第12話 不思議な凶器

 多和田茜を帰らせて、野津と岩田は捜査会議室で推理を練っていた。

「矢野・アイグレー・多和田・品田というラインが成立するとしたら、さあなあ」と岩田が苦慮する。

「まあガンさん、矢野がバイオレットピープルでありかつアイグレーというのはちょっと飛躍した推理になってしまいます」

「だよな。もうひとつ、千堂・篠崎姉弟・アンダーテイカー・モルヒネ。ここも、モルヒネを徹底追及できないが、関連性は知りたい」

「その関連はアイグレーも絡みますしね」

「あとはドローン問題だ。加古くんたちを警察寮に送り届けた映像にもドローンが映り込んでいたという報告があるからな」

「ただガンさん、この加古くんの後ろのドローンはやけに大きいです。わたしを襲ったドローンと同一でないとしたら?」映像を焼いた写真を見ながら野津が言う。

「一人で複数機はちょっと変かも知れないな」

 そこに刑事が一人やってきた。

「ああ、ここにいらしたんですか警部」

「どうした」と岩田が振り向く。

「篠崎さやかが、ようやく任意に応じましたよ」

「本当か?」

「明日の午後ならと、約束を取り付けました。ただ、八王子の住まいに来てくれと」

「それでもいいよ。野津と二人で行く」

「わかりました。すぐ連絡しておきます。14時でいいですか?」

「うん」

 取り調べをなんやかんやと避けていた篠崎さやかにやっと話が聞ける。捜査が進まないわけがないと岩田はぐっと腹に力が入った。

「ノリベン、傷の具合はどうだ。無理してないか?」

「いえ、たまに一瞬痛むだけです。病院でも、もうコルセットもいらないと」

「ならよかった。明日の運転も頼むよ」

 本当は明日の夕方、岩田と色川はプライベートで会う約束をしていた。岩田は誰にも聞かれない場所で色川に電話し、遅れるかも知れないと詫びた。色川は、

「お仕事なら仕方ないですよ。先にレストランで待ってますから」と明るく言ってくれた。


 加古と慶菜は暇を持て余し、テレビとネットニュースそしてネット検索を駆使して事件の推理をしていた。野津との連絡もかなり制限されているので、差し当たり警察の情報は聞けない。もし聞いたところで、野津が返事に困るような質問が多くなりそうだ。

 野津を襲ったのはドローンらしいこと、慶菜情報として多和田茜がドローンの名手なこと、モルヒネが絡んでいるという噂、三人共殺されたときはバイオレットピープルを辞めていたこと、YouTubeで知った篠崎姉弟の悪い噂と品田風美の正体について。不確定情報は数多く見つかったが、それらの関係性は混沌としていた。

「もし茜がアイグレー確定としたら、野津さんを襲ったのは」と慶菜。

「多和田さんはそんなことする人かなあ」

「ヨシくんはお人好しだからねえ」慶菜が微笑む。加古の背中に張り付いて一緒にPCを見た。

「これ、岸村っていうフリーライター、悪い人だね」

「ま、よくある話だよ。ライターも記事にしたら儲かるから、口止め料は欲しいだろうし」

「それもそうね。スクープをタダで寝かせてはもったいないのはわかる」

「あ、これ何?」と慶菜がYouTubeの画面を指差した。今回の連続事件専門みたいなユーチューバーのチャンネルだ。

「VioletPeopleの他にVillagePurpleっていう候補があったらしいんですけど、よく見てください。これ、両方とも『VIP』が共通じゃないですか。いやあ意味深ですよね。メンバーに重要人物がいるってサイン出してるわけですかね?警察これ見てるかな。よく考えて調べて欲しいです」

「ええっ」二人共びっくりした。

「これは野津さんに言ったほうがいい」加古は反射的にそう言った。

「そうよね」慶菜は同意する。

「そういえば、ウチのパソコンのデータをUSBにして持ってきて貰いたいな。書きかけの原稿もあるし、推理をメモしたのもある。」

「いつもの人に頼めば?」

「そうだね」

 野津に電話したが留守電だった。連絡が欲しいというメッセージを入れた。と、インターホンが鳴り、毎日の婦人警官が訪れてきた。

 ただ、きょうは見慣れた人ではなく、一応警察手帳を見せてくれた。

「森川が非番で、わたしは井出です」と名乗る。慶菜が必要な食材などのメモを渡し、

「あとドライヤーが壊れてしまったので、他のをお願いします」と言う。加古は

「僕の自宅に行ってPCのデータをコピーして持ってきていただけませんか?」と頼む。

「ええと、文字データだけでいいですか?」

「はい。自分で書いたものが見れれば大丈夫です」とアパートの鍵を渡す。

「上司に聞かないと分かりませんが、きっと持って来れると思います」


 井出が上司に相談すると、代わりの刑事に行かせる話になった。三角に鍵を渡す。夕方だったが彼は加古のアパートに向かった。106号の加古の部屋に入ろうとすると、隣のOLが出て来て、

「あの、その部屋の学生さん、どうかしましたか?」と尋ねる。

「最近、いないみたいなので」

「あ、ああ、いま実家に帰省中で、わたしは親戚の者で忘れ物があると聞いて取りに来ました」

三角はとっさに言い訳をした。OLは不審そうな表情を浮かべたが、

「そうですか」と会釈して部屋に入った。

 三角が加古の部屋に入ると、靴脱ぎを上がったすぐに小さなナイフが落ちており、僅かに血が付いている。『えっ』と思った彼は、手袋をはめハンカチでそのナイフを包み、コートのポケットにしまった。直感的に事件性を感じたからだ。部屋の中を見渡したが特に荒らされた形跡はない。彼は頼まれたデータのコピーを急ぎ、そそくさと署に戻った。


 三角は野津を探した。加古の従弟と聞いているので、上司に報告する前に野津に言おうと思ったからだ。野津は自分のデスクで捜査書類記入の作業中だった。

「野津さん、ちょっと不思議な物が。加古くんの部屋に行ったところですが」

「不思議な物?」

「会議室に行きましょう」と捜査本部の会議室へと誘った。

 会議室の隅で、三角はポケットからナイフを取り出した。

「こんな物が加古くんの部屋に」とハンカチを開く。

「誰かの血が付いてますし、科捜研に回したほうがいいですよね」

「これは・・・そうだな、ナイフの指紋かDNAと血痕が誰のものか、すぐ調べて貰おう」

野津はハンカチごとナイフを受け取り、科捜研に行く。この署の科捜研は若手水野と中年女性の指原の二人だけだ。部屋には指原がいた。

「どうしました?きょうはもう終わりますよ」もう白衣を脱いでいる。

「そうですか。いやちょっと不審物を発見したので」とナイフを見せると、

「これはどこで?」

「加古くん、加古芳也の部屋にあったそうです。急いで調べていただきたい」

「わかったわ。DNA検査をするのに、加古芳也の口腔粘膜が必要だけど」

「すぐ取ってきます」と野津は警察寮へ向かった。

 加古は野津の訪問に少し驚いたが、

「野津さん、なんだか久し振りですね」と笑顔になった。

「きみのPCのデータはこれ」とUSBを渡し、

「でさ、きみのDNA採取が必要だ。この綿棒に口内の粘膜を付けて欲しい」衛生的に管理されている綿棒を出した。加古は不意を突かれている。

「部屋の中に血の付いたナイフがあった。覚えはない?」

「ええっ、ないですないです!」加古は仰天した。

「だよな。でも事実としてはあった。部屋に他の異変はないそうだが、誰かが忍び込んで置いたとしか思えないんだ」

「いったい、何のために?」

「いま科捜研で調べて貰っている。だからきみのDNAが必要なんだ」

「そういうわけですか。でも鍵を持っているのは僕と慶菜だけですよ」

「マスターキーを拝借すれば、どの部屋だって開く。それはまた別に調べるけど」

「あ、野津さん、バイオレットピープルの綴りの中にVIPが含まれているのは分かってますか?他の候補だったビレッジパープルも同様なんです」

「それは初耳だ。グループ名にもサインがあった可能性が出てきたな」

 加古の綿棒を指示通り保管して、野津は急いで署に戻った。徒歩で7分ほどが遠く感じられるくらい、野津は焦っていた。従弟である加古を何かの犯人にでっちあげようという意図を感じた。署に戻り科捜研に行く。指原に加古の綿棒を渡すと、

「野津さん、最近ちゃんと家に帰ってます?」と言われた。

「もちろん帰ってますよ」

「わたしが言うちゃんとは、定時に、という意味です。奥さんとの仲はどう?」と後ろを向いて作業しながら指原が言う。

「あ、まあ、普通ですかね」野津は面食らって答える。

「男女の関係はね、愛されている実感がないと、不安になるものですよ。言いたいのはそれ」

「そうですか。分かってはいるつもりですが、つい事件があると気持ちがその方に」

「だから男はダメね。家庭をもっと大切にしないと」と言いながら、加古の綿棒を試験管に入れている。

「そういうわたしもね、仕事中心で生きていたから婚期を逃した一人で、結婚を考えていた男とのデートを3回キャンセルしたら振られたの。男も結婚したなら奥さんを大事にして欲しいわ。別れるとか言われないようにね」と微笑む。

「あ、はい。今後気を付けます」と野津も微笑み頭を搔いた。

「ナイフの血痕も調べたいので、あなたのDNAをください」

「その血がわたしの、とでも?」

「可能性は全部疑うものです。そうでしょ?」

「ですね」と口腔粘膜を採取して渡すと、指原はそれも試験管の培養液に入れて、

「DNAは簡易検査でも時間がかかるので、明日の朝また来てください」と言う。確定するのは2週間もかかるそうだ。

「さあ、もう今晩はこれで帰りなさい。わたしも帰りますから」と笑った。野津は、

「はい。たまには早く帰ります」と抱えていたコートを羽織った。


 三鷹駅近くまで来たとき、野津のスマホが鳴った。史代からだ。

「どうした?」なにやら音楽が聞こえてくる。

「きょうはもう帰れる?」

「ああ、いまちょうど三鷹近くまで」

「どこにいると思う?」史代は含み笑いしている。

「吉祥寺のサムタイム。来れる?お先にちょっと飲んでるけど」

「わかった。すぐ行くよ。そこ、久し振りだよな」野津は改札に上がり、急いで吉祥寺に向かう。ジャズ喫茶サムタイムはよくデートで行った場所だ。結婚後は足が遠ざかっていた。

 史代は辛子色の薄いカーディガン姿でカウンターにいた。後ろからそっと忍び寄って背中を指で突く。

「あっ、何よ、びっくりした」と振り向いて笑う。野津もくったくなく笑った。そういえば最近笑っていなかった。史代は珍しくしっかりメイクしている。相変わらずキレイだと野津は素直に思う。

「もう傷の具合もいいかな、と思って。あなたの快気祝いってとこ」

「朝言ってくれればよかったのに」野津は隣に座りながら言う。

「あなた、言った通りにしてくれないじゃない。きょうも期待はしてなかったわ」

「そう言われると謝るしかないな、すまん」

 史代はキューバリブレを飲んでいる。野津はモスコミュールを注文した。

「最初の1杯は必ずそれよね」史代はおかしそうに言う。

「確かにそうだな。で、最後は絶対テイク・ジ・Aトレインだ」二人共笑顔になった。そのカクテルは甘い味に反してアルコール度数はかなり高い。だから途中で飲むとしばらくは他の酒の味が変わってしまう。

「ジャズのタイトルを次々言って、そのカクテルがあったら飲むっていうの、おもしろかったわよね」史代は野津と付き合って間もない頃の思い出を語る。

「あなた、わたしの実家に初めて来たとき、『ご職業は』とお父さんに聞かれて『デカです』って、お父さんは笑って『警察ということですね』だって、アハハ」史代はほろ酔いの様子だ。

「そうだった?なにしろ、凄く緊張していたからなあ」野津は苦笑いした。

「そういえば、芳也くんのアパートで血の付いたナイフが見つかった。あと、篠崎さやかが自宅での聴取に応じたよ」

「また仕事の話?あ、でもナイフは何かの罠じゃない?篠崎が自宅っていうのは、警察に来れない理由がありそう」

「ナイフは科捜研に回っている。誰の痕跡が出るか。篠崎は出頭できないから渋っていたのかもな」

「まあ、明日なにか分かりそうよね。今夜はちょっとだけ忘れてよ」と史代は甘えるように言う。22時頃まで、食事と酒とジャズを楽しんだ。野津は背伸びをして、

「きみのお陰で息抜きができた。ありがとう」史代は無言で微笑む。

 帰りは手を繋いで歩いた。史代は嬉しそうに、

「新婚以来かもっ」子供みたいに野津の手をぎゅっと握る。彼はふと気になって後ろと上を見たが、追跡者もドローンもいない。睡眠時間が惜しかったが、その夜は史代と肌を合わせた。

 寝ようとした深夜に加古から電話があった。

「すみません、こんな時間に。いま日付で気がついたんですが、あの、僕たち、受ける講義を決めに行かないといけないので、大学までの往復とキャンパスで1時間程度、警護付きで外出したいんですけど」

「ああ、そうか、それは大変だ。朝一で担当に言うから」

「お願いします。余計な行動はしませんから」


 翌朝、野津は目覚ましが鳴る5分前に目覚め、『きょうは忙しいな』と思う。メモに加古くんの件、科捜研、八王子と記入してある。起きたままの格好でキッチンに行くと、

「あら早いわね」と史代が朝食を作っていた。

「きょうはパンじゃないの?」

「ええ、たまには和食もいいでしょ」昨夜から機嫌がいい。

しっかり朝ごはんを食べるのも久し振りだ。トーストと目玉焼きでいいと言って簡単に済ます日が増えている。事件が起きてから約1ヶ月、気が張り過ぎていたかも知れないなと思った。昨夜の気晴らしは妻の手による癒しと素直に思って感謝した。

「きのうはありがとう。ああでもしてくれないと肩に力が入ったままだったよ」

「でしょう?でも都合が合ってよかったわ」史代は微笑む。


 慶菜は橋爪綾香という演劇部の親友と電話していた。

「うん。そう。えっ!なに?どうして?ホントなの?きょうキャンパス行くから会える、ねえ」何事かあったらしい。電話を切った慶菜は畳に突っ伏して泣き始めた。加古は驚いて、

「どうしたの?ケイちゃん、綾香っていう人に何かあったの?」と慶菜の肩を抱く。

「両親が、海外の大使で赴任してて・・・交通事故で、一度に二人共即死だって」と声を啜り上げた。

「そっかあ。彼女は大丈夫なの?ショックだろうけど」

「お兄ちゃんがいるから、これからは、二人暮らしだって。ずっと」と途切れ途切れに言い、

「綾香には演劇をやめて欲しくない。でも無理かも、精神的に」また慶菜は涙をこぼす。

「きょう会うんなら、たくさん励ましてあげて。ただ、いまは静かにしていてあげるのが彼女のためにはいいのかも。彼女はどんな子なの?」

「しっかりしていてムードメーカーで、春公演で4年生がいなくなったら部長になる予定なの」

「だったら、励まし過ぎても負担になるかもね。ケイちゃんもしっかりして。とにかく、出かける前に何か少しでも食べよう。少しでも元気じゃないと、ね」

「うん。ヨシくん、冷静だけど優しいね。綾香にも会ってよ」

「わかった。大学に長居はできないけど、一緒に会うよ」

 加古はトーストと目玉焼きにコーヒーの簡単な朝食を作って二人で食べた。慶菜はまだ顔色が悪く俯き加減だ。親友の一大事にショックが大きいらしい。

 迎えの車が来たので、そそくさと着替えて乗った。運転と助手席は刑事だ。四人は密かにドローンが上を飛んでいるのに気付かなかった。


 野津は署に出勤すると、すぐ加古たちの車を手配し、科捜研に行った。指原と水野の二人がいて、水野が、

「野津さん、あなたの血液でしたよ。あと加古くんのDNAが検出されました」

「えっ!つまりあのナイフはわたしを襲った物か。でもどうして加古くんの痕跡が?」

「分かりません。おそらく体液なのですけど、彼に確かめてみないと」

「そうか。何か思い当たることはないのか、だな」野津は頸を傾げて言った。指原が、

「言いにくいんですけど、おそらく精液だと思います。原因は分かりませんが」

「精液?誰がどこで手に入れた物でしょうかね。あとで加古くんに聞いてみます」野津は増々不思議に思う。

 デスクに戻ると岩田がいて、梶谷以外の二件の分析をしていた。

「奥津と山倉という弁護士の証言は取れた。どちらも、女性が騒いでサラリーマン風の男が捕まえ、弁護士も手伝って電車から下ろし、男が詰問したところ痴漢が逃走したそうだ」

「二人の弁護士は男ですよね?」

「そうだ。そこが梶谷事件とは違う。男が捕まえたというところも違うな」

「梶谷事件では陽晴が呼ばれて問い詰めた。もしですよ、公園がないほうに逃げたらどうなっていたんでしょう」

「それはな、公園と反対側に立って、公園側に逃げるように問い詰めるという一種のトリックだ。それはいろいろな事件でもあることだよ。吉祥寺の件は井の頭線だから公園がある南口、武蔵関はどちら側からでも公園が近いんだ。立川に関しては陽晴の立ち回りテクニックだな」

「ガンさん、四件目の事件が起きる前に犯人を捕まえないと。『まだ三人か』っていう書き込みがあったんですから」

「だよな。これ以上の事件は何としても阻止しないとダメだ。痴漢を守るのは痛し痒しだが。関係者の被害も要注意だし」

 午前中の簡単な捜査会議で野津は、バイオレットピープルの綴りの中にVIP が含まれていることを報告した。

「つまり、没になった候補も含め、要人がいるというサインではと」

「なるほど。触れてはいけない地位のある人間がメンバーに名を連ねているいる可能性が高いわけだ」と捜査本部長の高柳はゆっくり慎重に発言した。ざわざわと小声のどよめきが起きる。

「静かに。とにかく次の事件が起こらないよう、十分配慮して捜査を続行するように。実行犯の目星だけはうっすらと見えてきているが、真犯人と犯行の動機がわかっていない。みな、よろしく頼む。きょうはこれまで」


 加古と慶菜は大学の正門前で刑事と共に車から降り、本館へ向かった。また上空にドローンがいたが、どこかに飛び去っていった。キャンパスには新入生らしき者を含め、学生が大勢いた。遅咲きのヤエザクラが咲き始めており、そよ風に春の匂いがした。

「なんだか懐かしい感じ。外出も久し振りだし」と慶菜はやっと笑顔を見せる。

「なるべく同じ授業にしようね」加古も微笑んだ。

 ひとつだけ、もう満員で取れないコマがあって残念だったが、あとは希望枠が取れ、二人の意見も一致した。言語学のゼミも、なんとか空き枠が残っていたのでラッキーだった。

「部室に綾香がいるから一緒に行って」慶菜は加古と刑事を見て言う。加古は刑事に、

「ちょっとだけ付き合ってください」と言い、クラブハウスへと向かう。

 演劇部の部室は想像していたよりも広く、男女別の更衣室もあった。テーブルに肘をついて俯いている子が綾香だった。彼女はゆっくりと顔を上げ、

「あ、慶菜。ありがと」

慶菜は綾香に歩み寄り、

「綾香、大丈夫?」としゃがんで彼女の背中を抱いた。

「まだね、実感が湧かないの。だって、そういう外務省からの連絡だけで」

「そう。そうよね、わたしが先に泣いちゃってごめん」

「明日、お兄ちゃんと現地に行く予定なの」綾香はまた俯く。

「これは勝手なお願いだけど、演劇はやめないで欲しい。無理しないでいいけどさ」

「うん。少しだけ時間が必要かもだけど」綾香は少し笑みを浮かべる。加古はそっと言う。

「高島さんは、あなたを頼りにしているから、いつか戻ってきてくださいね」

「はい。あの、慶菜の彼氏さんですか?」

「そうです。加古と言います。国文科で慶菜と同じクラスで」

「わたしは経済学部なんです。女らしくないですけど」

「いやそんなこと。ご両親のご職業からしても不思議ではないです」

 ここで刑事の一人が「そろそろ」と言い、二人は綾香に「またね」と別れを告げ、帰路に就いた。

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