1-6.不思議なおまじない
冷めたコーヒーが喉にするりと流れ落ち、自然と安堵の息が出た。
ヨルの涙はもう止んでいて、冷静さが戻っている。大人になってから泣くこともなくなって、久方ぶりなせいなか目はひどく腫れていた。
「ユカさんは俺を拾ってどうするつもりなんですか? 言っとくけど金ならないですよ。先日、職も失ったところなんです。そんな男を拾ってどんな目にあっても知りませんよ」
トゲのあるヨルの言葉にユカはふふっと笑った。本当におかしなことを言うなあというように。
「たしかに。私って、一回話しただけの人を家に招くなんて怪しい人みたいだね」
その通りだとヨルは思ったが口にはしない。
「これはいいんだよ。私の人助けだと思って」
「変な趣味してるんですね」
言葉のとげをユカはあはは、と笑って流した。
「今更私の体やお金なんかどうでもいいもの。それに、才果製菓としての私を思い出せる人はもういないしね」
それから「じゃあ、少しだけ私のことでも話そうか」とユカは言った。
「私、水商売やってるんだ」
「?」
脈絡のない話だ。けれど説得力はあった。
3LDKの間取りで部屋数は多く、どれも広い。家具の質感もいい。家電は高級メーカーのものだったし、ただのジャージでさえ肌馴染みがよく不快感がなかった。それに、内廊下のあるタワーマンションの最上階だ。ヨルの年収の何倍ものお金をひと月で得ているのだろう。
「ガールズバーでお客さん相手にお話しを聞いて楽しんでもらって。同伴もするし、アフターでホテルに行って愉しませて、たまにはこうやって見知らぬ男の人を泊めて一緒に暮らしてみたりする」
そのことをユカは、あけすけに軽やかに話す。
ユカは変わらず硬いヨルの態度を見た。
「こうやって自分の住処にあげることなんてさ。私にとってなんてことないんだから気にしなくていいんだよ。警戒するだけ疲れるだけだよ?」
「……はぁ」
なんとか自分に納得させて、体勢を少し崩してみた。
「時々、生きていることに、いったい何の意味があるんだろうって考えて虚しくならない?」
「はい」
ユカの発言は突拍子もないものだった。けれど、ヨルはその考えを理解できた。
「私は、贅沢をしなければ一生働かないでいられるだけのお金は持ってる。だけど、お金は心を満たしてくれない。だから時々、あの日の朝みたいに雨に打たれるの。雨に流されて、雫が落ちていって、嫌な気持ちもなんだかスッキリするような気がして」
ユカは虚しさを解消してくれるほど、お金が便利なものではないと言った。ヨルはそうは思えなかったが、傘を持っていたのに濡れたまま雨宿りしていた理由はなんとなく共感できた。
ユカの言うように、雨と一緒に暗い気持ちまで流されるような気がするから。そう考えて、出会った日のことを一人で納得した。
「私、迷子なんだ、って言ったよね」
ユカはたしかに、出会った第一声にそう言っていた。
「きみも人生の迷子なんでしょう? お金を稼ぐための生活を繰り返して、生きる意味なんてないなんて思いながら毎日を作業のように無感情に続けてきたんでしょ?」
ヨルは素直に頷いた。
「正直、つかれたよね」
「そうですね。……とても、つかれました」
ユカの持つ雰囲気につられ、自然とヨルも本音を見せるようになっていた。
暖房が緩やかな運転に変わり、部屋も随分暖かくなって、体の冷えもなくなっていた。
ふたりは静かに共感していた。
この人になら気を許せるのかもしれないと、ヨルが感じた時だった。
「ならさ」とユカが言った。
「私と一緒に死んでみない?」
それは妖しい誘いだった。
「…………は?」
「無理心中とかじゃないよ」
ユカは静かに訂正して続ける。
「別に事件性もないし、お互いを殺し合うわけでも、誰かを巻き込んで争うわけでもない。首を締めたり、包丁で突き刺したり、水に溺れたり、薬を過剰摂取したり、練炭を使ったり、飛び降りたりもしない」
「えっと……つまり?」
ユカは霞のように掴み所なく話すため、混乱したヨルは核心を問う。
「みんなから忘れられよう。ということだよ」
ユカは言った。
「忘れられる?」
ヨルはさらに分からなくなる。
「それが、どう死ぬことと関係あるんですか?」
そもそも、みんなから忘れられるということは不可能に思えた。
しかしユカは「そう。そうなの」とヨルの反応が嬉しいようだ。
「記憶って、人の生きている証なんだって」
「はあ……」
ユカの話は曖昧で未だ明瞭にならない。
「例えば、私が誰とも関わっていなくて、誰も私のことを覚えていない。そんな存在だったと仮定するよ」
荒唐無稽な話だなとヨルは思ったが、続きを聞くことにした。
「そんな幽霊みたいな状態のさなか、私はヨルくんと出会ったとする。ヨルくんは生きている私を認識して、記憶する。そこで初めて私は『生きている』と他者によって証明され、同時に私自身幽霊でないと自覚できる」
「……つまり、人はお互いを認識し、記憶しあうことで、相互に生死を証明しあっているということですか?」
「その通り。生きている人は記憶されていって、死んでしまった人はやがて忘れ去られていく。会ったこともなくて覚えてもない人なんて、死んでるのと変わらないでしょ?」
「……なるほど」
なんとなく、話が掴めてきた。
「ここからが本題。もしも世界中のみんなから忘れ去られたら、私は生きている? 死んでいる?」
「物理的には生きていると言えますけど、誰からも記憶されなかったら……」
認識されても覚えてもらえないということは、そこにいない存在に等しい。
それは死んでいることと似ていることなのかもしれないとヨルは考えた。
「実質的な死の成立」
ユカは口角を上げて証明した。
「それが一緒に死ぬっていうことですか?」
頷いたユカは、コーヒーを口に含み、喉を鳴らした。
「けど、いったいどうやって?」
話は理解できても、大多数の人の記憶を同時に操るなんてことは不可能だ。
それこそ与太話にしか思えない。
「ふふふ。そんなに首を傾げなくても」
ユカは笑った。ヨルの仕草がおかしいようだ。
「だって、現実的にそんなこと不可能でしょう」
ううん、とユカは首を振った。
「不思議なおまじないの話、知ってる?」
「……おまじない?」
「そ。おまじない。私もお客さんから聞いたんだけどね……」
そう前置きしてユカが話した『忘却のおまじない』はこういった内容だった。
条件は5つ。
① 術者のいる地域で雨が降っていること。
② 傘をさしながら[私の記憶を雨によって洗い流してください]と三度唱え、忘れてほしい人のことを強く考えること。
③ 雨が止んだときに傘を畳むこと。
④ おまじない実行中は忘れられたい人に見られたり、それを悟られないこと。
⑤ おまじない実行後は、忘れられたい人と、一日会わないこと。
おまじないを行えるのは一年に一度きり。
期間は、中秋の名月から15日の間。
つまりは、月の満ち欠けがあるけれど、中秋の名月が来てから次の新月が来るまでの間であることだと、ユカは最後に補足した。
このおまじないをするだけで、他人から自分に関する一切の記憶が消えるのだと言う。
「そんなこと、ほんとにできるんですか?」
「できるよ」
ユカは断定した。
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「私は一度やっているから」
「いつ、誰の記憶を?」
「去年、私の家族達から」
「……家族」
自然と哀愁ある返事が出た。
家族。それはヨルにとって懐かしい響きでもあり、消したい過去でもあった。
「うん。家族」
反復したユカのその言葉には不思議と重みがあった。
「一緒に、死んでみない?」
魅力的な誘いは、同時に危うい誘いだった。
おまじないのことは正直信じられない。
けれど、最終的にヨルは騙されても良いかと思った。
それは諦めと縋る気持ちの混ざった曖昧な感情だ。
ユカは、雨の中でヨルに手を差し伸べてくれたただひとりだった。それだけの理由があれば十分だ。
それに、行く宛もないのだから。
「はい。わかりました。一緒に死にましょう」
よかった、とユカは笑った。
「住むところもないんでしょ? その間だけ泊まっていいよ。好きに使っていいから」
「返せるものなんてありませんよ?」
「いいよ見返りなんて。迷子のお仲間同士なんだからさ」
「ありがとうございます」
いいえ、とユカは微笑んだ。
ユカの誘いはまだ消化しきれていないし、納得もしていなかった。
けれど眠気で頭がまわらない。考えることさえめんどくさく、ヨルは一旦思考を放棄した。
「迷子のお仲間同士、15日間だけよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ヨルとユカは向き合って、折り目正しく礼をした。
時計の針は午前三時を指している。
東京の街は未だ明るい。
・・・
side: ユカ
ユカはぼんやりとした頭で目を覚ました。
霞む視界にデジタル時計が入る。
午前四時。
コーヒーを飲んだことは関係なかった。
いつもそう。満足には眠れない。
いつからか、ぽっかり穴が空いたような虚しさが心に残っていて、目を瞑っても眠気がやってこなくなった。
寝付けても、眠りが浅くなっていた。起きているときは頭がぼうとしていて、それでも生きているから仕方がなく生きていた。
けれど、もうこれが最後だから。
そう言い聞かせて睡眠薬を口にした。
心は空っぽのまま。満たされないまま。
眠れない夜の中、ユカはベットで小さくつぶやいた。
「嘘つき」
日が上り始める頃に、ようやくユカは眠ることができた。
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