第6話

「あまり見ない顔だな。どうした、人間に捨てられでもしたか?」

 

 野太く低い声。もしも人間だったなら、ガタイの良い強面の中年男性だったに違いない。それにしても猫の言葉が分かるなんて。感激してしまう。


「いえ、捨てられたわけではないんですが――」


「じゃあ、別の地域から来たってのか? こんな荒れ果てた場所に?」


「そ、そうなんです」


 人間から猫になりました、なんて言っても信じてもらえるわけもないだろう。適当に返事をしておいた方が無難だ。


「お前さん、物好きだな。まあ、いいさ。やることをきちんとやってくれるならな」


「やること、ですか?」


「ああ、そうだ。なあに、簡単さ。この地域を仕切っている俺のところへ二日に一回、食い物を持ってくる。ただそれだけのことさ」


「食べ物、ですか……。あの、ちなみになんですが、もし、もしですよ? もし、食べ物を持ってこれない、っていう場合はどうなるんでしょう?」


 大きな白猫がにやりと笑う。よく見れば、彼の顔にはひどい傷跡が幾本も刻まれていた。


 右耳は、喰い千切られたのか歪な形をしている。


「身の保証は出来ねえな」


「肝に銘じておきます」


 人間でいえば、ヤクザの親分、ということなのだろう。金が食べ物に変わっただけの話だ。初めは猫の言葉が理解できることに歓喜していたけれど、事態はそんな場合ではなかった。会ってはいけない相手と、知らずに対峙していたようである。


 しかしまあ、ものは考えようだ。彼のことを知らずに悠々とこの地域で生活を始めて、後になって出会うような形になっていれば相当面倒なことになっていただろう。だから、早急に出会えて幸運だった。そういうことなのだ。ポジティブシンキング、である。


「えーと、親分さん。食べ物はどこに持っていけばいいのでしょう?」


「ここでいい。あそこにベンチがあるだろう?」


 彼は右の前足を上げて右側を指し示す。


「ああ、あの隅にある茶色のベンチですね」


「そうだ。あそこの上に置いておけばいい。あとで俺の部下が取りに来るからよ」


「なるほど。分かりました」


 私は、理解したことを彼に示すために首を上下に動かした。人間世界での動作が猫の世界でも通じるのかどうかは明確ではなかったけれど、彼は満足そうな笑みを浮かべてその場から去って行った。


 一人、いや一匹残された私は、再び今後の行動について考える。この先食料は必然と必要になってくるわけではあったけれど、彼の出現によって私が食べる分+アルファの量を調達しなければならなくなった。身を置く場所もまだ見つかっていないというのに、どうにも困った話だ。


 食料はどこからか盗ってこようか。そんなことを考えながら公園の外へと向かう。人間の時には思いもしなかった思考が、頭の中でぐるぐると回り続けている。


 楽しい。そう感じた。生きている、と強く実感させられる。ぬるま湯に浸かったような世界で、周囲に怯えながら生きていた頃とは違う。この行動が間違っているのかどうかなんてことを考えている余裕もない。そうしなければ、生きていけないのだから。


 私は、ここにいる。私は、ここに生きている。私という存在が、はっきりとこの世界に描かれている。


 問題は積まれているけれど、身体は軽かった。問題が積まれていない時よりも、随分と軽かった。


 公園を出てすぐ側にあった電柱が、視界に入ってきた。そこに、一枚の紙が貼ってある。


【飼い主募集中】


 その文字の下に猫の写真があり、更にその下に連絡先であろう電話番号が書かれている。


 ふむ。閃いた。


 誰かに飼ってもらえばよいのだ。


 人間主体のこの世界、人間に飼育してもらうのが一番手っ取り早く安全だろう。自分でどこか住処を見つけても、先程のヤクザのような猫などに因縁をつけられかねない。けれど、人間が相手となれば、あの猫もさすがに何もできやしないだろう。たとえ私が彼への貢物を持って行かなくても、室内から出ずに人間の影で生きていれば危険はないのだ。


 そうと決まれば、さっそく行動である。人間ならばそこら中にいる。その中の誰かに、飼ってもらえばいいだけの話。


 声を出してみる。歩いている人間の内の何人かがこちらへと視線を落とす。彼らには私の声が【ニャー】と聞こえているのだろうか。


 もう少し高い声で言ってみる。更に視線が増える。可愛らしい猫の声に聞こえているのだろう、と少し得意気になってしまう。


 しかし、誰も近づいてこようとはしなかった。まあ、それも仕方のないことだろう。人間だった頃の私も、道端で泣いている小汚い猫に近づこうとは思いもしない。気にはなるけれど、どんな病気を持っているかも分からないのだ。


 根気よく続けるしかない。大多数の人間が近づいてはこないだろうが、中には寄って来てくれる人間もいるはずなのだ。心優しい動物好きの人間、そういう人たちは必ず私の存在を抱きかかえてくれる。


 飼い主を捜し始めてから一時間ほどが経過しただろうか。途中、近づいて来てくれる中年の男性がいたけれど、私のやましい心が彼の優しさを拒絶してしまった。どうせなら女性に飼われたい、そんなどうしようもないことを思ってしまったいやらしい自分が、恥ずかしくなってくる。男だから、という言葉だけで片付けられれば、いくらか気持ちも楽になるのだけれど。


 次で決める。確固たる意志で決意した。たとえ、次に私の側に寄って来てくれる人間が加齢臭漂う脂っぽい中年男性でも、私は快く彼を受け入れよう。彼の善意に全力で、正面から立ち向かおう。


 そんな私の決意は、幸いなことに無意味に終わった。必要のない決意だった。


 数分後、私を抱きかかえてくれたのは、良い香りを漂わせた、柔らかい身体の美しい女性だったのだ。


「こんなところでどうしたの? 仲間とはぐれちゃったのかな? よしよし、大丈夫だよ。怖くないからね」


 優しい言葉が次々と、私の心の中に溶け込んでいく。


 ああ、そうだ。彼女はあの時も優しかった。あの時も、私の冷え切った心を温めてくれた。名前は知らない。けれど、彼女のことは知っている。忘れるは

ずもない。たとえ人間だった頃の記憶が消えていたとしても、きっと忘れてはいなかったはずだ。


 猫となった今でも、彼女のことは美しく見える。側にいるだけで心が安らいでいく。


「喉がゴロゴロ鳴ってる。気を許してくれたのかな? 一人じゃ寂しいもんね。一緒に家に帰ろう」

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