(三十二)求婚

「心配ない。ともに暮らしても、手は触れぬ」


「おっしゃることが、―――おっしゃることが、分かりません」


「われわれは同志のようなものだ。そうではあるまいか。

 そなたには深く想う相手があり、俺にもそのような婦人がいる。

 そしてわれわれは、彼らと永劫に結ばれえぬことを知っている。


 だがわれわれとていつかは必ず、父母や親族を安堵させるため、正しい配偶を持たねばならぬ。

 ならば、互いの境地に理解を示せる相手と暮らすに越したことはないのではないか」


「―――それでは、それではお子が授からぬことになります。

 そもそも殿方は、婦人に触れることなく生涯を送れるものなのでしょうか」


 あまりに大きな混乱に見舞われつつあるために、かえって現実的な疑問が崔氏の口をついて出た。

 曹植は一瞬目を丸くして、弾かれたように笑った。


「そんな大それた禁欲を己に課すとは言っていない。俺は酒色が好きだ。妾もおそらく次々に納れる。

 何より、人の子の務めとして継嗣けいしはもうけねばならん。


 だがねやの歓楽をともにするための側妾と違って、正夫人は日々の家政に限らず父母への孝養から祖宗の祭祀まで、生涯の大事をともに執り行う伴侶だ。


 俺がどこの女に子を産ませようと、いずれの子にも母親としてひとしく愛情を注ぐ責務も負うている。そして死後は同じ墓についとなって眠る定めだ。


 どうあっても娶らねばならぬものならば、日々を心穏やかに過ごせる娘を迎えたい。


 儒礼の傀儡のようになった女などまっぴらだと以前は思っていたが、そなたの挙措や容儀を間近で見るうち、礼を以て己を律する姿は美しいと思うようになった。

 季珪どのが朝議の場で際立って美しく見えるのも、同じよしなのであろう。


 そなたのしつと同じだ。ひとの心を不安にさせる乱調がない。日常をともにする伴侶とはそうあるべきだろう。

 こんな理由で求婚されるのは、いやか」


 崔氏は答えなかった。黙って視線を伏せている。

 あまりに唐突な申し出なので、ほとんど現実味が沸かないともいえる。


 だが一方で、自分のなかで少しずつ鼓動が早まりかけていることも分かる。


 形だけの妻であれ何であれ、この申し出を受けさえすれば、これからはずっとこの青年のそばにいられるのだ。

 誰よりも近いところで、誰からも公認された立場で、彼の笑貌を朝夕見ることができるのだ。


 そんな満ち足りて欠けるところのない日々を想像すると、早くも胸が焦がれるように熱を帯び始めた。


(わたしはこんなにも、このかたのことを好きになっていたのだ)


 いまさらのようにそう気がつき、崔氏は思わず息を呑み込んだ。

 だが同時に、だからこそ申し出を承諾できないことも分かっていた。


 いま目の前にいる青年をこんなにも好いてしまったからこそ、彼の心に“その婦人”が住んでいることを知りながらともに暮らすことの困難さを、直視しないわけにはいかなかった。


 それに加えて、彼はあくまで同志なる者を求めているのだから、どれほど長きにわたりともに暮らそうと、自分の本当の気持ちを知られることがあってはならない。

 心を寄せる相手の前で欺瞞をつづけねばならない。

 それがどんなに苦しいことかは、想像するまでもなかった。


 彼との結婚によって物質的にどれほど恵まれることになろうと、清河せいがぎょう許都きょとで肉親とともに送ってきた質素な暮らしの安らかさとは、およそ比べ物になるまい。


 しかしそんな理由を率直に告げるわけにはいかない。

 崔氏は黙ったまま、正当かつ非礼にあたらない拒絶の辞を胸のなかで組み立てていた。


「不服か。列侯の夫人にして丞相の子婦よめだぞ」


 曹植がまた尋ねた。かといって問い詰めるというわけでもなく、のんびりとふしぎがるような口調だった。


「なればこそ」


 崔氏はようやく口を開いた。

 家格の不均衡という点を第一に挙げて断るのが、やはり妥当というべきだった。


 これは単なる方便ではない。己は清河崔氏の一員として、一族の安泰と存続に貢献する義務がある。

 曹植に寄せる個人的感情を抜きにしても、彼の提案を断ることは己の務めであると崔氏には思われた。


 彼女の祖宗がこの清河東武城とうぶじょうの地に遷ってきたのは前漢初期であると伝えられるが、漢朝およそ四百年を通じて、青史に伝が立つような人物が一門から現れたことはない。


 他郷の人間で清河崔氏という家門を知っている者がいるとすれば、それは専ら、ごく近年になって崔琰さいえんそして崔林さいりんという丞相府官僚を輩出したためであり、家門それ自体には、全国に通用するような重みはない。


 それほどに無名な地方豪族が中央の貴顕の家、それも天下の権力を一手に掌握するほどの権門と通婚するなど、諸刃の剣を手にすることに等しい。


 族女ひとりの結婚により族人一同が思いもかけぬ栄達に恵まれることもありうるが、その後の風向き次第では、一夜にして族滅の憂き目にも遭いかねない。


「なればこそ、冀州きしゅうの片田舎の寒門がどうして丞相の姻戚などになれましょう。

 分不相応な通婚は、我が家では代々戒められているところです」


「そなたの実家にさほど権勢がないのは知っている。

 この土地の古い家柄とはいえ、めぼしい官僚を出しているわけでもないようだ」


「そのとおりです」


「しかし、そなたの叔父上―――季珪どのは秩石こそ比四百石とさほど高くないが、丞相府において東曹掾とうそうえん(人事担当官)という重要な職務にあずかっておられる。その推挙する人間に誤りはなく、朝野での声望はつとに高い。


 何よりその人品と風貌の高雅さは誰からも、わが父からも深く認められるところだ。

 あの父上が幕僚相手に遠慮なされるというのは、そうそうないことなのだがな。

 そなたが思うよりもはるかに、あの御仁は丞相府で重く見られている。


 それにそなたも聞いていようが、わが父はさほど家格というものを重視しない。

 個人としてその才能なり人柄なりをお気に召されれば、出自に関係なく属僚として取り立て、必ず実績に即して昇進するようになさるのだ。


 姻族いんぞくの選定に関してはまだ実例が乏しいが、崔季珪どのの同族のむすめならば喜んで俺に娶わせようとなさるだろうし、世人の目から見ても、丞相府の重鎮たる季珪どのが曹丞相の子息の姻戚に選ばれるというのは、さほど奇異な落着にはあたるまい」


「そう、でしょうか……」


「そうだとも。

 それに何より、そなた自身と同様にそなたの一族も寡欲だということが、俺には重要だ」


 曹植の表情からふっと伸びやかさが消え、わずかに年輪を増したように見えた。


 崔氏は今ひとつ混乱から抜け出せないながらも、ここからがおそらく本題なのだ、と理解できた。

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