(二十八)斧に匪ずんば

(こういうことばかり考えていては、だめだ)


 崔氏は自分の両頬を勢いよく叩いた。

 手から離れた斧の柄が、地面の上で乾いた音を立てる。


 だが、いちど思い出した抱擁の感触はごく鮮やかで、彼女をいっそういたたまれない思いにさせた。


 昨日のあの同衾、事故としか呼びようがないあの同衾は、たしかに信じがたいほど互いを密着させることになった。

 とはいえ、お互いきちんと衣服を着けていたし、曹植の側に意識がなかったのだから、あれで懐妊することは決してないと思う。


 およそ三年前、まもなくこうがいを挿そうとする頃、自分ももうすぐ女性として成人するのだという責任感が高揚した十四歳の崔氏は、叔母に向かって、結婚したら子どもはどうやって儲けるのか尋ねたことがあった。

 しかるべき心構えが必要だと思ったのである。


 このとき叔母はなぜか動揺の表情を浮かべたが、それでも一瞬後にはいつもの柔和な物腰に戻り、「夫となるかたのなされることに逆らわず、すべてお任せすればよいのです」と教えてくれた。

 そうなのですか、と崔氏は納得した。

 つまり、叔母の説明を信じる限り、本来主導すべき男の側に意識がないなら、妊娠は起こるはずがないのだ。


 それに何より、あのとき彼がかきいだいていた婦人は、そもそも自分ではなかった。

 頭の芯が急速に冷えた。


 だが次の瞬間、彼と初めて出会った日―――あの日あの小川のほとりで、初めて与えられた抱擁の感触が、否応もなくよみがえってきた。

 ふたたび、全身が熱くのぼせあがる。


(―――馬鹿なことを。

 あのかたにそんな意図は全くなかった。ただ肉親のように案じてくださるお気持ちだけがあった。

 そう、ほかの誰でもなく―――わたしのことを、心から案じて、抱きしめてくださっていた。あのときは)


 布越しに感じた腕や肩や胸板を―――女の身体とはずいぶん違うその武骨さを思い出し、安堵するような、羞恥のあまり身の置き所がなくなるような、なかば錯乱したような気持ちになる。


(だめだ)


 自分に考える間を与えないよう、崔氏は斧を高く振り上げ、これまでよりさらに力を込めて振り下ろした。筋肉を徐々に痛めつけて、少しでも気を紛らわせたいと思った。


(平原侯さまのことばかり、考えるだなんて)


 考えてもどうしようもないことに心を労するのは、時間の無駄でしかない。

 両断した薪をさらに細断すべく、力いっぱい何度も斧を振り下ろした。


「おはようございます、姉上」


 ふいに声をかけられて、崔氏はようやく眼前のことに意識を戻した。振り向いて見れば、族弟たちのなかでも年長の、この正月に数え十五になった少年ふたりがすぐそこまで来ていた。

 崔氏とは二歳しか離れていないが、彼ら一族のしきたりでは長幼の序の遵守が徹底されているので、言葉遣いはあくまで丁重である。


「あら、おはよう。あなたたちが、今朝の当番なの」


「はい、―――姉上が進めておいてくださったのですね。ありがとうございます」


 そう礼を述べつつも、ふたりの表情はいくらかこわばっていた。

 それほど異様な勢いで薪を割りきってしまっただろうかと崔氏は思ったが、あたりに散らばったものを見やれば、たしかに彼らが日課として割る分よりは多そうであった。だが、異常というほどでもない。


 崔氏は自分が割った分を何束かに分けてまとめると、ふたりに告げた。


「では、後は任せます」


「はい。お疲れ様でした。

 ―――今日はこれから、平原侯さまのお世話にゆかれるのですか」


「ええ。その前に、簡単に沐浴しようと思うけれど」


 そこまで言ってから、崔氏ははたと口をつぐみ、耳まで赤くなった。

 この子たちに誤解されたらどうしようかと思った。


「あの、とても、汗をかいたから。

 この状態でお部屋にお伺いしたら、あまりに失礼でしょう」


「はあ」


 ふだんは落ち着いている族姉の声が急に早口になったことに気づいたかもしれないが、彼らはそこにはあまり反応しなかった。


「あの、姉上」


 ふたりのうちひとりがついに、意を決したように口をひらいた。

 思いつめたようなそのようすに、崔氏も何かただごとならざるものを感じ取る。


「どうしたの」


「どうか、早まったことをなさらないでください」


「早まる?」


「ひょっとして平原侯さまに対して、いろいろ思うところはおありかもしれませんが―――」


 崔氏は大きく目を見開いた。


「あなたたち、まさか、気づいて―――」


「たとえ険悪な関係だとしても、いきなり斧で頭をかち割るとか、そういう極端なことはおやめください」


 彼女は呆然として族弟たちを見返した。

 それをやらかそうものなら我が一門の族滅は免れないのでやめてください、と真剣な顔に書いてある。


「待って。どうしてそんなことを言い出すの」


「いや、だって、先ほどは俺たちが近づいても始終、“平原侯さま”と呟いておられたではないですか。斧を何度も激しく振り下ろしながら。親の仇かと思いました」


 いままで黙っていたほうがここで口を挟む。


「そ、そうだったかしら」


「お尋ねしづらいのですが、―――平原侯さまから何か、その、礼にそぐわないことを迫られているとか、そういうのではないですよね」


「もちろん!」


 崔氏はほぼ瞬時に否定した。その速やかさが自分で気恥ずかしくなった。


「間違っても、そういうかたではないから安心して」


「ならいいのですが……仮に、もしそうだったら、姉上が無理にあのかたのお世話をつづけることはないと思います。

 宗主にご相談申し上げれば、気の利いた男の使用人を代わりに手配してくださるでしょう。


 姉上がお世話を離れることで、我が家は平原侯さまから一時の不興はこうむるかも―――ひいては丞相の御おぼえも悪くなるしれませんが、まあ、その、―――姉上が思い余ってあのかたの頭上に斧をふりかざすような事態に比べれば」


 そのとおりです、ともうひとりのほうも大きくうなずいた。

 たしかに、丞相の愛児殺しによって一族誅殺に至るという暗黒の結末に比べれば、大抵の冷遇は望むところといえるであろう。

 その理屈は崔氏も納得できた。


 だが、自分の行為のせいで曹植の評判を下げかねない誤解を生んでしまったのだとしたら、速やかに誤解を解かねばならない。


「あの、何度も言うようだけど、平原侯さまはそういうかたではないの。

 品行方正……というには無理があるけれど、でも、そういう方面で非道をなさるかたでは決してありません。

 あなたたちもどうか、信じて。お願い」


「疑っているわけではありませんが……先ほどはなぜ、“平原侯さま”と何度も口にしておられたのですか」


「それは……」


 さすがに正直に答えることはできない。

 苦し紛れにちらと東の空を見やると、太陽は思っていたよりも上に昇っていた。


「もう時間だから、本当に行かなくては。沐浴も済ませないといけないし。

 そういうわけだから、後の作業は頼みました」


「―――分かりました」


 かなり強引な口調で引き継ぎをさせられた形の族弟たちは、それでも丁寧に礼をして崔氏を見送った。

 白い首筋の上でひとつに結われた黒髪が背中で揺れ、そして近くの棟に消えていった。


「なあ」


「うん」


「どうなんだろうな」


「どうとは」


「つまりさ」


「―――平原侯さまが姉上に“そういう関心”を持っておられるかどうか、と訊きたいのか?」


「それだ。姉上があそこまで言われるからには、たぶんその、無理強いはされていないと思うが、平原侯さまが腹の内でどうお思いかは、別の話だろう」


「まあそうだな。―――」


 ふたりはそこで無言になった。

 平原侯が鄴から伴ってきた家臣や従僕の一団はいま、ほぼ隣県である平原の県城に滞在しているという。

 つまり、その気になればすぐこの崔家へ呼び出して、気心の知れた者たちに身辺の世話を命じることができるわけだ。

 それをしないのだから、平原侯は崔氏ひとりから世話を受けることに、少なくとも不満は抱いていないのだろう。


「姉上の先ほどのようすからすると、平原侯からつらく当たられているわけでもなさそうだ」


「そうだな、だが」


 ふたりは大体同じようなことを考えた。

 同姓の、つまり父方の血でつながった族兄弟は実の兄弟に準じるものであるから、彼らも崔氏のことは実の姉のように思っており、かつ幼いころから一緒に過ごす時間が長かったので、彼女がいまや妙齢の女性であるという感覚はあまりない。


 だが、彼らにとって異姓の身内、つまり姻族の一員や母方の従兄弟など、清河崔氏と婚姻を結ぶことが可能な身内のなかには、たまに訪ねてきたときにわざわざ彼女の所在を訊いてきたり、何かと言伝ことづてを頼んできたりする若者がしばしばいる。

 族姉がたいそう端整な美貌だと噂になっているらしいことを、ふたりは何となく察していた。


 とはいえ、それは狭い地域社会でのことだ。

 絢爛たる大都会の鄴で目が覚めるような美女たちを見慣れているはずの丞相の御曹司が、こんな田舎でたまたま出会った農婦のような装いのむすめに―――丞相府高官の姪とはいえ―――わざわざちょっかいをかけたりするだろうか。


「やはり、俺たちの杞憂だろう。姉上が平原侯さまから迫られるというのは」


 彼らにとって族滅も心配だが、実の姉弟のように育ってきた族姉の貞操が脅かされることも当然、心配であった。

 だが、よく考えてみれば、丞相の御曹司ともあろう者が、飢えた無頼漢のような挙に出るとは思われない。

 もし旅先でも女なしに過ごせないような類の貴人であるならば、そもそも旅游に妾媵を随行させているのではないか。


「ならいいが。―――逆は、どうだろうな」


「逆?」


「姉上が“平原侯さま”と何度も口にしておられたのは、―――それだけ、心に懸かっていたから、という可能性もあるだろう」


「つまり、平原侯さまが姉上に迫ったのではなく、姉上のほうが平原侯さまを慕う側だと?

 それはないな」


「そうかな。ご本人を見かけたことはないが、中原随一の貴公子で、文壇の寵児だろ。その事実だけで心が揺れるものなんじゃないのか」


「何を言っている。うちの族姉妹のなかで、その手のときめきといちばん無縁そうなのが姉上だろう。

 野合やごう(男女の私通)という単語を聞いただけで耳を洗いかねないぐらいだからな。

 季珪きけい叔父上がお決めになる結婚相手以外の男に、姉上が自分から思慕を寄せるなどありえないだろう」


「まあ、それもそうだ」


 問いかけたほうも納得し、ふたたび族姉が去っていったほうを見やった。

 たしかに朝日は昇りつつあり、地面や家屋の屋根に光がさしかかる範囲も広がっていた。

 そして、彼らは新しい木材を取りに行き、それぞれの作業に入っていった。

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