(十一)流血

「い、や」


「どうした」


「―――いやだ」


 次の瞬間、彼女は曹植を呆気にとらせる勢いで手をふりほどき、反動で足を踏みしめざま、腰に提げた短刀の柄に手を伸ばしていた。あの日と現在が交錯する意識の不確かさとは逆に、身体に叩き込まれた順序は驚くほど鮮明だった。


 そもそも女は膂力りょりょくで劣る。半端な傷を負わせれば、二倍三倍に報復される。我が身を護るには、一度でかたをつけるしかない。ひとたび刃を向けたなら、一切躊躇してはならない。恩情を残してはならない。最も脆弱な箇所を、一撃で深く。そう教わった。


 柄を握る手に渾身の力を集中する。腰を落として足場を定め、彼のふところへと一息に踏み込む。首筋がすぐ近くに見える。ほぼ同時に角度を定めた切っ先を迷いなく繰り出せば、すべての忌まわしいことは終わり、何もかもが元通りになるはずだった。








 彼女の思考がようやく平静を取り戻したのは、視界に赤いものが浮かび上がってからだった。自分とほぼ向かい合う曹植の左肩の布が内衣まで切られ、わずかだが血が滲み出していた。


 次に、自分の右手首をとらえる力の強さを感じた。

 捻り上げられた右手も、それを掴んでいる彼の左手も、それまでは風景の一部のようにぼんやりと眺めていたのが、ようやく我が身の痛みとして甦ってきた。


「―――なんということを」


 初めて声となった声は、萎れた露草のように力なく地に落ちた。


 少し離れた、川辺に近いほうの路傍では、装飾らしい装飾もない武骨な短刀が鈍い光を放っていた。地に落ちたときには音をたてたはずだが、一体いつ我が手から弾き飛ばされたのか、そのことも記憶が定かではなかった。


「お許しください」


 己の犯した愚行の重さに打ちのめされながらも、崔氏の声は誠意ある強さを取り戻せずにいた。足元のわななきが止まらず、額の脂汗が止まらないのも、己の手が貴人に刃を向けたからではなかった。


 無辜むこの他者に傷を負わせ、血を流させたからでもなかった。


 謝罪と介抱と、今ここでしなければならないことは分かっていながら、意志の力を越えたところで、見捨てられた仔猫のように肉体が惨めに打ち震えている。


 崔氏はようやくのことで自由なほうの手を伸ばし、曹植の傷をたしかめようとした。彼もまた空いているほうの手でそれをとどめ、


「大丈夫か」


と尋ねた。


「どうか、お許しください。平原侯さまに、御身に傷を」


「かすっただけだ」


「早く、血を止めなければ」


「分かった。止める」


 曹植は袖から手巾を取り出して噛み裂くと、歯と右手のはたらきだけで左肩の傷口を覆うように巻き、すぐに締め上げてしまった。驚くほどの手際よさであった。


(そういえば)


 茫洋とした視界のなかでその動きを見つめながら、崔氏はふと思い出した。

 丞相府に勤める叔父たちの話によれば、丞相は出征の際、往々にして妻子を戦場まで帯同するのだという。それは、曹家の本拠地がぎょうに移されるより前からの習いであるらしい。


 さすがに前線へと配されたことはないであろうが、曹植も幼いころから軍旅に身を置き、その空気を吸ってきたのだ。簡単な傷の処置は早くから習い、実地でみてきたであろう。

 そして、おそらくはそれよりも早くから、武具の扱い方を習い、修練に親しんでいる。


(わたしから短刀をもぎ取ったあと、仕留めようと思えば、できたはず)


 己がなしたことは文字通りの凶行だった。

 彼にしてみれば、介抱しようとした相手から、突然に急所を狙って襲われたのである。あまりの理不尽さに、普通ならば赫怒するはずだ。

 次に何をしでかすか分からない狂人相手ならば、優位に立った瞬時に反撃して息の根を止めないほうがおかしい。身を護るためにも、当然そうすべきだ。


 ましてやこの青年は、あめしたでたいていのことは許される身分なのだ。


 止血の作業を終えた曹植は目を上げた。


「もう止まった」


「まことでございますか」


「そなた、大丈夫か」


「どうか、何卒、罪はこの一身に留めてくださいますよう。我が族人にはどうか」


「そなたは大丈夫なのかと訊いている」


 掴んだ手首の位置を胸の下まで下げ、曹植が崔氏の目を覗き込んだ。


「何かあったのか」


「何も」


「そんなはずはあるまい。

 そなたのようなむすめがこの挙に及ぶには、何か理由があるはずだ」


「本当に、何も」


「隠すな」


「わたくしの身には、何も」


 言いながら、崔氏はゆっくりうなずいた。

 それは本当だった。己の身には何も起こらなかった。膝の傷を除けば、何もあとは残らなかった。あのときはそうだった。あのとき自分は、自分ひとりは逃げおおせたのだ。


 逃がしてくれたのは―――逃げられなかったのは、かの婦人ひとりだった。


 視界が熱いもので揺れ、その熱は頬を滴り落ちた。

 すでに齡十七にもなった身でありながら、涙ですべてをあがなおうとしているかのようで、情けなさにまた泣けた。


「―――申し訳ございません」


「落ち着くなら、しばらく泣いたほうがよい」


 曹植は崔氏の背に手を置き、そのまま抱き寄せた。肉親のような動作だった。彼女も逆らわなかった。傷を負わせていないほうの肩に、頭を載せた。








「何があった」


 崔氏の嗚咽がひととおり収まったころ、伏せられたその頭の上で曹植がぽつりとつぶやいた。

 深海のような沈黙が降りた。初春の肌寒さがほんの少し立ち戻ったようでもあった。


「―――八年前」


 崔氏がようやく、口をひらいた。

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