくらい罪深い淫行を犯している、と示したからこそ、共犯関係が成り立ち、秘密が秘密として保たれるのだ。


 おそらくは曹植も、崔氏のその意図は汲んでいるであろう。だが、なぜそこまで極端なことを―――根も葉もない嘘をついてまで自ら恥辱をかぶったのか、は分からないようであった。


「わたくしは、恐ろしかったのです」


「恐ろしい?」


「もし我々が何も言わず立ち去ったら、叔母は、露見を恐れて自殺してしまうのではないかと」


「ああ、―――」


「叔母は―――正しくは族母のひとりですが、かねてより素行の清らかさ、貞潔さで定評のある婦人なのです。だからこそ」


 崔氏はことばを切った。

 宗族内の誰かに婚外交渉の現場を目撃され―――それが一族に広まると知れば、叔母は羞恥のあまり、死を選ぶのではないか。


 だからこそ、「わたくしは決して他者に吹聴しません」という、崔氏の側から暗に示した誓約を信じさせなければならず、そのためには、あなたも・・・・我々の弱みを握っているのだと叔母に信じさせるほかなかった。

 丞相の子息とともに真夜中に出歩いているという状況の異様さが、この話の信憑性を高めてくれたのではないかと思う。


「そなたは途中から、声だけでその婦人だと気づいていたのだな。

 ―――族母というのは、そなたにとって血のつながる族父に他家から嫁いできた婦人ということか」


 仮に夫がいる身でよその男と姦通したというのであれば、夫方の家の血統を乱し祖先祭祀の継承を危うくする、比類なき背信行為である。りつでも処罰の対象となることをいったん脇に置くとしても、さすがに看過することはできない。


「はい、―――ただ、寡婦です。服喪期間も明けております」


「そうか。ならば、何というか、まあ、よかったな」


「数年前に亡くなった族父の後妻で―――子はないのですが、夫を亡くした後も、舅姑の世話のために留まってくれているのです。その族父に、兄弟がいないので。

 実父母に仕えるかのように献身的な孝行ぶりが、我が宗族内のみでなく近隣の村落にまで知れわたり、評判になっております」


「立派なものだ」


 曹植はとりあえず相槌を打ったが、崔氏が衝撃を受けているのは察していた。

 孝心に篤く品行方正な尊敬すべき婦人だと思っていた族母が、亡夫以外の男と私通している―――それも自ら望んでそうしているらしいという事実に、果てしなく打ちのめされているに違いなかった。


 そしてそれでも、族母には死を選んでほしくないと願ったのだ。


 やがて、戸口のほうから物音が聞こえた。そちらに目をやると、扉の陰から慎重に身を乗り出す若い男の影がみえた。

 さしあたり安全だと判断したのか、男は蚕室の奥のほうにいるらしい婦人に声をかけた。


 髪を直したばかりらしい婦人が恐る恐る出てくると、男はその白い手を取って護るように寄り添い、ひっそりと足早に出て行った。

 ふたつ分の影は互いに溶け合い、さらに闇へと溶けていった。


「やはり、若い男が一緒にいたな」


「はい。―――名前は思い出せないのですが、今しがた見えた服装からするとおそらく、我が家の部曲ぶきょくのひとりです」


「そうか」


 ふたりとも黙った。

 部曲は豪族が養う私兵であり、奴婢ほどではないが主家への隷属度は高い。つまり、あのふたりがともに独身であるとしても、正式な婚姻で結ばれる可能性はほとんどないと言ってよい。

 だからこそ、深夜にこのような場所で逢引するという危険を冒しているのだ。


桑中そうちゅうとはいっても、存命の夫がいる人妻を盗んだのではないわけだ」


 重くなった空気を中和するためか、曹植が付け加えた。

 室内で彼が言った「桑中の喜び」とは、春秋時代の楚に仕えた巫臣ふしんという者が使者として斉へ赴く際、申叔跪しんしゅくきという楚臣に行き会い、


「おかしなことだ。軍事の大任を負うて緊張しておられるはずなのに、桑中で逢引する楽しみをお持ちかのようだ。

 人妻を盗んで逃げようとしておられるのか」


と揶揄されたという『左伝』成公二年の記事に由来する*。

 果たして、巫臣は絶世の美貌で名高い夏姫かきという人妻を―――正確には、夫亡き後に血のつながらない息子から妻として遇されていた婦人を連れだすところであった。


 後漢のいまは、いわゆる春秋三伝のなかで『左伝』のみが突出して優勢な地位を築いているわけではないが、崔氏は叔父崔琰さいえんから経書とその注釈書を学んでおり、崔琰は鄭玄じょうげんの弟子であり、鄭玄は三伝のなかでは『左伝』を支持しているので、崔氏も『左伝』を読んでいるだろう、と曹植は見当をつけたわけである。


 昨今は『左伝』の注といえば服虔ふくけんによるものがよく読まれているが、世人の噂では、服虔注は鄭玄注をふまえて完成したともまことしやかに言われている。


「おや」


 曹植がふと気づいたように、地面から何かを拾い上げた。

 やや水気を失いかけた桑の芽であった。日中に摘まれてこの蚕室へ運び込まれた際に、籠から一枚二枚こぼれ落ちたのであろう。

 桑の芽を指先で弄しながら、彼は問うともなく問うた。


「それにしても、どうしてこんなところを―――この建物を選んだのだろうな」


「そうですね。―――蚕室は常であれば、風を通さない密閉された空間ですので、密会なればこそ選ばれたのではないでしょうか。ささやきすら漏れない場所だと」


「なるほど、養蚕には無風の状態を保たねばならんのか。

 ―――ああ、宦官になるための施術をする場を蚕室と呼ぶのも、そのためだったな」


「ええ、―――しかし実際には声が外に漏れ聞こえておりましたように、今年はまだ、この小屋の目張り作業は終わっていないはずです。

 平原侯さまは、蚕室をごらんになるのは初めてですか」


「中に入ったのは初めてだ。外から眺めたことはある」


「そうなのですか」


「十一歳ごろだったか、父上に従ってしょうに戻った際に、我が家の荘園を初めて見てまわった。譙は父祖の地だが、物心ついてから足を踏み入れたのはあれが初めてだ。

 それまでは大体地方の都市や許都きょとにいたから、荘園でみる農事のあれこれが物珍しかった」


 気まずい空気を引き戻さないためにも、とにかく何か話しつづけなくてはならないと、曹植は思っているようであった。


 先ほどの、めくるめくような女の歓声と押し殺したような男女の吐息はまだ、彼らふたりの耳朶に残っていた。




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*『春秋左傳』成公二年九月条


巫臣聘諸鄭、鄭伯許之。及共王即位、將為陽橋之役、使屈巫聘于齊、且告師期。巫臣盡室以行。申叔跪從其父、將適郢、遇之、曰、「異哉。夫子有三軍之懼、而又有桑中之喜、宜將竊妻以逃者也」。

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