第7話
彼女の家。鼓動が速くなった。猫になったからではない。今回はそうだと断言できる。後ろめたさと興奮が、私を昂らせているのだ。だがしかし、猫である。最早私は人間ではない。性の欲を彼女に向けるのは、異常なのだ。猫は猫に。それが正常。雌の猫に出会っていないので正常の反応が出来るのかどうか判然とはしないけれど、まあ、それは後のお楽しみということにしておこう。
私は、彼女に抱きかかえられたままの格好で道を進んで行く。ゆったりと揺れるリズムが心地良く、油断してしまうと眠ってしまいそうになる。
不意に頭を撫でられる。柔らかい。頭を撫でられるなんて、何時振りだろうか。
意識が遠のく。どこか別の場所へと飛びだってしまっているような感覚。
瞼が落ちていく。抗いようがない。本能が瞼を閉じさせようと、強行してくる。従う意外に選択肢がない。私は猫だ。本能のままに、生きていくのである。
「あ、おはよう。よく眠れたかな? 眠ってる間にご飯買って来たから、一緒に食べよう」
私の身体は、毛布に包まれていた。寒くならないように、眠ってしまった私の身体に彼女が巻いてくれたのだろう。
ここが、彼女の部屋。思っていたよりもシンプルだ。物が少なく、生活するのに必要最低限のものしか置いていない、といった感じがする。ぬいぐるみとかがたくさん置いてあるなんて勝手な妄想をしていたけれど、どうやら彼女はミニマリストだったらしい。ふむ。更に好感度が高まる。余計な物は持たない、というのは出来る女性だからこそだ。
「お口に合うといいんだけど。はい、どうぞ」
そう言って、彼女は私の口元へ何粒かの物体を近づけてくる。初めは戸惑ったけれど、なんてことはない市販の猫の餌だ、と理解して、私はそれを舌で掬うようにして口の中へと入れた。彼女の掌も舐めてしまったせいか、下腹部が少し熱くなったような気がしたが、食事に集中することでそれは気のせいだと自分に言い聞かせた。
何気においしかった。人間だった頃は食べてみようとすら思わなかった猫の餌だが、【猫の】と言うだけあって、今の私には非常においしく感じられる。歯ごたえもあって、噛む楽しさもある。
「良かった。気に入ってくれたみたいね。ほら、器にたくさん入れてあげたから、お腹一杯食べていいよ」
餌の匂いに誘われて、勢いよく毛布の中から飛び出した。口いっぱいに香ばしい魚介類の香りが充満して、思わず頬が緩んでしまう。人間だった頃はあまり魚は得意ではなかったのだけれど、猫になったがゆえの変化なのだろうか、鰹や鮪の香りが私の鼻腔を刺激してくる。まるでコーヒーの香りのように。
「よっぽどお腹が空いてたんだね。そんなに急いで食べなくても、誰も盗ったりしないよ」
そうだ。これは彼女が与えてくれた私のみが食べることを許された食物である。誰も食べることはできやしないのだ。たとえ、この地域を仕切っているボス猫であろうと。
「食べ終わったら、一緒にお風呂に入ろうか」
思わず吹き出した。彼女には羞恥心というものがないのか、と思ったけれど私は猫であった。猫に羞恥心を抱く人間も、そうはいないだろう。
どうしたものだろうか。私には人間だった頃の記憶も感情もある。ゆえに羞恥心だってあるし、罪悪感もある。けれど、役得だ、と思ってしまう自分もいる。困ったものだ。
だがまあ。ここまできて好意に甘えない、というのも悪い。甘えるのであれば、とことん甘えなければ相手にも失礼だ。
私は食べ終えた器を頭で押す。彼女にごちそうまでした、とそう伝えたいけれど、私の言葉は【ニャー】としか届かないのだろう。
「よし。それじゃ、お風呂場に行こうか」
私は再び抱きかかえられる。これから私は、彼女と共にお風呂に入る。当然、互いに裸である。彼女の美しい裸体が、私の前で露わになるのである。
誰が想像できただろうか。こんな美しい女性が、私に裸を見せることを許してくれるだなんて。人間だった頃ならば、確実にありえない。猫になったからこそ起きた奇跡である。
「はい、ここがお風呂場だよ」
浴室に置かれる。肉球が濡れて不快だけれど、そんなことはどうでもいい。心臓の音がやけにうるさく聞こえる。
「服を脱ぐからちょっとだけ待っててね」
後ろで服の擦れる音が聞こえる。シュルシュルという音が、私の呼吸を荒く
させてくる。ああ、どうにかなってしまいそうだ。
身体の内側から爆発するのではないか、と思うぐらい体内が熱く波打っているのが感じられた。こんな感覚、久しく味わっていなかった。何て言うと見栄を張ってしまったことになるのだろうから、正直に言おう。初めてだ。この目で、何の媒体も通さず現実の視界で女性の裸体を見るのは、産まれて初めてのことだった。
「お待たせ。それじゃ、身体を綺麗にしてあげるね」
数秒。私が彼女を直視出来た時間だ。男としての本能と好奇心が私の心を叩きまわしてくるけれど、それでも罪悪感の方が勝っていた。彼女は私のことを、猫だと思っているのである。一匹で寂しそうにしていた猫を、彼女は産まれ持った慈母のような心で助けたのである。
そんな猫が。
まさか、昨日会社で出会った中年の男だと思いもしないだろう。超能力者でもなければ無理だ。
なんとも情けない。私は一体何をしているのだろう。女性の裸を見るために新しい生に転換したわけではないはずだ。彼女の優しさを踏みにじり、傷つけるために猫になったわけではないはずだ。
しっかりとしなければ。彼女の優しさに報いるために、私には何が出来るのか。
そんなことを考えながら下を向いてると、上部より勢いよく水が降りかかってきた。咄嗟の出来事に仰天して、私はその場を転がりまわった。
「あ、ごめん! シャワーの威力が強すぎたね。大丈夫? ごめんね、ちゃんと調節するから」
申し訳なさそうな顔をしている。似合わない、そんな風に思った。
すぐさま態勢を立て直し、再び四つ足で浴場に立つ。彼女が悲しむ顔をしてしまうのなら、水ぐらい我慢してみせよう。
「わあ、すごい。あんなに水を被ったのにすぐ平常に戻れるなんて、強いんだね。かっこいいなー」
むずむずする。褒められるというのは、あまり慣れてはいないので苦手だ。怒鳴られる方がまだ落ち着けるかもしれない。
「じゃあ、もう一回シャワーをかけるね。今度はゆっくりだから心配しないで」
誰かに頭を洗ってもらう。恥ずかしいような気持ち良いような、何とも言えない心地よさが漂い包んでくる。
顔は俯いたまま。シャワーを浴びているせいもあるけれど、彼女の裸を見ないようにするために顔を上げることはできない。
彼女の鼻歌が聞こえてくる。壁にぶつかり跳ね返り。天井にぶつかり跳ね返り。床にぶつかり跳ね返る。風呂場が彼女の鼻歌でいっぱいになる。
一体、どんな顔をしているのだろう。彼女は、私の身体を洗いながら何を思っているのだろう。私のことを想ってくれているのだろうか。それとも、別の何かを考えながらただ作業として私を洗ってくれているのだろうか。
どちらにせよ、私にとって大差はない。
彼女を想う私のこの気持ちは、彼女が何を思っているのかは関係ないのである。私が彼女という存在を己の中で肥大化させ、美化させていくことに、彼女の意思は関係がない。私が勝手に、彼女を創り上げていくのだ。
失礼なことなのかもしれない。けれど、それはもう、どうしようもない。頭の中で、次から次へと新しい彼女が産まれてくるのである。笑っていたり、悲しんでいたり。怒っていたり、泣いていたり。彼女という存在を、何度も何度も染み込ませ、身体中に浸透させていく。それは、考えてのことではない。自然とそうなってしまうのだ。
生を転換して気付かされた。人間ももしかしたら、捨てたものではないのかもしれない、と。
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