第4話 迷宮入りの不条理


「真依、すぐに謝りなさい」


「お母さん、待ってよ。私は何も言っていないよ。自分から名乗らないといけないときに名乗らないから注意して何がいけないのよ」


「あのね、色々と事情がある子なのよ。ちょっとしたことでもこうやって……」


 当の本人はひとりで喧嘩を売った後、拗ねたようにこちらの言動を監視している。


「真君、何と言われたの」


 じっとこちらを見ながらそれでもなお、赤い唇を頑なに結んでいる。




 そのうちプイッとひねくれたように台所から出て行ってしまった。


 母の深いため息を見て、何やら言えない事情があるようだ、と私は飲み込もうと努力した。そうでもないとお母さんもこういう態度は取らないだろう。


「お母さん、あとでお父さんに声を駆けておくから。気にしないで」


「そうしてくれると助かるは……」


 夕食のあとにでもこの件について話し合いになるだろう。


 それを考えただけでもうんざりする。なぜ、蛇はうちに転がりこんだのだろう。


 父も母も何かを隠しているような気がしてならない。




 ひとまず台所を出て蛇のあとを追うと冷たい雨音はいつでも耳に入っていく。


 肩を回しながら、廊下で座っている蛇に声をかけた。


 蛇は先ほどの件があったためかいかにも不機嫌そうに白い頬を引きつらせ、眦に力を込め、いじらしく座っていた。




「私、変なことを言った?」


 視線とシンクロするように廊下の床がじんわりと冷たく感じた。


 足先からはこの時期にはふさわしくない、そそり立つような鳥肌がジワジワと身体の深奥まで支配する。梅雨時には長雨のためか、鳥肌がたってしまうほど寒くなるときがあるのはなぜだろう。


 もしかしたら、その夏はもう目の前なのに永遠に梅雨の季節になって、もう元の晴れ間には戻れない、と思うときがあるんだ。




「真君、さっきは……」


 真依が言いかけたそのときだった。


 いじらしく座った際の神経質さはどこにいったのやら、蛇はすぐさま立ち上がり、古くなった床にミシミシッと不快な音が響いた。




「君は偽善者だ!」


 身体にぴったりにくっつくかくっつくかないかまで目の前には紅潮した顔が現れた。


「よく聞くがいい。これは忠告だ。姿見は善人ぶって行動しているがそれはただの虚妄さ。そういう愚か者を人は偽善者と呼ぶようだね。よく人様の私的な事情についてずかずかと入り込んで、平気な顔をしているのかが僕にはわからない。友人に嫌われる定型だよ。僕が前の中学でも君のような傍若無人な狂人はごろごろいた。僕はそれが我慢ならなかった」


 蛇は急降下するかのように言い切った。




「猛獣は餌を容赦なく喰いつき裂く。弱肉強食という掟は恐ろしいことだよ。僕もそれに幾分厄介になったことか」


 真剣に話を聞くのも阿呆らしくなるほど、蛇の上目線は聞いているだけで疲れてしまいそうだった。


 蛇は前の学校で散々苛められたその挙げ句の結果、うちに引っ越してきたのか。


 その取り繕ったわざとらしい物言いがしっくりこないけどおかしいのだ。


 その難解な熟語の多用がコミュニケーションになっていなくて、すごく場違いな気がする。わざと自分を強く見せている蛇の算段が透けて見えているみたい。




「無視するな」


 蛇はまだ興奮が冷めないのか、さらに苛立っていた。


「真君は何が言いたいの。私は分かんないから何が気に食わなかったのか教えてよ」


「君のそういう点が変だ」


「何が変なのか教えてよ」


「それもわからないとは可哀想だね」


 真剣に話を聴く相手でもないと思ったが、話はいつまで経っても平行線のままだ。


「だから、教えて」


「それくらい自分で考えろ」


 シミひとつない白い顔で睨みつけ、裾から伸びた白い手をワナワナと震わせ、拳は硬く握られていた。




「私は真君が怒っている理由がわからないよ」


「怒ってはいない。君の言動に不満を述べているだけだ」


 こいつは何かが違う。


 脳裏にはそんな考えがよぎった。


 普通の人という基準も明確ではない。


 私が今まで生きてきた年月の経験から換算して思った。




「初対面の人に暴言なんか吐かないよ。ましては預かってもらうんでしょう。あんたは強いふりをしているけど本当は弱虫なんだ」


 言い過ぎた、と思ったとしてももう遅かった。


「お前は……」


 どうしたの、と聞いても、もう遅く、その蝋燭のような白い手で青白い顔を隠しながらその場に座り込んでしまった。


 ぶるぶると華奢な身体を震わせ、細い瞳からは、過去を曝け出すときに滴り散る、雫を見せた。




 温かい血の気が通った雫は彼の繊細そうな痩せこけた頬を伝っていった。


 伝うと同時に感情を押し殺した少年の叫び声が、悪夢のような廊下に静かに響いていった。


 静かに泣いているにも関わらず、耳の奥まで纏わりつく嗚咽は、心の窓を自然と遮断したくなった。


 ひとりの少年の深い哀しみに触れ、廊下の遠くから自分を硝子越しに見ているような気がした。




「母さん……」


 遠くで雨が地面を叩く音が聞こえる。


 廊下は一段と暗くなり、雨脚はさらに激しくなる。


 それは迷宮入りの不条理を暗示していた。


 明日くらいは久しぶりに雨が止んでくれるといいのにと思いながら、私は孤独な少年の後姿を見ていた。


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