(二十九)乱調
薪割りの作業場から本邸のほうに戻った崔氏は、ほかの族人の目に留まらないよう、できるだけ手早く沐浴を終えた。
ここで燃料を費やしては薪を割った意味がないので、ほとんど水のまま浴びたようなものだった。
自室に戻って洗い髪の水気を念入りに絞っているうちに、早くも曹植のもとにゆく時刻となった。
胸中にはふたたび、ざわめくような重苦しい影が少しずつ息を吹き返してきた。
だが、広い客室の奥に置かれた
起き抜けはぼんやりしているが、次第に意識が明瞭になると、崔氏の顔に気づいて「おう」と大らかな笑顔になる。
いつもどおりに髪結いや身づくろいや食事の世話を受け、それが終わると、これも毎日の慣行として、昨夜以来の読みかけらしい簡牘をひもといた。
文字が目に入るやすぐに没頭していったが、三巻ほど黙々と読み終えると、いくらか凝ったように首を左右に鳴らしはじめる。
そして顔を上げると、
ひとつ間をおいてから、はい、と彼女はうなずき、桐の木目が美しい楽器を覆い布の中から取り出した。
彼女の持ち物ではあるが、曹植の求めによりこの房に置くようになってから久しかった。
弦を調整しながら、胸に芽生えた不安がいよいよ色濃くなるのが分かった。
これまでとて、曹植がすぐ傍らにいると思えば常に平静に演奏できていたとはいえないが、今日の奏音にはとりわけ、己の心の乱れがそのままに出てしまうのではないか。
さらに悪いことには、彼は詩人の常として音律学にも造詣が深く、とにかく異様に耳がいい男である。
あるいは、
(余計なことを、考えてはいけない)
そう自らに言い聞かせながら、崔氏は瑟の栓のある側を床に据え、もう一方の側を膝の上に置いた。
安定したのをたしかめてから、爪を下ろした。滑り出しはうまくいった。
(そう、何も考えてはいけない。
平原侯さまはただ、書を読む背景に音楽を欲されているだけなのだから、奏者の側も、心を平らかにしてお応えするだけでいい。何も考えてはいけない。
―――だけれど)
崔氏は小さく息を飲み込んだ。
弦の音はつづいているにもかかわらず、喉の奥で鳴った音が曹植にも聞こえたのではないかと思った。
(だけれど、―――他者を貶めたいという悪意は、指先から奏でる音にも染み出るものだろうか)
見知らぬ婦人の後ろ姿が一瞬、脳裏に浮かびあがって消えた。
弦を弾く指使いが少しずつ荒くなってきたことを、崔氏は自分でも感じていた。
(違う。あんな夢は見なかった。あんなことは、―――あんなことはもう、忘れなくては)
こうべを左右に振る代わりに、ひたすら指を動かしつづける。
(平原侯さまがいずこの婦人を慕っておられようと、そんなことはわたしの暮らしとは関係ない。
いずれにしても、遠くないうちに必ず、侯は鄴へ去ってしまわれる。
わたしもいつか鄴に戻る機会があったとしても、そのときにはもう、侯との接点など何もない)
そう、何もない、と思ったそのとき、自分では平静を保っていたつもりでありながら、今度ははっきりと音が乱れた。
曹植が書物から顔を上げてこちらを見る。
「珍しいな」
「粗相をいたしました。ご容赦を」
「考えごとか」
「いいえ」
「隠さずともよかろう」
「まことに、指がもつれただけなのです」
「あるいは、―――そなたが『
曹植はふいに快活な、腑に落ちたような顔で言った。
崔氏はその顔を見るとなぜだか急に憤りをおぼえ、そして同時に泣きたくなった。
道理の分からない幼児のように気分が上下してしまう自分のことが、心からふしぎでもあった。
「なにゆえ、そう思われるのですか」
「若い娘が心を乱すといえば第一に恋煩いではないか。
己を律することに長けたそなたがそれほど平静を保ちがたいのだから、よほど深く心に懸けているものと見える」
「まさか、そんなふしだらな―――」
言いかけて、崔氏はことばにつまった。曹植は先をせかすでもなく、いつものゆったりした面持ちでこちらを見ている。
あと数日もすれば、このかたとこんなふうにことばを交わすこともなくなる。
このまなざしに触れることもなくなる。
それを思うと、崔氏は喉元がゆっくり締め付けられるような気がした。
まったく予期しないことに、本当の思いが唇からこぼれ落ちた。
「―――ですが、あるいは、そうかもしれません」
「やはりそうか」
「そのかたのことを考えると、うれしくて、胸が満たされて―――幸せなのに、悲しくなります」
曹植はじっと彼女の顔をみていた。
崔氏はそれに気づくと目元が赤らみ、いっそう深く目を伏せた。
「相反しているのだな」
「じきに、お会いすることも叶わなくなりますので」
「そうなのか」
「近くにいられる間に、できるかぎりのことをしてさしあげたいと、―――何でもしてさしあげたいと、そう思うことがあります」
「何でも」
曹植ははっきりと眉をしかめた。
「献身的なのは悪いことではないが、未婚のむすめがそんなことを安易に言うものではない。以前も警告したが」
「―――安易な思いで申し上げたわけでは、ございません」
「ならば、どれほどの覚悟だ」
「たとえば―――」
崔氏は言いあぐねた。
たしかに、彼の望むことなら何でもしてあげたいという気持ちは本当だが、彼の望むこと―――彼から望まれることがそもそも具体的に想像できない。
たいていのものは手に入る身分の青年である。自分にしかできないことなど実際あるだろうか。
瑟の演奏とて、いまの曹植にはほかに娯楽がないから所望されてはいるが、本来の自分の腕前は家人に聴かせるのが関の山であると思う。
「……でしたら」
我知らず、目元の朱色が頬にまで広がり、声も小さくなった。
「たとえ一晩中でも、望まれるだけ、ご満足のゆくまでしてさしあげられると思うのですが。
こうみえても、体力はありますので」
曹植が何も言わないので、崔氏は視線を上げた。
彼にしては珍しく、目を見張って
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