(三十三)姻族の条件
「先日ご宗主に貴家での滞在を延ばさせていただきたいと願い出たとき、あのかたは謝礼を受け取られなかったばかりか、これを機に俺に子弟を紹介して親交を結ばせようというそぶりも見せられなかった。
その後もそなたの家人で俺に個人的な近づきを願ってきた者はいない。ご宗主の訓令が行き届いているのだろう。
丞相の子息に貸しを作っておきながら、仕官の援助を乞わぬ人々などそうそういるものではない。
そういえば、夕食の世話をそなたひとりに任せまいとしたのも、ご宗主の計らいだろう」
「そのとおりですが、―――あのふたりは、配膳のために必要な人手かと」
「それだけだと思うか」
曹植はふいに笑い出した。
「毎夜、そなたが無事に退室するのを見届けるべく―――というか、丞相の御曹司が傍若無人にそなたに同衾を迫ろうものならその場で引き剥がすべく、あの者たちを夕食の間じゅう同室させているのだろうに」
「ま、まあ、そんな」
同衾という語を突然に聞かされて崔氏は動揺したが、そういえば、と思い当たらぬこともなかった。
夕食の給仕を手伝ってくれる使用人夫妻のうち夫のほうは巨体の力自慢であり、家具の運搬作業などでよく世話になっている。ふだんであれば、客人の食事の世話などには動員されない類の男である。
そしてまた、曹植が滞在期間を延ばすことを決めたその日の晩、宗主が自分を呼び出して直々に諭してきたこと―――夕食のお世話が済んだらすぐに退出し、くれぐれも長居して平原侯のご就寝を妨げぬように―――も思い出した。
言い聞かされた当初はもっともなことだと思ったが、いま思えば、宗主は言外に戒めを垂れていたわけであった。
「つまり、権力者の身内の歓心を買うためなら同族のむすめの貞操を平気で差し出すようなご老人ではないということだ」
「―――それはたしかに、そのとおりです」
崔氏は現在の宗主の直系の孫ではなく、ほかの族弟妹に比べて自分がとりわけ大事にされているとも思わないが、しかし、
(あのかたならば、権門に縁故をつくることよりも、一族の子女を守ることを優先してくださるだろう)
というのは、ごく自然に納得できた。それと同時に、だけれど、とも思った。
「ですがそれは、当たり前のことではないのですか」
「当たり前ができない連中も、世の中には多いのだ」
実際に過去の何かを思い出したのか、曹植は少し黙った。
「―――ともあれ、俺はここの家風が気に入った。実に好ましいと思っている」
「それは―――もったいないお言葉でございます」
「そして、そなたの父代わりである
ならばそなたの一族は、たとえ丞相の姻戚になろうと天子の外戚になろうと、
―――あるいは、ひとの背中を押してきざはしを上らせるような真似はするまい」
「平原侯さま、それは一体」
「そなたも知っていようが、この正月に俺とふたりの弟が列侯の爵位を賜ったおり、最年長の子桓兄上は五官中郎将に任じられた。副丞相の地位に昇ったということだ。
当然、長幼の順から言っても官職から言っても、父丞相の後を継ぐのは子桓兄上であるべきだ、と多くの者は思っている。むろん俺もそうだ。
だが、―――自分で言うのも何だが、俺は兄弟たちのなかで父上からの寵愛がとりわけ深い。七弟の
それを受けてか、俺を父上の後継者候補として盛り立てようという声が、ごくかすかながら身辺で聞こえるようになった」
「まあ、―――」
「当の俺にその気はない。だが今後、より大きな声に成長しないともかぎらぬ。
丞相は世襲職ではないから、現状では後継者といっても単に曹家の跡取りになるというだけだが、しかし今後、父上が余人の及ばぬ功業をますます重ねられ、天子のご信任をいよいよ深く賜るならば、あるいは、―――大いなる爵位の授与と相続を意味することになる」
「大いなる、爵位」
「―――いや、なんでもない。いまそのことを云々しても始まらんな。
とにかく俺は、権力への志向をもたぬ一族と婚姻を結ぶべきなのだ。
丞相の子息として、俺にはその責任がある」
「ですが、婚姻は父母の決定に従わねばなりません。ご自分で相手を決めるなどと」
「それは心配ない。嫁取りに関しては去年あたりから良家の子女を何人か父上に勧められてはいるが、ほかに気に入った女がいるならそれでもいいと言っていただいた。
もちろんいくら俺でも、従来の姻戚でもない他家の令嬢と個人的に知り合う機会などまずありえぬから、父上もさほど本気で言われたわけではないと思う。
しかし現にそうおっしゃった以上は、約束を守ってくださるに違いない。
先ほども言ったように、父上は概して俺に甘いのだ。それに」
曹植は少しことばを切った。
「子桓兄上という前例があるからな。
そんなわけだ。中原に鳴り響く名族でなくともとりあえず士人の家の生まれならば、俺が所望したむすめを父上が却下されることはまずあるまい。
どうだろう。家格の釣り合いに関してはまだ不安か」
「いえ。仰せは、了解いたしました。
―――ですが、やはり」
「やはり、どうだ」
崔氏は黙った。いまこそ重ねて拒絶のことばを述べるべきだが、それを口にしたら二度とこの青年を間近に見ることはできなくなる。
彼はもうこの瞬間から思い出の一部となり、二度と手の届かないひとになる。
決意を翻して求婚を受け入れるとしたら、いまこのときが最後の機会なのだ。
「慎み深すぎるのも考えものぞ」
曹植はつぶやくように言い、つと筵席から立ち上がった。
そして崔氏の傍らに至ると膝をつき、物慣れた手つきでその肩に触れると、
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