恋愛理想は焼き菓子のように

日下部素

第1話

オーブンから出された焼き菓子は蒸気をまといふんわりとし、長方形の型から焼けた生地をのぞかせ、その黄金色が皆の目を引く。バターと砂糖のにおい、焼き立ては食べれば温かくしっとりとしている。


まろやかで芳醇な香ばしさが部屋いっぱいに広がる。


集まった人々は笑顔になり、うまく出来上がったことに声が湧き立つ。




「これはプレーンなものですがここにチョコチップ、果物、ナッツ類や抹茶、ほうじ茶、紅茶またココアパウダーなんかもアレンジしてみるのもいいですね。アレンジしたものも今回ご用意いたしました」




型から出された焼き菓子は、まじまじと見ていると昼下がりのこの時間には午後のお茶会を開催したくなりそうだ。




「試食してみましょう。一口大に切り分けますね」


と言い、切り分けようとするとある質問が意外なところから声が上がり問いかけられた。




「先生、どうやったら先生みたくうまく作れますか?」




そうですね、と先生と言われた彼女は手を止めて一瞬考え


「私が思うに料理やこういったお菓子作りはもちろんおいしさ、自分らしさや個性も


大事だけど上手に作るコツは…」










「理央、洗い物と洗濯ものやっといて~」


「これから私、出かけるから」


「わかったよ~」


朝、ある二階建て一軒家、一階の最下段の階段から彼の自室に聞こえるように大声でいつものように家事を言いつけた。


家事を言いつけられた彼は中学生の頃は特に打ち込んだこともなく、平々凡々な学生生活を送っていた。三年間特にトラブルにみまわれるでもなく、クラスでもまったくのモブキャラのような生活だった。






周りの男子に流されることもなく、かと言って斜に構えることもせず、志操堅固しそうけんごということはなく協調、平和、無難に戒驕戒躁かいきょうかいそうといった感じに日々をこなしていた。


それなりの友人とそれなりのイベントをこなし、彼、泉理央(いずみ りお)は高校一年生の春を迎えている。


中学では部活に所属しなければならなかった。


友人の勧めで運動部に在籍していた。その部活も実働日数が週1~2日でさほど学業にも影響ないほどの大したことのないクラブ活動だった。






若干大変だったことは母の雅子まさこの勧めで私立田ノ浦高校に入学することだった(家から近いこともあり家事手伝いをしてほしいような気配がしたが)。偏差値がそれなりに高く、学業についていけるかが心配だったが中学生からの友人、熊谷直人(くまがや なおと)も進学することもありお互い受験勉強を助け会いながら、受験して合格した。






そんな彼にも、好きなものがあった。


それは甘味。


お菓子、洋菓子、フルーツ、なんでもござれ。


駄菓子やポテトチップスなどよりも焼き菓子、洋菓子や和菓子といった甘い物が好物だった。


その背景には理央の母、雅子が元パティシエで幼いころから家に菓子を持って帰ってきたり、作って食べさせていたところが大きい。


両親は共働きであり、父、宗久(むねひさ)はホテルの営業を務め、母はパティシエの第一線を離れてはいたが地元の洋菓子屋で働いていた。


物心つく頃からお菓子作りを母と一緒に行っていたこともあり、家事の手伝いも抵抗なく行っていた。


「まずは洗い物から済ますかな」


パソコンでネットサーフィンに勤しんでいた彼はそれをスリープ状態にして自室から一階へと降りた。


ダイニングキッチンへと行くと、リビングでは雅子がカバンに小物を詰め出勤の準備をしていた。


「今日は何時くらいに帰ってくるの?」


「夕方にはかえってくるわ」


雅子のシフト次第では理央が夕食の準備を行うこともあり、事前に聞いた。


シンクの食器入れに水で浸された、食器を見て、食器用のスポンジに洗剤をつけて洗い始める。


「理央、部活とかやらないの?」


「どうしたの?突然?」


「中学の頃もそんなに何かに打ち込んでなかったしぼーっとしてると3年間すぐすぎちゃうわよ~」


特に責め立てるでもなく、かといってふざけているわけでもない雰囲気だった。


「受験終わって、気が抜けちゃって自堕落な生活をエンジョイしていたい今日この頃」


「一念発起してなにか楽しいことや好きなことに打ち込んでみたら?」


「甘い物すきだったら、お菓子作りできる家庭科部でも入ってみたら。かわいい女の子とかもいるかもよ。」


「んー…」






4月の3回目の週末、漫然とインターネットをしながら家にこもっている息子を案じている部分もあったのかもしれない。


理央としては部活動や校内活動に関してあまり有意義に感じてはいなかった。


確かに何かに打ち込んだ記憶は残るが5年後、10年後になにか身になるものが残るかと言ったらあまりそういうことは感じていなかったからだ。


「かわいい子か…」


理央が小声でつぶやく。


好きな人、というのもいなくはなかったが告白するまでには思いは至らず、現在絶賛単身である。


恋愛に興味がないわけではないがそれ自体にそこまで関心がわかなかった。


受験勉強も終わり、やっとの思いで入った高校で落ち着きを取り戻し始めた頃に実りのあるかわからない活動に身をささげるのはいささか気が引けた。


なんとなく話題をそらすために何かないかと思案した。


洗い物をしながら手元を眺め、あることに気づく。


「そういえば料理器具に【navire】って名前が書いてあるもの多いよね」


「どこで買ってるの?」


話題をそらす口実ができたと軽いガッツポーズを心の中で決めながら


「ああ、それね、あそこにあるでしょあの店、あ!そういえば・・・」


プルルル…


自宅の固定電話が鳴った。


雅子がそそくさとリビングの端の小さい机の上の子機を取り上げ、外向けのやや甲高い声を作り応対した。


「はい。泉でございます。」


「…あー!久しぶり!どうしたの?急に!え?そうなの!帰ってきたの!」


作り声から普段のややテンション高めの声に戻り、一気に破顔した。


どうやら理央の小学校の頃の同級生の親らしい。


好機!と理央はとらえそそくさと洗い物を終わらせ、洗濯機の洗濯物を取りに向かった。


ドラム式の洗濯機から洗濯物を取り出し、かごに入れ、二階の物干し場へと上がっていった。


外は快晴。まさに外出日和といったところ。


理央の家は中核市であり山からも海からもさほど離れてなく、市街地からも遠くはなく立地としては良好だった。


理央は山の稜線や海の水平線が望め、見晴らしもよいこの家を気に入っていた。


洗濯物をとり、物干しハンガーに干していく。


そんな中、雅子に勧められた、何かに打ち込む、といったワードがやや心に残っていた。


田ノ浦高校に入学後、何日かした後にどこの学校でも行われる部活動勧誘の部活動紹介のことを思い出していた。


「家庭科部の紹介とかあったっけ?」

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