天気予報は曇りのち雨

麺田 トマト

天気予報は曇りのち雨①


 人は自分とは違う何かを、しばしば“怪物”と呼ぶ。


 ――平成・令和の怪物。

 ――モンスターペアレント。


 それは一種の諦めであったり、単に醜い者への比喩だったりするけれど――。


「本当の怪物を見たことがないくせに、その言葉を使わないで欲しいかな」


 自分の姿さえ見ることが出来ない透明のナニカは肩をすくめて、自らが怪物でないことを願うのだ。

 もっとも、肩をすくめた姿は見えないし、今動かした部位がヒトでいう肩なのかも分からないのだけれど。


 *


 制服姿の女子高生は、今まさに死のうとしていた。

 住み慣れた十五階建てマンションの屋上の柵を越え、足の半分の幅もない塗装の禿げた外壁の上に立ち、冷たい冬の風に当てられている。

 たなびくスカートからのぞく足は細かに震え、柵を掴む手は強く握られていた。

 そんな情けない有様だったから、は呆れて声をかけた。


「ねぇ、死ぬにはまだ早いんじゃないかな」


 気だるげな声に、女は咄嗟に振り向いた。

 しかし、そこには誰もいない。


「――!? だ、誰――!?」


 女は震える声で叫んだ。


「ん、やっぱり見えないんだね。知ってたよ。

 どうせ死ぬんだったら、その前にボクに協力してくれないかな。ちょっとばかり困っていてね」

「嫌っ! もう私に生きる場所なんてないの!」


 女は極度の緊張状態にあった。瞳の大きな目は血走り、まともではない。

 しかし、ナニカは淡々と自分の言いたいことを続ける。

 

「何を言っているんだ。ヒトには産まれた場所と死ぬ場所しかないだろう。

 それがこんなつまらないところでいいのかい? 朝だっていうのに空は灰色だし、下を見たって黒か灰色ばかりだ。それに飛び降りたらきっと痛いぜ」


 痛い――その言葉に女はたじろいだ。死ぬのは別に構わなかったが、苦しいのだけは嫌だったのだ。


「痛いのは嫌! でも消えたいの! もう苦しいのは無理。カレも、アイツも、みんな私を裏切った。もう無理なの。耐えられない」


 女は忌々しい記憶を思い出し、ぐっと唇を噛み締めた。

 たらりと唇から赤い血が滴り、冷たくなる。


「お、消えたいときたか。

 それなら僕の専売特許だ。話がある。ちょっとこっちに来てくれないか。安心しろ、金はとらないさ」


 その言葉に女は少し悩んだ後、少しの間だけ、元の世界に戻ることにした。

 この非常な状況で、ここまで軽口を叩ける人間に興味を持ったのだ。

 塀をよじ登り、しっかりと足元を支えてくれる世界に帰還した女は声を主を探した。

 屋上はそれほど大きくなく見通しもいい。しかしどこを探しても人の姿が見当たらない。女が怪訝に眉をひそめていると、再び声が響いた。

 

「もしかしてボクを探してる?

 ごめん。ボクは透明なんだ。探しても見えないし、血の通った生き物には触れもしない。でもボクはここにいる。安心していいよ」


 女の脳裏に『透明人間』という単語が浮かんだ。

 それはマンガの中だけの存在で、しかしそれがどうやら目の前にいるという。

 もしかして自分はもう飛び降りていて、落下している間におかしな夢を見ているんじゃないかと疑った。

 でも、軽薄で、少しざらついている声は確かに鼓膜を揺らしていて、夢幻のようには思えなかったし、夢であっても面白いならいいと思った。


 砂糖の混ざった覚悟でも、死ぬ気で境界を越えた人間は肝が据わっていた。


「――分かった。じゃあ、どうやって私を消してくれるの? 触ることも出来ないんでしょ?」

「そう急ぐなって。まずはほら、初対面の人間ってのは自己紹介をするもんなんだろ? 名前を聞かせてくれよ、茶髪のキミ」


 女は不満げであったが苦しくないんだったら別にいいかと、


「サヤ。サンズイに少ないって書いてサ。耳とぐにょっとしたやつでヤ。それでサヤ」

「……自分の名前なんだろ? もうちょっと言い方あるんじゃないか?」


 もっともな指摘に女――サヤは唇を尖らせる。そして透明人間はきっと男だと予想した。声は中性的だったけれど、どうでもいいところでヒトを見下すような言い方は男のそれだと思った。

 ……一人称もボクだったし。


「じゃあそっちはなんて名前なの? カッコいい言い方出来るんでしょ?」


 サヤは棘のある言い方で問うと、「はは」と軽い笑い声が返ってきた。


「それが残念ながら覚えてないんだよ、名前。だからほら、適当に――そうだな、レイにしようか。幽霊の霊――」

「それは嫌」


 サヤの唐突な拒否反応に、透明なレイ(仮称)は息を詰まらせた。


「ん、ごめん。何か理由でも? 悪気があったわけじゃないんだけど」


 レイの謝罪に、サヤはばつの悪そうな顔をして、口を開く。

 

「……それ、カレシの名前だから」

「なるほど。それは悪かったね。この様子じゃ随分と思い入れが強いみたいだけれど……あぁ、そうか。君の消えたい理由がそれか。この世の終わりみたいな失恋でもしたんだろ」


 レイ(仮称)は淡々とした喋り口調が、サヤには興味の無さそうな口調に聞こえて、だから、サヤはその空白を埋めたくなって、伏し目がちに、話したくもない経緯を語り出した。


「レイとは高一の夏から付き合ったの。背が高くて、優しくて、最強のカレシだった。だから私も頑張ったの。バイト頑張って、服を買って、髪は長い方が好きだっていうからお手入れして二年半もずっと伸ばして、ずっと一緒にいた。

 でも、別れちゃった。なんか合わないって。

 ほんと苦しかったけど、しょうがないかって諦めた。そしたら今度はトモヨと付き合ってるって噂が流れてきて――もう、痛くて、疲れちゃって、もういいやってなって、死のうと思ったの。私、バカみたいでしょ?」


 サヤは自嘲するように息を吐いた。

 言ってしまえばこれだけの理由だった。

 だけど、それが彼女の全てだった。

 勉強する意味も働く意味も聞く意味も話す意味も分からなくなって、こうなった。


「まぁ、バカだと思うけど、でも地球には余るほどヒトがいるんだ。サヤみたいなやつだってそりゃ出てくるだろう。別に恥ずかしいことじゃない。

 それにサヤは運が良い。こうしてボクの目に留まったんだからね。地球のどこを探したって、ボクほど楽にヒトを消せる奴はいないさ。まぁ、いたとしても見えないんだけどさ」


 相変わらず興味は無さそうなレイ(仮称)だったが、同情も憐憫もなく事実として受け止めるその姿勢は、自分の感情を受け止めるのが精いっぱいなサヤにとって随分と楽だった。


「楽に消せるって、ホントなの?」

「そりゃあね。なにせボクが今消えているんだから」


 サヤは首を傾げる。男のために伸ばしたツヤのある髪がはらりと揺れる。


「どういうこと?」

「ボクの見立てでは、サヤは単に人間関係とか、そこら辺をひっくるめた環境に疲れただけなんだ。だから全部を終わりにする準備はまだ出来てない。

 

 空飛ぶ羽はないけれど、空気のように自由になれる」

「自由に……」


 レイも、トモヨも、家にいない両親も、バイトの店長も、うるさいおじさんも、模試も受験も何もかも気にせず自由になれる――。

 想像は出来ないけれど、まさに夢のようなことだった。

 サヤはうっとりとした表情で問う。


「じゃあどうやって透明になれるの?」


「仕組みは次に話すとして……。

 ――要は、ボクの姿が見えるようになればいいのさ」


 



 



 





 


 

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