ジルベルトと天使———*



*——————————




 ——また夢を見ていた。

 


 牢を出てからひと月ほどになるだろうか。

 ウェインの王宮医師たちの手厚い治療を受けたが、数日間高熱にうなされ生死の境を彷徨った。しばらく朦朧とする日々が続き、その頃から幾度となく同じような夢を見ては、まだくらい明け方に目を覚ますのだ。


 切り裂かれた衣服を纏ったジルベルトは真っ白な明るい空間に横たわっている。身体は傷だらけだというのに痛みは感じない。

 

 何もない空間に、淡い桜色の長い髪がふわりと舞った。


 大きな白翼を背負った天使がすぐそばに舞い降りる。天使の面輪が見る間に大写しになって、ジルベルトの胸がどくりと脈を打つ。

 剥き出しの肩に柔らかな唇が押し当てられれば、痺れるような感覚が口づけられた肩から全身に伝わるのがわかり、同時に身体中がぼうっと白い光に包まれた。

 そして光が消えると、不思議なことに傷口のすべてがきれいさっぱり塞がっているのだ。


『……俺を救いに来たのか?』


 ジルベルトが問えば、俯いていた天使が静かに顔を上げる。長い睫毛に縁取られたアメジストの瞳が薄らと微笑みを湛え、ジルベルトを見下ろした。


 ———美しい人だ。


『君は……』


 見覚えのある少女の面影が天使の面輪と重なって、ジルベルトの澄んだ青いに映る。

 艶やかな髪に触れようと指先を伸ばせば——淡い桜色のさざなみは儚く消え去り、目が覚めた。

 





「———殿下、ご気分は?」


 朝から晩までジルベルトの寝台に張り付いているのは、彼の従者であるフェルナンド子爵だ。


「ああ……悪くない」

「今朝は顔色も良さそうだ。体を起こしましょう。すぐに朝食が来ますよ」


 騎士団の近衛騎士服を纏ったフェルナンドの力強い腕がジルベルトの背中を起こし、腰元にクッションを添える。整えられた漆黒の前髪から覗く翡翠ひすいの双眸は怜悧な光を湛え、彼の主君の顔色に安堵の色を滲ませた。


「まだ目覚めたばかりだ。食べる気がしない」

「少しでも召し上がっていただかなくては回復が遅れます」


 ——ご飯をちゃんと食べていないから、そんな弱気になるのです。


 地下牢の独房で聞いた声がふとジルベルトの脳裏に響く。


 —— ご飯はちゃんと食べてくださいね?


 彼女の面差しは、夢に出てくる天使によく似ている。


「ご飯……」


「は?」

「いや、何でもない。安心しろ、食事は残さずに食べる」


 食べる気がしないと言ったり、残さず食べると言ってみたり。フェルナンドは首を傾げてしまう。


「体力も随分と戻られたご様子。この際だからはっきりと申し上げておきましょう。殿下はご自分の立場を十分に理解しておられるはずです。怪しいやからを見かけたとしても、一人きりで追うのはもう二度とやめていただきたい」


「ああ、そうだな」

「忍んで帝都を出る時は従者と護衛を最低でも数名、必ず連れて行くと約束してください。たとえそれが、リュシエンヌ王女の情報を秘密裏に探るためだとしてもです。特に……今回のように、貧民窟などという危険な場所に赴かれる時はッ!」


「わかった」


「今日はやけに素直ですね?」

「フェルナンド。今度ばかりは君の言う通りだ、俺が悪い」


「今回の件で殿下に危害を与えた者達に、相応の処罰を与えましょう」

「君は今俺が言ったことを聞いていたか? あの状況下では誰もが俺を疑ったろう。捕らえた者も拷問を課した者たちも、ただ彼らの仕事をしたまで。悪いのは彼らに疑われるような行動をした俺だ」


 フェルナンドは精悍な眉を歪ませ、やれやれと嘆息する。


「殿下、お言葉ですが。冤罪などあってはならぬ事。今や我が帝国の属国は数十にものぼり、国民は数百万人を超えている。その頂点に立ち、属国の全土を統べる皇太子が死にかけたのですよ?

 メイドの娘が殿下の危機をロベルト宰相に知らせていなければ、今頃どうなっていたことか。皇帝陛下が不治の病床に伏された今、帝国は絶対にあなたを失うわけにはいかないのです」


「君に言われなくてもよく理解わかってる。だが——」


 フェルナンドに向けられた淡いブルーの眼差しが鋭利なものに変わる。


「見せしめなど必要ない。……忘れるな。君主の剣は敵を殺すためにあるのだ。味方をおどすためにあるものではない」


 フェルナンドは僅かばかり双眸を泳がせて「はい」と呟き、敬意を示して頭を下げた。


 ———マリア。


 ジルベルトの薄青い瞳の奥に、絶望のなかで自暴自棄に陥った自分を励まし、世話を焼いてくれたメイドの無垢な愛らしい笑顔が浮かふ。


「そうだ……俺を死の淵から引き上げてくれた、あの若いメイドはどうした?」


「さぁ、私は存じ上げませんが」

「彼女の名はマリアだ。下働きのマリアを探して俺の前に連れて来い、礼を言いたい。

 それと——俺の身分と素性は、彼女には絶対に告げるな」


「それはなぜです?」


 フェルナンドの問いかけに、ジルベルトがおもむろに視線を逸らせる。


「彼女は下働きをしていて家名すら持たぬような者だ。囚人として接していた俺がいきなり皇太子だなんて名乗ったら……怖がるだろう?」


 皇太子がこれまで一度も見せたことがない照れたような表情かおをするので、フェルナンドはぽかんと見つめてしまう。


「まぁ、勝手にされれば良いですが。隠したってどうせすぐにバレますよ」


「それをバレないようにするのが君の役目だろう」

「は……? またそんな無茶振りを」


 と、フェルナンドが眉をひそめるも。

 ジルベルトはそわそわと落ち着かない。


 ——まさか。


 これは、殿下のの……?

 いいやそんなはずが無いと、フェルナンドの記憶が全力で否定している。


 皇太子ジルベルトと言えば。どんな美貌の姫君を目の前に据え置いても、不機嫌な表情のまま愛想笑いの一つさえ見せないと社交界に知れ渡るほど、女性に冷徹無関心な男なのだ。


 ——だがもしも殿下が恋に落ちれば。相手がメイドだと言うのが厄介事ではあるが、『皇太子は生まれながらに恋心という感情が備わっていない』という定説が覆されるかも知れん。


 少年の頃より皇太子のそばに仕えて十数年。

 二十三歳の主君が初めて見せる表情に、ジルベルトよりも三つ年嵩のフェルナンドは密やかに歓喜の気持ちを抱くのだった。


「そのマリアとやら。ウェイン城を追放されたそうですよ」


 栗色の巻き毛の前髪から覗くヘーゼルの瞳を悪戯いたずらに煌めかせ、ジルベルトの寝室に入ってきたのは、ジルベルトよりも年若そうな青年。

 漆黒の礼服の胸元に鷲の紋章を形取った金のブローチを掲げているのは、アスガルド帝国における大貴族の証だ。


「フェリクス……君が早朝から何の用だ」

「その顔はなんです? 殿下の欲しがる情報を手に入れて来たんですから、少しは褒めて欲しいな!」


「ここは皇太子の寝室です。いくらフェリクス公と言えども勝手に立ち入られては困ります」フェルナンドは眉根を寄せる。


「とっとと傷を完治させて執務室に戻って頂きたいものだが、今は非常事態でしょう? 僕が殿下の寝室に入ってはいけないという決まりも無いはずだ。それに殿下が行方知れずのあいだ、僕も密偵をって随分探したんですから」


 フェリクス、と呼ばれた青年はジルベルトの母方の従兄弟だ。フェルナンドと共にジルベルトの片腕として動く有能な部下の一人でもある。


「……それで。マリアがウェイン城を追放されたというのは本当なのか?」

「ええ。僕が送った間者の情報は確かです。ひと月ほど前、殿下が地下牢から救い出された翌日。そのメイドは追われるように馬車で城をあとにしたそうです」

「俺の寝所までわざわざそれを言いにきたのか?」

「いやいや、僕は殿下の様子を見にきただけですよ。と言うか、僕にあたらないでくださいね?」

 

 興奮したジルベルトが寝具を跳ね除け、がばっと起き上がる。


「殿下、せっかく塞がった傷口が広がります」

「俺を救った者が城を追放されるなど……ッ、一体誰の指図だ! 国王か?」


「ロベルト宰相をはじめウェインの幹部たちは、今回の事件の火消しに躍起になってるんです。気の毒な彼らは殿下の失踪事件の被害者ですよ。それに、なんで捕まった時すぐに王印を見せなかったんですか?」


 間髪を入れずにフェルナンドが翡翠の目を眇めた。


「囚われの身で人前に晒して、良からぬ野望を抱く者の手に渡りでもしたらどうする。王印の印影ひとつで万の民の命をも奪えるのだぞ?」


 フェリクスが肩をすくめるも、ジルベルトの憤りはおさまらない。


「とにかくマリアを探せ。そして見つけたらすぐに知らせろ——俺が、迎えに行く……!」


 意気込む主君にフェルナンドは気が気ではない。


 ——これはもはや女性に冷徹無関心とは言えぬな。一旦心を燃やせば歯止めが効かなくなるお方だし。


「……ですから、傷口が広がりますって」




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