(三十八)蚕室

「何か、うめき声のようなものが聞こえないでしょうか」


「うめき声? 畜獣か」


「いえ、人間のような―――婦人のような」


 言いながら、崔氏は歩き始めていた。

 この時間帯のこんな区画に自分たち以外の人間がいるとは思いもよらなかったが、しかし具合が悪いのだったら放っておくわけにはいかない。


 声は、斜め前方にみえる平屋建ての簡素な建物のなかから、とぎれとぎれに漏れ聞こえてくるようだった。

 面積はかなり広いことが外からも見て取れるが、人間が寝起きするところではなく、これからの時期に大いに活用される養蚕用の空間、蚕室さんしつであった。


 いまはちょうど、越冬した蚕卵の孵化を目前に控えており、人員が配置されて壁の補修や器具の設置がおこなわれていることは崔氏も知っていた。

 しかし、次から次へ桑の葉を供給しなければならない繁忙期というわけではないので、日中でも人の出入りは多くない。夜間ならばなおのことである。


 戸を開けて足を踏み入れると、若々しい桑の芽の香りが漂ってきた。

 中はもちろん灯火もなかったが、戸口から差し込む月明かりのおかげで、広い空間にいくつも並べられた棚や棚上に置かれた蚕箔さんぱくの影はみてとることができる。


「いや、少し待て。これは―――」


 さらに踏み込もうとした崔氏の袖をつかみ、曹植はためらいがちに小さく声をかけた。彼女はいぶかしんで振り返った。


 なぜです、と問おうとしたが、すぐに了解してうなずいた。

 わたしの体面をおもんぱかってくださっているのだ、と思った。

 低くひそめた声で答える。


「たしかに、ここにいる誰かにわたくしたちがふたりで来たと知られると、困ったことになりますね。

 こんなことになってしまい恐縮ですが、平原侯さまはどうかお部屋にお戻りください。明日のご出発もございますので。


 ただ、お部屋の付近を護衛する宿直の者に、手の空いている者に担架を持たせて蚕室へ回すよう、おっしゃっていただけませんか」


「いや、そうではなく」


「そうではなく、とは」


 ひそめた声で押し問答をしているうちに、蚕室の奥のほうからひときわ大きなうめきが聞こえてきて、崔氏はびくりとした。

 まちがいなく婦人の声であった。


「あの声は、もしや陣痛かもしれません」


「いや、だから―――」


「行かなければ」


「待てというに」


 曹植が慌てて彼女の袖をつかみなおす。崔氏はやや切迫した声で応じた。


「平原侯さまはお部屋にお戻りください。殿方に出産の場を見られるのは、奥にいる婦人も望まぬかと。

 それと、そうでした、言伝ことづての件ですが、やはりいまは担架よりも清潔な布とお湯をたくさん持たせて―――」


「だから、そうではなく―――あれはおそらく、その―――桑中そうちゅうの喜びだ」


「桑中の」


 ここに搬入されている桑の新芽に掛けていらっしゃるのか、と崔氏は思った。


「『左伝さでん』で読まなかったか」


「その語は存じております。昔の男女は、桑林で語り合ったのだと」


季珪きけいどのは、そなたの叔父上はそう教えたのか。

 それは、正しく言うと―――男女が特別に親密になることだ」


「親密に」


「同衾だ」


「―――まさか」


 崔氏は驚愕に目を見開いた。

 季珪どのは本当にその種の話題を教えなかったのだな、と曹植はある意味で感心した。


「まさか……つまり、この先にいるのも」


「おそらく、女ひとりではないだろう。

 よく聞いてみよ―――とは言いづらいが、女よりも野太い呼吸が、何となく聞こえるだろう」


 崔氏は耳を澄ませてみた。たしかにそうかもしれないと思った。


「男女ひとりずつが、いるようです」


「そうだ。そしてふたりとも、服を着けていない」


「服を着けていない」


 驚きのあまり、崔氏は小声で繰り返した。


「どうして、そんな」


「それは―――同衾だからだ」


「同衾が比喩だということは分かります。この場合は、男女が共寝をすることかと存じます。

 こんなところにふすまを持ち込んでいないのは分かりますが、なぜ裸になるのでしょう」


「いや、だから、同衾だからだ」


 曹植もまた小声で答えた。

 俺たちは不毛な会話を繰り返しているな、という徒労感をその声にいくらか滲ませている。


「人前で裸になるなど、禽獣も同然です」


「赤の他人の前ならな。だが、子を得たい夫婦や―――心を許し合った男女は、肌をも許し合うのだ」


「そんな……」


 強く打ちのめされているかのような崔氏の声を聞いて、曹植は、彼にしては珍しい、いたたまれなさげな表情を浮かべた。


「―――というか、そなたは男女の同衾を何だと思っていたのだ」


「夫婦が子を儲けるために打ち解ける儀式だと思っておりましたが、衣服の隔てもなくなることだとは、ついぞ思いませんでした」


「何の接触もないと思っていたのか」


「―――抱擁ぐらいは、するのかもしれないと」


「なるほど」


「それに、姜嫄きょうげんの故事も習いましたので」


「姜嫄?」


「『毛詩』「生民」の最初のほう―――姜嫄きょうげんが巨神の足跡を踏んで后稷こうしょくを身籠ったくだりの詩句に鄭師父(鄭玄じょうげん)が付された注釈を、お読みになられたでしょうか」


 一体何を言い出すのかこのむすめは、という顔をしながらも、曹植はうなずいた。


「“帝は上帝なり。敏は拇なり”で始まるあたりか」


「はい。その少しあとの、“心体 歆歆然として、其れ左右し止住する所、人道の己に感ずる者 有るが如し*”という句について、かつて季珪きけい叔父に質問したことがございました」


「そうしたら、何と」


「姜嫄がそのとき―――巨神の足跡を踏んだときに心身で感じた喜びは、夫婦が子を儲ける喜びに似たものであった、と解せよと教えられました」


 そのとき、蚕室の奥からひときわ高い女の声が―――自我をも失ったような恍惚の声が響いてきた。

 曹植はいよいよ気まずげに後ずさりかけたが、自分の考えに没頭し始めた崔氏はなお話しつづけたので、彼女を置いて退去するわけにもいかなかった。


「叔父の説明はそれのみだったのですが、改めて考えたところ、鄭師父がわざわざこのように注釈なさったということは、感生帝かんせいていの原理と常人の夫婦が同衾して子をもつ原理とは、本質的には近しいものなのではないかと。


 むろん、郊外へ子授けを祈りに出かけた姜嫄が懐胎したのは、周王朝の始祖を生ましめんとした天の命ずるところですから、その使命の重さにおいて、常人の夫婦とは大きな隔たりがございますが」


「なるほどな。そなたのなかでは感生帝説が先に立つのか」


 呆れたのが一周回って感心したような声で―――そして、なぜ俺はこの状況下で経学談義を聞かされているのだ、と言いたげな表情で曹植は言った。


 天命を受けて王朝の始祖となる者は、母となる女性が巨神の足跡を踏んだり鳥の卵を呑んだりするなど、特異な現象を通じて天に感応することで、その胎内に生を授かる―――このような考え方を感生帝説と呼ぶ。

 鄭玄は『毛詩』「生民」「閟宮ひきゅう」や『周礼』春官への注釈等において、この説を堅く奉じている。


「いよいよ、心配になってきた」


「何がでございますか」


「そなたが耐え忍べるかどうかだ。婚礼の日に初めてまみえる相手と同衾することに。

 実際のそれは、姜嫄の懐妊のように牧歌的なものではない」


「―――世の婦人はみな、それを受け入れております」


「大抵はな。

 だが、“その男”へのそなたの思慕の深さは、別格にみえる。

 だから不安だと言っている」


 崔氏は何も答えず、蚕室の奥の暗がりへ目をやった。

 人の気配はあるが、何も見て取れない。

 彼の顔を見つめていたらすべてを吐露してしまいそうな、そんな自分が恐ろしかった。


「平原侯さま」


「ああ」


「この奥にいるふたりのことですが、―――我々は、どうすべきでしょうか」


「狼藉がなされているなら立ち入って阻止すべきだが、そうは聞こえない」


 曹植の言うとおり、ふたりの、とりわけ婦人の歓声はいよいよ大きくなってきたが、およそ苦痛の色はなく、崔氏の語彙では形容しがたい響きを帯びていた。

 そして、人の名と思しきものをとぎれとぎれに―――いとおしそうに呼んでいた。

 おそらくは、一緒にいる男の名であった。




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*『詩経』大雅・生民之什「生民」 ※【 】は鄭玄の注釈(箋)

「履帝武敏、歆攸介攸止。載震載夙、載生載育、時維后稷」

【帝、上帝也。敏、拇也。介、左右也。夙之言、肅也。祀郊禖之時、時則有大神之迹。姜嫄履之。足不能滿。履其拇指之處、心體歆歆然、其左右所止住、如有人道感己者也。於是遂有身。而肅戒不復御。後則生子】


崔琰が教育的配慮(?)に基づいて講釈した「如有人道感己者」という鄭箋について、より直截に「如人夫妻交接之道」と解するのは唐初の孔穎達ですが、彼が引く『礼記』檀弓とその鄭注に「寡婦不夜哭。注云、嫌思人道」(現行本『礼記』だとこの記述があるのは坊記)とあるので、「人道」に対する孔疏は鄭玄の意図から外れていないと思われます。

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