1-5.ユカの家へ
タワーマンションの最上階に、ユカの住む部屋があると言った。
築年数は経っているものの、ユカはそれなりに稼げて贅沢もできる、ちゃんとした仕事に就いてる人なのだろうとヨルは妬んだ。
大理石の玄関に豪奢な調度品。絵画や生花が部屋に彩りを加えている。
シャワーを浴びて、男物のジャージを借りて、少し早い季節外れの電気ストーブを引っ張り出してもらって温まる。
ヨルの住んでいたボロアパートとは比較にならないくらい広く綺麗な室内だ。塗装が剥げていることも、柱がささくれていることも、床が色褪せていることもない。
広いリビングに通され、ソファに腰を下ろす。
二〇畳はあるリビングに大型のテレビ、5人はゆとりを持って座れるほどの皮張りの白いソファに、ガラスのテーブルがある。
生活感はあまりなかった。
髪を拭いていると、カウンターキッチンからユカがやってきた。
「はい。どうぞ」
コーヒーがテーブルに置かれた。
ふたつのマグカップから湯気が立ち昇る。ユカのものとヨルの分はまったく同じ形の色違いのものだった。
「ありがとうございます」
一口すすると舌を滑り、喉を通り、胃に入る。そこからじんわりと体の芯が温まっていき、リラックスできた。
自然と視野が広がり、色々なことが見えるようになった。
生きることに追い込まれて、忙しない毎日を淡々と繰り返して、気づかないうちに疲弊していて。
ゆっくりとコーヒーを飲むことがこんなにも幸福で、こんなに美味しいなんて気付けないくらい疲れ切っていたことに気がついた。
「……おいしい」
「よかった。豆は少しこだわってるんだ」
ユカは控えめに笑って言った。その表情だけは心から嬉しそうに見えた。
「俺、何も見えてなかったんだな……」
温かなたった一杯のコーヒー。ほっとするひととき。そこにはささやかな幸せがあった。
心が温まり、自然と眉間に熱が上ってくる。
ほろり、と涙が出た。我慢していた心の堰が切れた証拠だった。
「あ、れ……?」
心は平板なのに、涙が止まらない。
「きっと、つかれてるんだよ」
ユカは柔らかな口調でそう言った。
「そう、なんでしょうか……」
戸惑ったヨルは、泣き方を忘れた子供のようにただ涙をこぼしては鼻をすすり、ティッシュを取っては拭った。
「人間なんだから限界はあるよ。だからさ、休もう?」
「……そう、ですね」
ユカの一言にふっと胸が軽くなった。同じ気持ちを共有できて、分かち合えることがヨルの心をほぐした。
「限界だった?」
ユカは優しくヨルの心に踏み込む。
「……はい」
「大人になるといろんなものが付き纏って、素直な気持ちがわからなくなって、いつのまにか心の底から泣くことが減っているんだからさ、泣きたいときは素直に泣いちゃいなよ」
暖かい言葉にヨルは貯めていた心を吐き出していく。
「俺は生きることだけに必死になっていて、自分だけのことで精一杯になっていたんです。東京という大きな街で生活していると、自分のなかから優しさが消えてしまったみたいに心が荒んでいくんです」
朝起きて、死んだ目で支度をして、おかしいと思いながらも働いて、お金を得ることに固執して、なんで生きているのかわからなくなっていた。次第にヨルは社会の歯車になることに疲れてしまって、誰かに胸のうちを明かすことすらしなくなっていた。
けれど、ヨルはどうしてかユカにだけは心を許せた。
「俺はただ、ふつうに幸せになりたいだけだったのに……」
「ふつうの幸せって、なんだろうね」
ヨルのその一言に、はじめてユカは反応した。
「みんながそれを当たり前と思ったらふつう? それを持つことが一般的になることや、そうしていることが当然であるとみんなが思ってることがふつう? そんな曖昧で、けど誰しもが持ってる個々の価値観なんかが、ふつうというものなのかな?」
その問いは、ヨルに対してというより、社会に対してのものに感じられた。
「ふつうがそんなに偉いですか」
「どうだろう」
「ふつうでなければ可笑しいですか」
「可笑しいのかもね」
「俺はどうするのが正解なんですか」
「意地悪な質問だなあ。私もわからないのに」
ユカはコロコロ笑った。慰めることもせず、かといって突き放すこともなく、ヨルの心を受け止めている。
「子供みたいだね。きみ」
言葉とは裏腹に、暖かな言葉だった。そこには一欠片ほどの侮蔑もなかった。
涙の止まらないヨルを、そっとユカは胸に抱き締めた。
「きみはよく頑張ったよ。おつかれさま」
自分を認める言葉に、ふっと心が楽になる。
「今だけは素直になりなさい」
子供を宥めるようなユカに、ヨルは素直に甘えて泣きじゃくった。
「ふつうの幸せなんて、わからないんだからさ」
ヨルはユカに抱かれ、次第に眠りに落ちていった。
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