(三十六)月夜

「まことに、月のいこと」


 歩き出してしばらくしてから、崔氏はぽつりと口に出した。


 白銀の反照のように冴え冴えとした月明かりに包まれたいま、その思いに偽りはなかったが、そんなことしか言えない自分がふしぎでもあった。


 そしてもっとふしぎなことに、先ほど自分を連れ出すときはあれほど朗々として何の心配もなさそうに見えた曹植も、いまはなぜか、人見知りする子どものように口数を少なくしていた。


 後にしてきた家屋をふりむいても、いまやどのへやにも灯りらしきものは見えない。屋根の登頂に並ぶ瓦の背を、青白い光がひたひたと染めるばかりである。


 南のかたによく目をこらせば、四層の高さを誇る穀物倉の最上部に不寝番ねずばん篝火かがりびが揺れていることが分かるが、番人の影はむろんここまでは届かない。


 自家の敷地内でありながら、人の世から隔絶されているような感覚にふっと襲われそうになる。


 道の両脇では気の早い杏の木々がすでにつぼみをつけている。

 微風に揺らされた枝のひとつが、珠をとりこぼすようにして白い花弁をふと散らした。


「―――平原侯さまは、ぎょうに戻られましたら」


「うん」


「何か、新しいご役職に就かれるご予定ですか」


「そうだな、夏ごろにはおそらく西へ―――いや、これはまだ、―――何でもない。

 常任の役職という意味では、とくにそういう話はない。列侯の身分を保証されたまま、当面は詩文と遊興に耽るのみだ。

 子昂しこう邢顒けいぎょう)らにああ約束した以上、市中にもぐりこむのはしばらく辛抱せねばならぬが」


 あまりにあっけらかんとした物言いに、崔氏は呆れるより先に可笑しさがこみあげてきてしまった。唇もつい、ほんの少し緩みを帯びてくる。


「市という場所はそれほど、おたのしみが多うございますか」


「それはもう、娯楽をひとつひとつ挙げてゆけば長大なを作れてしまう。

 ―――だがそなたひょっとして、荒くれの闊歩するぎょうさかに限らず、この東武城とうぶじょうや近隣の県城の市にさえ足を踏み入れたことがないのか」


「県城への用件はすべて、宗族のなかの決まった長者が管掌することになっておりますので……」


「たしかに、こうして夜目に設備を見渡すだけでも、貴家の衣食住のほとんどは内の生産でまかなえそうではあるが」


「はい。ただ、鄴に移り住んだ当初、まだこうがいを挿す前だったこともあり、いちどだけ叔父に連れられて市の門をくぐったことがございます。

 ですが、あまりに人が多く喧しいので、すぐに叔父の袖を引くようにして退散してしまいました」


「いかにも、そなたは人の多いところが不得手だという気がする」


「はい」


「静けさを好む気持ちはひとに伝わるものか、ここに来てから俺もだいぶ、喧騒を離れることの良さが分かってきた。

 むろん、賑わいを好む生来の性分はそうそう変えられぬが」


「多くのご兄弟がたとともに、お育ちになられたからでしょうか」


「そうかもしれん。殊に兄上たちと離れて暮らしたことはなかったからな。

 そして、そうだ。兄弟と同じくらい、友に囲まれているのもやはり楽しい」


 友人、と言うときの曹植の声はとりわけ幸福な響きを含むかのようだった。


 友というのは貴賎の隔てを越えた飲み仲間であったり狩り仲間であったりさまざまであろうが、彼にとって最も代えがたいのはやはり、詩賦の贈答や競作で結ばれた文学の仲間に違いないであろうことは、崔氏にも分かった。


 ひとが自他の深奥に触れようとするとき、ことばほど繊細に力強く助けとなるものはない。まして、英華のごとき文辞を自在に操る才を天から与えられた人々が一同に会したならば、詩賦を通じて己を表現し互いを理解しあう営みの楽しさはいかばかりであろうか。

 そのゆたかな交わりは、他のあらゆる友誼を圧倒するにちがいない。


 この夜空のつづく先、かなたの鄴の文壇で、曹植や彼の父兄を中心にして織り成される翰墨かんぼくの世界の輝かしさを崔氏は思った。

 そしてその世界の遠さを思った。






「お祈りしております」


「うん?」


「あなたさまが、心を許しあったご友人がたといつまでもご盛栄であられますように」


「うれしいことを言ってくれる。では俺も祈ろう。

 いくらか―――というか、大いに遺憾をおぼえぬでもないが」


「何を祈られます」


「そなたの思慕が通じるようにだ。“その男”に」


「―――そのことはもう、お忘れください。わたくしも忘れる所存です」


「屋外で肩をならべるのは、久しぶりだな」


 何の脈絡もない応答に、崔氏はややとまどった。


「こうしてそなたを間近に見ていると、改めて不安をおぼえる」


「ご不安とは」


「こたびの旅游の少し前、まだ鄴にいたころ、知人からこんな話を聞いた。

 それがひどく忘れがたかったので、つい賦まで詠んでしまったものだ」


「どのようなお話ですか」


 さしたる関心を示すでなく、あくまで礼儀の上からといった口調で、崔氏は尋ねた。


「ある若者が、隣家のむすめに思いを懸けていた。おそらくは幼少時からよく見知った仲だったのであろう。


 しかしそのむすめが笄年けいねん(十五歳)を迎え、若者自身が成年に近づいても、両家の間に事情があってか、媒氏なこうどを立てるに立てかねていた。


 そのうちにむすめは他家へ嫁いでしまった。その家が裕福で、新郎本人も才徳ともに申し分のない君子だったためか、むすめは隣人に愛惜の辞を送るでもなく、父母の命に唯々いいとして幸福そうに嫁いでいった。


 その若者の悲嘆はきわまりなかったということだ。


 どこにでもありそうな話ではあるが、若者はそれこそ、別人のように痩せ細るほどの憔悴ぶりだったという」


「―――お気の毒だとは存じますが、やむをえぬ仕儀かと存じます」


「ほう」


「そもそもの非は、そのかたご自身にあるのです。

 人の子は父母の命を受けて初めて己の配偶の家を知り、媒氏を間に立てて初めて夫婦として対面し、その上で心を交わすべきなのですから」


「人倫の要たる婚姻の礼をたがえた者に、相応の報いがあるのは当然か」


「はい」


「そなた、そこまで自分を責め苛むこともあるまい」


 崔氏は面を上げた。目元が赤くなるのが分かった。


「わたくし自身について申し上げたつもりはございません」


「どう聞いてもそう聞こえる」


「―――わたくしは、礼にそむくまねなどいたしません。

 昼間はたしかに、そのような邪想についていくばくか申し上げることもございましたが、その実現を望むことなど、決して」


「その男が、そなたを欲したとしてもそうか」


「そんなことにはなりえません」


「俺は仮定について言っている」


「起こりえないことは、仮定しても無意味です」


「そなたが恐れていることはなんなのだ」


 曹植が初めて足を止め、崔氏をゆっくり顧みた。


 彼女は息を止めるようにして彼を見つめ、すぐに目を伏せた。


「己の思慕が打ち砕かれることか、それとも礼法にもとるまねをすることか」


「後者です」


「勇敢なものだ。ならば―――」


「思慕をお伝えすることは永劫にないのですから、打ち砕かれることもございません」


「伝えないと思い定めるのは早すぎるのではないか。そなたにはまだ正式な許婚いいなずけはいない。そなたの話からすると、その男にもまだ配偶はない。

 いまならまだ、両家の家人に迷惑をかけることもなかろう」


「早すぎるということはございません」


「なぜだ」


「そのかたのお気持ちが変わることはないからです」


「本人でもなければ断言はできまい」


「なぜあなたさまは、他人の鄙事ひじにそうまで拘泥なさるのです」


「俺こそ聞きたい。なぜそなたは、この件ばかりはそうも頑ななのだ」


「だって、―――お気持ちは変わらないから」


 最後は吐息のような声でつぶやきながら、崔氏は己の視界が少しだけ揺らいだように感じた。


「どうした」


 小さな異変を感じ取ったかのように、曹植が顔をのぞきこもうとする。

 彼女は露骨に彼を避けた。ふたりの間に沈黙が落ちた。


「―――俺が不安だと言ったのは、このことだ」


「このこと、とは」


「さきほどの話にはつづきがある。


 その若者の容態は日に日に悪くなるので、俺の知人はそちらにばかり気をとられていたが、婚礼から一年も経たないある日突然、くだんのむすめの訃報を聞いた。


 自害ではないが、明らかな病死でもない。新郎を初め婚家の者も実家の父母も思い当たるところがなく、ただ悲嘆と疑問に包まれるばかりだった。


 最もそば近くで仕えていた老侍女だけが、憂悶のうちに亡くなられた、と語ったそうだ」


 崔氏は何も言わなかった。彼女のほうを見ながら、曹植はゆっくりとつづけた。


「俺はこの先、似たような話を丞相府ゆかりの者から耳にしたくはない」


 その声は穏やかだが、かつてないほど真摯な響きがあった。

 崔氏は彼から目をそらした。

 この場から逃げ出したい衝動を、ただ抑えていた。

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