1-2.才果結果という女性
オフィスが集中する新宿西口に比べて、繁華街が集まる東口に向かう人はまばらだが、それでも人混みには変わりない。
朝の街に響くのは雑踏の足音と微かな話し声。誰もが何処かに向かって目的を持って歩いている。
川のように広い道路。そこを走り去る車。往来を忙しなく行き交う人々。
それらは止まることなく流れていく。
雨足が強まるごとに傘を指す人が増え、ヨルは咲いた傘をかき分けながら歩いた。
ポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。
ヨルは少しの遅れくらい怒鳴られるだけでどうにかなるだろうと判断してから、雨宿りすることを決めた。
いくつもの建物があるが、お店やオフィスビルの明かりはまだぽつぽつとしかついていない。
目についたのは古ぼけたこげ茶色の外壁の小さな雑居ビル。
もう壊されることは随分前から決まっているのに、ブルーシートがつき、建築計画のお知らせの看板が貼られていたまま放置されている。オフィスビルになるようだがいつ着工するか予定は未定のようだ。
そこのガラス扉に鍵がかからないことは、以前にも雨宿りをしたから知っていた。鍵の故障はそのまま放置されている。絶好の雨宿りスポットだ。
ガラスの手引き扉を開けて薄暗い中に入る。
そこで、足が止まった。
驚いたのは先客がいたことだった。
綺麗な女性だった。
腰に届く長さの髪を毛先につれアッシュがかったグラデーションに染めていて、肩付近でゆるく結っている。
袖の広がった白のフレアブラウスにワイドパンツ、みそらいろのパンプスと、夏の色合いを残した涼やかな格好をしていた。雨に振られたせいかわずかに濡れていて、ブラウスは微かに透けてキャミソールの肩紐が見えた。
女性はヨルを見た。
薄く微笑んでいるようなのに無表情のようにも見える。
どこかのOLだろうか、とヨルは推察する。軽く会釈だけをして自分の立ち位置を探した。
すると。
「私、迷子なんだ」
女性は唐突にそんなことを言った。
「きみも迷子?」
その姿には、不思議と今にも消えてしまいそうな儚さを感じた。
「ええ。迷子かもしれませんね」
「……そっか」
なんとなしに返したそれに、女性は曖昧に相槌打った。
「でもね。行き先はこれがあるから大丈夫」
と、女性はさっきまでの儚さが消えてしまったかのようにお茶目に笑って、スマートフォンの地図アプリを指した。
きちんと現在位置と目的地を示している。これなら迷子になることなどないだろう。
では、何が迷子なのだろうと尋ねる気はしなかった。
女性が何に迷子なのかも、自分がなぜ迷子だと答えたのかもわからなかったし、問うほどの興味も気力もなかった。
「……」
「……」
ふたりは無言のまま、滴る水滴を時おり払った。
静かな空間。濡れた男女と滴り落ちる雨水。床石は踏み入れた二人の足跡がつき変色し、ほこりが微かに舞っていた。
二人はガラス戸から見える街を見た。背丈の差はあれど、同じもの。同じ方向。同じ雑踏の景色を見ている。
見知らぬ誰かとの雨宿り。
そこに会話があったって何ら変なことではない。初対面だからこそあけすけに話せることもある。
「朝起きて働いて寝る、それだけの生活に一体何の意味があるんでしょうね」
気づけばヨルは奥底にある感情を吐露していた。
毎日決まった時間に起きて、仕事をして、お金を稼ぐ。それだけの生活。
ヨルはそれをつまらないと思う。けれど意味を求めてしまっているのも事実だった。
「さあ……。意味なんて、ないんじゃないかな」
あっさりとした、けれど嫌味と感じさせない優しい口調で女性は言った。話し方も仕草もひとつひとつに品がある。
ヨルもただの禅問答だと理解している。
意味なんてない。けれど一度考えてしまうと頭から離れない。だから、いつもと同じように思考することをやめた。
「……雨、早く止んでくれないですかね」
「今週はずっと晴れだよ」
「……?」
「天気予報で言ってる」
女性はスマートフォンを見ている。どうやら天気予報では連日晴れマークがついているらしい。しかしヨルにとってはその朝こそ降ってほしくはなかった。むしろそれ以外の時間に降ろうとどうでもいいとさえ思っていた。
「大丈夫。五分もしないで、きっと止むから」
ヨルの心を見透かしたように女性は言った。
「ほんとうに?」
予言めいたそれをヨルは信じられない。
「うん。ほんと」
女性は空を指した。ヨルには曇天が続いているようにしか見えない。
だが、女性にはわかるようだ。
「これは、ただの通り雨」
何故かそのセリフは話の流れとは不釣り合いな、まるで以前決めたもののように聞こえた。
すると言ったとおりに次第に雨足が弱まり、傘を畳む人が増え、雲の隙間から光の線が街に降り注いでいた。
「本当だ……」
ヨルは驚嘆した。
あっという間の時間に天気が変わったことも、それを言い当てたことも、偶然だとしてもすごいと感じた。
「ほらね。雨、止んだでしょ?」
女性はコロコロと口元に手を当てて笑った。よほどヨルの反応がおかしかったらしい。その姿は悪戯が成功した子供のようだった。
柔らかな表情を見たことや自分の心が動いたことが随分と久しく感じて、同時にヨルの心にも少しの日が差した気がした。
視線を上げると雑居ビルのガラス戸の向こうは快晴になっていた。
傘をさしている人はもういない。
「ねえ」と女性はヨルを呼んだ。「なんですか」とヨルは返した。
「きみ、名前は?」
「どうしてそんなことを?」
「知りたくなっちゃった」
「
「へえ。変わった名前だね」
「あなたは?」
「わたしは
女性もヨルに倣い、名乗った。そして立てかけてあった傘を手に取った。
それから二人は少し話したあと、別々の方向へ歩き出し、人混みに消えていった。
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