黙示録 開戦変
雪風摩耶
第1話 プロローグ
畑と畑の間の人がようやくすれ違えるほどの細いあぜ道を道いっぱい使って歩いている男がいる。丸みを帯びて、それでいて硬さを感じさせる筋肉に覆われた大男である。
その体の大きさの割に足運びは軽く、足音は全く聞こえてこない。
筒上の細長い包みに大きな皮袋を欠け、肩に担いでいる。剣道に使う竹刀と防具である。
男が向かっているのは、集落の外れにある、武殿と呼ばれる道場である。
その建物のすぐ傍に大きな柿木が生えている。毎年時期になると道場生がその実をもぎ、おやつ代わりにするのを楽しみにしている。
今はまだその実は青く、赤く色づくまでにはまだ数ヶ月は必要としていた。
男がその柿木をふと見上げると、木の中ほどの大ぶりの枝に黒い物がうごめくのが見えた。
「猿?」
大きさはちょうど大きめの日本猿といった感じである。その猿がひょいと手を伸ばし、まだ青い実をもぎ取った。
それを無造作に口に入れる。
それをすぐにペッと吐き出す。
もう一度手を伸ばす。
再びペッと吐き出す。
「猿め、柿を全部食う気か!」
男は猿に向かって走り出していた。
背中で防具袋が大きく揺れる。
「おい、猿!柿を食うんじゃねえ!それは俺達のだ、ばかやろう!!!」
男は怒鳴り声をあげた。
その怒鳴り声に意外な反応が帰ってきた。
「猿とはワシの事か?」
黒い猿に見えた者が人の声をあげた。老人のようである。
「あんた、人か!」
「人じゃなければ、人の言葉はしゃべらんわなあ。」
そう言いながら猿に見える老人は手を伸ばし、柿を二、三個懐に仕舞い込んだ。
「あ、また盗りやがった!降りてこい、このくそ爺があ!」
するするすると老人は降りてきた。
猿よりも身軽な動きであった。
その猿のような老人の降りて直立した姿は、木上にいたときよりも、さらに異様であった。
成人の男子としては、あまりにも小さかった。
子供のような体つきである。
薄汚れ綻びや裂け目の在る黒の僧衣を着ていた。僧衣からはみ出した手足は異様に細く、骨の上に直接干からびた肌が乗っているようであった。肩幅と同じ大きさの頭部は、頭頂付近は円形につるりとして、両耳の上から生えた白髪が肩の下まで伸びている。
染みと皺にあふれた顔にぎょろりとした目がある。鼻は大きな鷲鼻、口紅を塗ったように紅い小さな唇をしていた。
「おめえさん、でかいなあ!」
その奇怪な老人が口を開いた。
つくづく感心したというような口調である。
「何言ってんだ、この爺。」
大きな男は警戒感をあからさまにした。
「おめえ、金剛鉄丸だろ?」
僧衣の中からさきほど仕舞い込んだ柿ではなく、何時から持っていたのか、梨を取り出し噛り付いた。
「爺、なんで、俺の名前を知ってやがる!」
大きな男は担いでいた防具を降ろし、竹刀を取り出した。二本である。それを構える。
見事な構えの二刀流である。
「おいおい、おめえさんよ、怖いなあ。
そんな物持ち出して。
ワシは鬼でもなければ、悪党でもないぜい。」
ニヤリと猿のような老人は笑った。
「悪党じゃない?柿を盗んだろうが!」
怒声をあげた。
「かかかっ。違いねえや。小僧の割に理屈をわかってやがる。」
愉快そうに笑った。笑いながら、がぶりと梨に噛り付いた。
「おめえも、食うか?」
齧っていた梨を差出した。
「食いかけの梨なんか食えるか、このボケ老人が!」
大男は、突き出された梨目掛けて竹刀を振り下ろした。竹刀は梨に当たるかに見えた。
が、空を切っただけである。
梨は全く同じ空間に存在した。
「おいおい、いきなり何をするんだい。
せっかく梨をくれてやるといってるんじゃないか。だが、まあ流石に良く鍛えられているわなあ。まだまだ青いがなあ。」
突き出した梨を引っ込め再び口にした。
「爺、今何をした?」
当たるはずの竹刀が当たらなかった事について問い詰めたのである。
「かかっ、何をしたか、分からなかったかい?
そうかい、分からなかったかい。
楽しいねえ。」
「なにが楽しいんだ?」
さらに怒気が増した。
「おおい、どうした?」
遠くから声が聞こえた。やはり防具を背負っている。
「ふむ、あれは明王家の小僧か?」
「剣介の事も知っている…
あんた本当に何者だ?」
「かか、小僧、人生にはな、知らなくてもいい事も在るんだ。」
そう言いながら梨を大男に向けて投げつけた。
大男は竹刀でそれを叩き落とした。
が、梨を叩き落としたと同時に顔面右側と頭頂部方向から柿の実が飛んできた。
大男はそれを避ける事は出来なかった。
まだ青く固い実が大男の頭部を襲った。
その時、猿のような老人の声が響き渡った。
「その固くて青い柿はくれてやる。
川上に言うておけ!まだまだ柿は熟しておらん。青い柿は食えんとな!」
「青い柿とは俺の事か?」
大男はそう感じた。
その時一人の若者が駆けつけた。
先程、大男に呼びかけた若者である。
柿の実で汚れた大男の顔を覗き込み若者は聞いた。
「一体どうした?あの人は一体何者なんだい?」
「わからん、俺達の事も先生の事も良く知っているみたいだ。一つわかっている事は、あの爺は間違いなく強いという事だ。」
その夜二人は師である川上にその出来事を話した。師範は深く考え込み、ただ一言
「わかりました。」
と答えただけだった。
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