新婚夫婦と7つのお茶 6
初夏の明るい日差しも西に沈み、ガス灯の明かりが通りを暖かく照らす頃、ブラッドリー家のライブラリでは当主夫妻が食後のお茶を味わっていた。
ロイヤルシアターでの歌劇鑑賞に出かけていた二人の夕食は普段より遅く、すでにもう一刻もすれば日も変わろうか、という頃合い。ただ、素晴らしい歌と演技に魅せられたシンシアは目を爛々と輝かせ、今日の素敵な体験について興奮気味にトーマスに語りかけていた。
「本っ当に素晴らしかったですわ。まさかロイヤルシアターでの新作の初日に誘っていただけるなんて夢にも思いませんでした。よくチケットが手に入りましたね」
「ロイヤルシアターの運営にはブラッドリーも大きく関わっているからな。支配人がぜひ、と誘ってくれた」
「俳優の支援ならともかくロイヤルシアターの後援をしている家に嫁いだなんて私、未だに信じられませんわ」
そう言ってシンシアは少し芝居がかって天井を見上げ嘆息する。
俳優や音楽家、芸術家などを支援し、文化の向上に務めるのは、上流階級の義務の一つともいえるし、レイクトン家もリーンの劇場を支援していた。とは言え、ロイヤルシアターはその名の通り王立劇場。支援者に名を連ねるには王族の覚えもめでたい必要があり、いくら財力があろうと、それだけではなれない名誉ある役割だ。
ローグスの一等地に堂々たる構えを持ち、世界に名高い劇場を自分の家が支援しているというのは、田舎育ちのシンシアにはにわかには信じ硬いことだった。
「でも、シンシアもロイヤルシアターは初めてじゃないだろう? それこそこっちに嫁ぐ前にも行ったことはあるんじゃないか?」
「えぇ、レイクトンの娘だった頃にも一度だけ行ったことはあります。でも新作の初日は全くの別ですし、あんなに良い席でもありませんでした。なにより着飾った上流の方々の空気に当てられて、観劇どころではありませんでしたわ」
そう言ってシンシアは苦笑する。もちろん精一杯着飾りはしたものの、やはり都会の最先端の人々の輝きは当時のシンシアにはあまりにもまぶしすぎたのだった。
「まあ、とにかく喜んでもらえて良かった。さ、ところでお茶が冷めてしまうよ」
そう言ってトーマスは珍しくまだ一口も口がつけられていないシンシアの前のカップを示す。夕食後のお茶はシンシアではなく、ブラウンや侍女達が淹れることが多い。今日は少々興奮気味のシンシアのためにハーブのお茶を淹れるよう頼んでいた。
「そうですわね。いただきますわ」
そう言ってシンシアは少しはしゃぎすぎた自分に気付いたのか頬を軽く染め、カップを手にする。そしてスッキリとしたお茶を口にすると、その香りにほっと息をついた。
ハーブの香りに興奮も少しずつ静まってきたシンシアはあらためて今日の舞台に思いを馳せ、そして隣に座るトーマスに話しかける。
「それにしても主演女優の方は素晴らしかったですわね。まさかこのお芝居が初めての主演だなんて信じられませんわ」
「ハンヴェル・フィセルかい? そうだね。歌も素晴らしかったし、芝居もとてもあの歳とは思えない奥深さを見せていた。私は芝居はあまり詳しくないが、きっと明日の新聞の一面を騒がすだろうね」
「劇場の秘蔵っ子っていうのも新聞が好みそうですわよね。それに今日のお芝居の内容にもピッタリ。お話の内容もとっても気に入りましたわ。旦那様はいかが?」
夫とお芝居の話ができるのが嬉しいシンシアは無意識にズイッとソファに座るトーマスに近寄る。
一方トーマスは今までにない距離に内心焦りを感じつつも表面上は冷静な様子を保とうとする。観劇の興奮からなのだろう、いつもよりずっと陽気な妻に強請られ、いつもは向かい合って座るこのライブラリで今日は一つのソファに横並びに座っていた。
もちろん二人がかけているソファは数人でかけられる広さで、書架と船来の芸術品に囲まれた落ち着いた空間にどっしりと置かれたソファ二人で座れば十分な余裕があり、礼儀正しい距離を保つことは造作もない。
しかし最近何か考えがあるのか、事あるごとに二人の間の物理的な距離を縮めてこようとするシンシアは、普段より気分が高ぶっていることもあってか、二人でライブラリーに入ると、トーマスの手を引くようにソファに腰掛け、距離を逃げるのを許さない、とでも言うように距離を詰めてきた。
シンシアと出会うまえなら、そんな行動をされたら、鬱陶しいと感じるか、慎みがない、と一蹴するかだっただろうが、シンシアがすると、普段とは違う一面を見れて面白い、と感じ、彼女に振り回されるのも悪くない、と思ってしまうのだから不思議なものだ。
そんな訳で、おそらくアデルやロベルトからしたら、そんなことよりもっとトーマスからも距離を縮める努力をしろ、と言われそうであるが、トーマスからすれば、そんなシンシアを振り払わないだけでも驚くべき変化なのだ。
「面白かったよ。さすがグレーホルンの脚本家だけある、といったところだな。王道だしありがちな話ではあるが、よく練り上げられているし、台詞も素晴らしい」
そう言ってトーマスが歌劇の感想を言うと、同じ意見だったのが嬉しかったのか
「ですわよね!」
と感激し、胸の前で手を組みこちらをキラキラと見つめる。
「グレーホルンといえば芸術の国。特になんといってもお芝居の国ですものね。かの国の王族には舞台に出演していた人もいたとか。夢のある話ですよね」
「俳優王子のことだね。あくまで噂だが本当でもおかしくないくらい芝居が好きな王族はいるようだね」
「旦那様はグレーホルン王家の方についてもよくご存知なのですか?」
シンシアが驚いたように聞く。グレーホルンはトレシアのさらに東。名前としては知っていてもシンシアにとっては遠い国だ。
「王太子殿下の御前で何度か話題に上ったことがある。あれでいて、外交に長けていて気の抜けない国らしい。一度だが訪れたこともあるよ」
「本当ですか? 羨ましいですわ」
トーマスの言葉にシンシアは目を輝かせ、かの国について教えてほしいとトーマスにせがむ。その姿はまるで父親に海外の話を聞く子供のようでいつもの聡明な姿とは少し違うが、目を輝かせ、トーマスの語るグレーホルンの町並みについて聞く彼女の姿は可愛らしく、トーマスもいつのまにかいつも以上に饒舌になる。
どのくらい話していただろうか。トントンとノックする音にトーマスがハッとする。
「すまない、もうこんな時間か。ブラウン達も休めないよな」
ノックをしたのはいつまでもライブラリから出てこず呼び鈴もおさない二人を心配したブラウンだった。
「いえ、私達は一向にかまわないのですが。あまり遅くなるとお二人共明日に差し支えがあるかと」
「そうだな、確かにそろそろ寝ないといけないが……」
と言いかけて、トーマスはふとシンシアの方を見る。彼女の目はまだ好奇心にあふれているし、トーマス自身もう少しこの心地よい空間を楽しみたかった。そんな二人の無言の会話に気付いたブラウンは微笑む。
「でしたら続きは寝室でなされてはいかがですかトーマス様?寝支度を整えた後でしたらいつまでお話されていても問題ありませんし、そのまま寝てしまっても問題ありません。トーマス様はともかく奥様はその格好で寝てしまっては大変です」
そんなシンシアの姿は柔らかく身体に負担をかけない部屋着とはいえドレスのまま。確かに一度着替えをするべきだろう。
「ブラウンの言う通りだな。よし、シンシア。続きは主寝室でしようか。とりあえずあなたも着替えさせてもらいなさい」
そう言うと侍女を呼ぶためのベルを鳴らし、そして自身も支度を整えるためブラウンとともに部屋を出る。
こんな真夜中にシンシアと寝室に入るのは初めてだ、そのことに気付いたのは、やや緊張した面持ちのシンシアが寝室に入ってきたのを目にしたときだった。
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