(三十五)訪れ
最初は梢が軒を打つような音だった。
風が出てきたのだろうか、と崔氏は寝付けない暗闇のなかで思うともなく思った。
昼間のできごとが―――唐突な幕切れのようにやってきた別れが、眠りに落ちる気力すらも削ぎ落としているかのようだった。
だがしばらくそのまま横たわるうちに、この小さな
身を起こして
何事か、と崔氏は戦慄とともに身構えたが、一瞬後、ふっと全身の力を弛緩させた。
夜の夜中にこんな形で女子の閨を訪れるような非常識な人間が、この邸内に二人といるとは思われない。
急いで髪を整え寝衣の上から
「平原侯さま、どうなさいました」
「もう寝ていたか、すまなかった」
さして悪いとも思っていなさそうないつもの伸びやかな声で、曹植は朗々と詫びた。
「そなたもいずれは、
崔氏は声に出さずにうなずいた。それは最初から分かっていたことだった。
丞相の子息であろうと誰であろうと、士人の家の女子が他家の男子と自由に交流するなど許されるはずがない。
「あれほど美しい水辺で出会ったというのに、昼間のような別れかたをするのは、ずいぶん無粋だという気がする」
崔氏の顔を見上げたまま、曹植がてらいのない口調で言った。
「少しばかり歩かぬか」
「いまから、侯とふたりででございますか」
「眠いか」
「いえ、そんなことではなく、―――こんな夜更けに、男女がふたり連れ立つなど」
「明日の白昼ではなおさら、ふたりで出歩いたりはできまい。
あるいは、そなたがそもそも気乗りせぬか。ならば仕方ないが」
「いいえ!そんなことは決して」
自ら放った否定の語の速やかさとゆるぎなさに赤面しながら、崔氏はちょうど弧を描くようにして語尾を収束させていった。
「―――もちろん、かたじけなく存じます」
「そうか。よかった」
まだらな月明かりのなかでもそれと分かるほど、曹植は顔いっぱいの笑みを浮かべた。細められた目元の童子のような無防備さは、あの水辺で初めて出会ったあのときと毫も変わるところはなかった。
(だれかがいつも、そばで守ってさしあげねばならないのだ)
崔氏は全く唐突にそう思った。
なかば地を踏みしめつつ、なかば迷いなく宙に踏み出しているようなこの青年は、この地上で歳を重ねるにはあまりに混じりけがなさすぎて、いつか黄砂の丘のように音もなく消失してしまうのではないか、―――そうならないために、誰かがいつも寄り添っていなければならないのだ、そう思った。
そしてそれは己の任ではないことも、崔氏は同時に分かっていた。
彼に望まれているのは自分ではなかった。
夢のなかでまで渇望され抱擁されたのは、この身ではなかった。
彼女は黙って曹植を見下ろしていた。
息をするだけで耐え難くなるような痛みに、身体の芯がゆっくりと貫かれてゆく気がした。
(―――それでも、許される間はこのかたのそばにいたい)
確信といえるほどの強さでそれを思った。
自邸の敷地内とはいえ、他家の若い男と真夜中にふたりきりで出歩くなど、彼に出会う前の十数日前の自分が聞いたら、ほとんど卒倒しそうな状況である。
それでも、いまの自分には、それが何より自然な選択であるかのように思えた。
「やはり不安か」
曹植の問う声が聞こえた。どうやら会話に間を置きすぎてしまったようだった。
崔氏は首を振った。
「いいえ、この時間なら、家人もおおかた寝静まっております。
そこにいらしてくださいませ」
あらゆる理性的な抑制が生まれる前に、我知らず唇が動いていた。
「いま、戸口より廊下の端へ出て、そちらへ回りますので」
「そう迂回することもあるまい。却って人目に触れる恐れもある。窓を抜ければよい」
「この窓を?」
「幅は十分だろう」
「十分です。十分ですが、―――」
崔氏は案ずるように言った。
「灯火を持ってそちらに伺うことが、できなくなります」
「明かりなど携えて歩いたら、却って人目につくぞ」
曹植はいぶかしげに問うたものの、一瞬後には軽やかに笑った。
「“男女 夜行するに 燭を以てす”というやつか」
崔氏はうなずいた。
「これだけ晴れた夜空だ。月明かりがあれば十分だろう」
「―――ですが、万一見張りの者に
「やましいことをしていたと言えばいいのだ」
「よくありません!」
「冗談だ。ともかく、見つからないようにしよう」
曹植は笑いを収め、静かな声で言った。
「最後の晩だ。他の者に妨げられたくはない」
自分の耳に届きそうなほど、崔氏の鼓動は瞬時に高まった。
だが、彼の穏やかな表情を見れば、互いの心のありようが異なるのは明らかであった。
「―――はい」
崔氏はとうとう、ゆっくりうなずいた。
「ですがこれまで、窓から出入りしたことなどないのです」
「任せろ、俺はその道の先達だ。小さいころから大体そうやって脱走してきた」
「……そうですか……」
「ともあれ、安心していい。受け止める」
崔氏の同意を疑いもしないかのように、曹植は窓枠の下で両手を大きく広げて見せた。
むろん二層以上ある高楼から飛び降りるわけではないから、まかり間違って彼の胸中から大きく逸れ、地面に追突する恐れはないわけである。
だが崔氏にはむしろ、正しく受け止められたときのほうが怖かった。
そのときの安堵を知ってしまうことのほうが怖かった。
けれど
一瞬ののちに到達した両腕のなかは記憶にあるよりも硬いようで、しかしどこまでも開け広げな温かさは変わることなく、それを再びたしかめただけで彼女はまた少し泣きそうになった。
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