18

 アーシェル夫人の暴挙により、盛大にドレスを汚されたシンシアはもちろんドレスの替えなど持っていなかったが、半ば逆恨みでアーシェル夫人にドレスをだめにされたシンシアに伯爵夫人は深く同情し、快く着替えを用意してくれた。夫婦揃って伯爵夫妻に何度も礼を言い、屋敷に戻ってきたのは夜遅く。


 行きと帰りで違う服を着ているシンシアに使用人達はそれは驚き、ミセスリードに至ってはトーマスを射殺さんばかりの恐ろしい目で見ていた。


 そんな彼らに伯爵邸での出来事を説明して落ち着かせ、ドレスを脱いで、化粧を落とし、寝支度が整った頃にはすでに日付が変わろうとしていた。


 いくら明日は予定がないとはいえ、今日はシンシアもくたびれたし、本当なら一刻も早くベッドに入りたい気持ちはある。しかしどうしても気になっていることがあり、シンシアは遅い時間に悪いと思いつつつ、侍女にブラウンを呼ぶよう頼んだ。


「遅い時間にごめんなさい、ブラウンさん。少し聞きたいことがあって」

「気になさることはありません。お聞きになりたいこととは旦那様のことでしょうか」


「えぇ、その……今日は色々あったものだから。旦那様はもう休んでいらして?」


 シンシアがそう聞くと、ブラウンは「そう聞くと思っていました」とでも言いたそうにニコリと微笑み、そしてドアの方を見た。


「奥様のご想像どおり、書斎にいらっしゃいますよ。今日は急ぎの仕事もないはずなのですが」


 そう言ってブラウンは少し言葉を切る。


「旦那様は、もし自分のことを尋ねられたら、今日はもう遅いから寝るように、と仰ってましたが……どうされますか」

「もちろん! 旦那様のもとへ向かいますわ。ティーセットを用意してくださる?」

「この時間に、でございますか?」


 確かに今は日付も変わった深夜。とてもお茶を飲む時間ではない。でも今日はトーマスの為にお茶を淹れたい気分だった。


「えぇ、たしかに常識的ではない時間ですけど。きっと旦那様も今日は色々あって、心も参っているはずです。お茶を飲めば多少落ち着くはずですわ」


 そう言うとブラウンは、一つ息をつきそれからもう一度笑みを作り直す。


「かしこまりました。正直なところそうおっしゃるか、と思って湯を沸かす準備はさせておりました。すぐ用意いたします」

「ありがとう、流石だわ」


 準備の良いブラウンに感謝しつつ、シンシアはもはや勝手知ったる戸棚を開け、少し悩んで、薄緑の缶を取りだす、正確には紅茶では無くミントが中心にブレンドしたハーブティーだが、この時間には良いだろう。そうしてシンシアは用意されたカートを押してトーマスの元へ向かった。


「旦那様? 入ってよろしい?」

「シンシアか? 今日は先に寝ているように言ったが」


 いつかに聞いたような言葉。でもその声音は初めてトーマスの書斎を訪れた時の優しくも硬い声ではなく、呆れつつも彼女のことをいたわり、少しだけ嬉しそうな、あの時よりずっとたくさんの感情を感じる声だった。


 そのことに勇気を得てシンシアは返す。


「そうですが、旦那様のことが心配で来てしまいました」


 そう答えたシンシアに、トーマスは


「そうか」


 とだけ、答えて、ドアを開ける。カートを押して部屋に入り、トーマスの側まで来たシンシアだが、いざここまで来るとなんと切り出せば良いのか言葉に詰まってしまう。


 言葉を探すように視線をさまようわせるシンシアと、机をじっと見つめるトーマス。先にポツリ、と話し始めたのはトーマスの方だった。


「その……、この前は怒鳴って済まなかった、それに今日のことも、私の過去のせいでシンシアにまで害が及んで本当に申し訳ないと思っている」

「そんな、私の方こそごめんなさい。勝手に旦那様の過去をあばこうとして、旦那様の気持ちをちっとも考えていなくて恥ずかしいかぎりですわ」

「いや、シンシアは悪くない。私もシンシアの立場ならきっと知りたくなっただろう。私の過去を。シンシアはまだ知りたいかい? 面白い話ではないが」


 そう言ってシンシアの目を見るトーマス。どう返すのが正解か。わからなくなったシンシアは自分の心に正直に返す。


「もし、教えていただけるなら教えてほしいです。旦那様の言葉で。誰かから聞くのではなく。アーシェル夫人と何があったのか」


 するとトーマスは机の引き出しを開け、奥の方を探ると一通の封筒を取り出し、そこからさらに便箋を取り出してシンシアに渡す。


「エリー……、アーシェル夫人が私によこした手紙だ。それが真相だ」


 そう言われたシンシアは便箋を開きその中身を読む。読み進めるにつれその顔は険しくなり、そして瞳にはうっすら涙さえ浮かんできた。

『トーマスと結婚することで、実家が救われる。だからトーマスと結婚しようとしていた。トーマスが機嫌よく自分と結婚して、求める通りに我が家を援助してくれれば何の問題もない。それが私がトーマスに求めていたことだった。でもトーマスの両親亡き今、ブラッドリーは危機に瀕し、トーマスはそれを救うには心もとない。悪ければ我が家も共倒れだ。我が家を救うことのできない婚約者に用はない。だから婚約は解消する』


 そんな内容だった。


「ひどい、あんまりですわ」

「ずっと燃やしてしまえ、と思っていたんだ、結局今まで机の奥に眠らせていたんだ。別に傷ついてなどいないつもりだったのだけどな」


 そう言って、一旦言葉を止めたトーマスはポケットから取り出したハンカチで、シンシアの瞳を優しく拭い、そして過去を思い出すように話し出す。


「私は……、昔から割とこんな性格だったから、両親とも中が悪いわけではなかったが、特別思い出が残っているわけでもなかった。二人共自分の目で見ないと気がすまない人で人たちで、この屋敷にいることは少なかったしな」

「エリーは、彼女が言ったとおり、父親同士が仲が良いことから選ばれた婚約者だった。とは言え初めて顔を合わせた時『二人で一緒にブラッドリーを支えたいですわ』と言われて彼女とこの商会を守る未来を私は思い描いた。それまで漠然と言われるままに学んでいて商会のことがはっきりと輪郭を持った瞬間だった」

「それからさらに私は身をいれて学んだよ。私なりに手紙の返事も考えたし、彼女と会う時間も作るように努力した。でも今考えれば、それはただ自分が思い描いた未来を作るための努力でしかなかった。彼女と商会を継ぐ。そうすればきっと父上に認められると感じていたから、でも」


 そこで、また涙が溢れてきたらしいシンシアの肩を抱き、瞳をそっと拭う。


「その時は予想より遥かに早くやってきてしまった。置いていかれてしまった私はせめてこの商会をエリーと共にもり立てることができれば、二人を喜ばせることが出来ると思っていた。傲慢な私はエリーが着いてきてくれると信じて疑わなかった。今考えれば罰が当たったのかも知れないな」

「そんなはずはありませんわ」


 シンシアの声が書斎に響く。


「エリーに両親のことを知らせた手紙の返事がそれだ。『あなたには未来がないから婚約は解消する』よく考えれえば仕方がないことだ。まだ学生の身だった私にブラッドリー商会はあまりにも大きかったし、乗っ取りを考える者も、私を操って商会を思うままにしようとする者も覚えきれない程いた。だから彼女がこの未来から降りたのも仕方がない、そう思うことにした」


 そこでトーマスは少しシンシアから視線を外す。


「それからだ、女性というのはみんなそういうものだ、と思うようになったのは。実際ブラッドリーを継いだ当初は遠巻きに様子を伺い、噂話をしていた女性達は、私が名実共にブラッドリーを握るようになると、途端に周りによってきた。でもそれで構わない。そう思って、それでロベルトの進めるままにこの結婚を勧めたんだ」


 外れていた視線が段々とシンシアの瞳に戻り、深い赤色を射抜く、とトーマスが今まで座っていた椅子から降り、シンシアの前に跪く。


「シンシアに謝らなければならない。そんな気持ちで結婚したことを、シンシアを放っておいたことも。本当に済まなかった」


 そう言う、トーマスにシンシアは自身も膝を付き、トーマスの腰に手を回すと、そのままぐっと引き寄せる。抱きつく、というより抱きしめる形になった。


「謝る必要などありませんわ。両親を亡くされて、この大きな組織を任されて、一番心細い時期に信頼していた人に裏切られれば人間不信になって当然です……。ここには私しかいませんわ。どうぞ泣いてください、今まで泣けなかった分も。私は力不足かも知れませんが、あなたを支えたいのです」


 その言葉にすすり泣く声だけが書斎に聞こえるようになるのはすぐのことだった。


 どのくらいそうしていただろうか。トーマスはシンシアから身を離し、そして「あぁ」と息を吐く。


「済まない、今日は二度も君のドレスを汚してしまった」

「気にしませんわ」


 そう言って笑うシンシアにトーマスも笑顔を取り戻し、そしてもう一度跪く。どうしたのだろう?と思うシンシアの瞳をもう一度真っ直ぐに見つめ、トーマスは彼女の手を取った。


「シンシア?」

「はい」

「これまで私は良い夫とは言えなかった。そもそも良い性格をしているとも言えない。だけど結婚式の日にシンシアが書斎に来てからずっとシンシアのことが気になって仕方がなかった。穏やかに笑う笑顔が好きだ。誰も見捨てられない優しさが好きだ。どんな人とも仲良くなれる明るさも賢さも賢明さもすべてが好きだ。愛している。こんな私だが、どうか、もう一度チャンスをくれないか。私の恋人になって欲しい」


 いつの間にか握りしめていたその力を強くするトーマスの告白に顔を赤くしつつ、シンシアは答える。


「わかりませんわ」


 その言葉に、一瞬トーマスは肩を落とす。だがそこで考え直す。よく考えれば今までの自分の所業を思い起こして、よく愛を乞えたものだ。むしろひっぱたかれなかっただけ彼女は優しい。だが、それでもトーマスはもうシンシアを諦めることはできない。そう思い彼は努めて穏やかに顔をあげる。


 一方シンシアは暗くなったトーマスの顔を見て慌てる。彼女の言葉にには続きがあった。


「その、わからない、というのは、私も今まで恋に憧れるといったことが無くて、人を好きになる、というのがどういうことが想像できなかったからなのです。旦那様を責めることなどできません。私だって、リーンを出て穏やかな暮らしができれば良い、としか思っていなかったのですから」


 そう言うとシンシアは今度は自分が、とトーマスの瞳に視線を合わせる。


「でも、旦那様は素敵な人だとは思っております。きっと私達には時間が足りなかったのですわ。世の婚約者達は結婚するまでの間に愛を深めるのでしょう? ですから旦那様? 私とお付き合いしましょう。私を恋に落としてください」


 シンシアがそう言うと、トーマスはくしゃりと笑い


「もちろんだ。ありがとう、シンシア」


 そう言って、シンシアを強く抱きしめた。


 どのくらいそうしていただろうか。トーマスの腕の中にいたシンシアが「あっ」と声をあげ身動ぎする。


「そうだわ、私お茶を淹れに来たんでした。さすがにお湯が冷めてしまいましたわよね。どうしましょう? 明日にしますか」

「シンシアが嫌じゃなければ淹れてくれるかい? お湯は遅い時間に悪いけれどブラウンに頼もう」


 そういって立ち上がったトーマスは呼び鈴を鳴らす。こんな状況を予想していたのかすぐにお湯が取り替えられ、シンシアはポットを手に取る。


「この一杯は旦那様の為に……」


 いつものようにシンシアは歌いながら手を動かし、お茶をポットに淹れる。トーマスと自分とそれからポットの為にもう一杯。お湯を注いで蓋をしたら、砂時計をひっくり返す。すぐに香りだす芳しい香りを楽しみながら、夫の方を見ると、ずっとこちらを見ていたらしいトーマスが微笑む。まるで紅茶を飲んだときみたいにシンシアの心がほっと暖かくなる。少し前に進んだ二人のお茶会がこれから始まろうとしていた。

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