第1話 手招くウサギ





 救い、救済。


 与えるものか、与えられるものか。


 不幸の最中の救い、築き上げ、全てを奪われてしまったものへの救い。


 その救済は、脱却か、それとも死か。


 おのが為の救いは世界を滅ぼしてまで手に入れるものなのだろうか。


 その救いは、救い足りえるのだろうか。


 他人なんて居なければ、そんな事を考えずに済んだのに。





          ‪✕‬‪‪✕‬‪✕‬





 ぼんやりと、何処か、遠くを見ていた。



 ――わたし達にイミを与えてくれた。


 ――灰一色の世界にイロを与えてくれた。


 ――ほら、みて、私を見てください、先輩。


 ――あの飛ぶトリの影のところまで行って来て。


 ――あなたのおかげで、なんだかあたしの人生、これからもっともっと素敵なことがある様な気がしてきました。



 ――改めまして、私達を救ってくれてありがとう。



 ――ごめんね――。





 既に軋みを上げ始めている。


 骨の髄まで染みた孤毒は身体を震わせる。


 網膜からの情報はただ暗く一色。


 ウチガワに在るウラガワの景色。


 意識が途絶えている。


 暗闇、現実との境目。


 外界からのノイズに意識が引かれる。


 何かのオトが聞こえてくる。


 これは、なんのオトだろう。


 自分は今どこにいるのだろう。


 意識が覚醒する前、自分が今、どこに居るのかなんて分からない。


 確かに眠る前、意識が途絶える前の記憶を辿れば自分が居る場所がそこに居る理由と共に朧げには分かるのだろう。


 だが、そのピントが合わずボケたレンズ越しの景色の様な不明瞭なその輪郭は、それはそうだろうという認識と不安をもたらすだけで、確定した現実だとは言えず、多分な不確定要素を孕んでいる。


 似たような物、例えば、抽象的な絵画は意味を曖昧にし、様々な視点、印象、現実を与える。


 でもその現実は、朧気な具像は客観に過ぎず、個々の主観に過ぎず、どこまでもあやふやで曖昧なものでしかない。


 見えない現実を、知りたい現実を、他人の視点で語られてもその現実は確定しない。


 青い空は青く、夕焼けはオレンジで、宇宙は何処までも黒い。


 そんな当たり前の事、でもそんな青さを、オレンジを、黒を、知っているのは己だけ。


 ――他人に見える色は自分から見える色ではない――。


 だからこそ、頭の中に容れられた現実を、真実を知るものは、ただ一人、己の視点のみ。


 色を、輪郭を、イミを写し出すのは全て己の自由。


 甘んじて受け入れるも良し、その色を痛く感じるのなら閉じてしまっても良い。


 逃げてしまうのは何も恥じることでは無い、無いが……


 ……でも……


 それでも、関係ない、少しずつでも開けなければ……


  ――まぶたは、まるで小人達がぶら下がったかのように重たい――。


 ……まだ少し眠たいけれど……


 このまま……このまどろみに任せてまた眠ってしまいたいけれど……


 でもまた……深いところに沈むわけには行かないから……


 だから……開けてみよう……カチリと、頭の中のスイッチを切り替えて……瞼の筋肉に信号を送り……ゆっくりと押し上げるように目をあけ……表側の世界だったものを再構築する……


 それはいつもと同じカンカク……始めに光が入ってくる……急な光に驚いて思わずまた目を閉じてしまいそうになるけれど、それでも、その閉じてしまいそうな目を開けることを俺は続ける。


 何か、不明瞭な形あるものが徐々にはっきりとしてくる……色や、輪郭、動き。


 ……そんな懐かしく映りこんできた景色と共に俺は思い出す……ゆっくりと、意識という糸を手繰り寄せるように……自分が以前どこに居たのか記憶と繋ぎあわせてみる……


 聞こえてくる音は……とても大切な何かだと認識する……


 体に伝わる暖かさはとても大切な何かだと感じ取る……


 世界が明確になり……自己が確定する……


 そして、決して消すことなど赦されない意志と共に……


  ――此処に、存在が確立する。





  2026年 10月1日 T都X区。



  ――構築された現実。


 座り込んだアスファルトの地面、雨上りの溜まった水面に映るのは、ボサボサの黒髪、薄汚れた顔、意志の灯らない瞳、ヨレヨレのカッターシャツを着た痩せこけた男。


 その濁った水溜まりには、平成5年10月1日生、國滿くにみつ 新タあらたと記載された身分証が浮かんでいた。



 拾い上げ、ぽっかりと空いた蒼い空を見上げる。



 何処からか、チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてきた。


「んんっ……」


 ……少し肌寒い……今は朝か……


 まだ少し薄暗く、日の出が顔を出す前、カラスがカァカァと鳴き、人間の生活から排出された生ゴミに群がる黎明の頃。


「あぁ……何処だここ……」


 人気の無い、錆び付いた自販機の前。


 ……記憶が混乱する……


 ……意識が朦朧とする……


 ……頭が痛い……気持ちが悪い……


 昨夜、なけなしの金を握りしめて行きつけの居酒屋で酒を煽っていた事を思い出す。


 ズボンのポケットには居酒屋のお兄さんが同情して無理矢理入れてくれたお金……


 それ以降の記憶は良く思い出せない……


 聞こえてきた大切な何かは錯覚……遠い昔の記憶…………


 体に伝わる暖かさはただ単に、少し漏らしてしまってただけ…………


 乾いた自嘲を一つ、そのまま後ろの自販機に寄りかかりながらゆっくりと立ち上がる。血圧の低下、立ち眩みを感じながら……



 ――徐ろに喉奥へと手を突き入れた。



「ヴ、ォエエエエエエエエェェェェッッ!!」



 吐瀉。胃に溜め込んだモノを盛大に吐き散らかす。


 口端を伝った唾液を拭い、溜息。きっかけに心機一転。



 ……よし、……とりあえず家に帰ろうか………。





 ん、あっ、家、無i。





‪           ⬛︎⬛︎⬛︎





 俺は依然、盛大にぶち撒けからになった胃袋を携え、未だ体調が優れないままにフラつきながらも、居酒屋の兄ちゃんが恵んでくれたお金を有難くタバコと電車に使い、都心から少し離れ、行き先も分からず歩いては座ってをただ漠然と繰り返し、日が沈み、薄暮はくぼが過ぎて月明かりが照らしだした暗い夜道に、走光性により虫が群がる今にも消えそうな明滅する電灯からジーと鳴る音を耳に入れ、

 「……全部出してしまったからな……」とひとりごち、徐々に痛みを感じてきた腹を抱えながら狭い路地へと入り、歩を進める。


 廃棄され壊れた鏡には、爪が剥がれ、切り傷だらけのしわがれた手を壁伝いに歩く男が映る——。


 ……途中、痰が絡むような咳払いが聞こえ、鏡から視線を逸らしその方向へと地面を這うように目を向けると、薄汚れた人影を何度か見た。


 下方から、小動物の細い声、排水口へと入り込む鼠が一匹。


 此処は闇の世界、社会という光ある世界から追い出された隔絶された場所。


 まるで自分の行く末を見ているよう……いや、今まさに辿っているのだろう……もう徐々にこの現実を受け入れ始めている……幸せだった過去などとうの昔に消え去った……絶望を目の当たりにし希望を失い、それでもまた希望をもたらされた……だがその希望もまた絶望へと変わりつつある。


 人はそう簡単に変わる事などできない。


 心の傷は時間が癒してくれると言うが、なら例えば、その傷に毒が入り込んでしまっていたらどうだろう……


 その猛毒はゆっくり、ジワジワと、崩壊へと蝕んでいく……


 歳ばかり食い、体は衰え、俺の時はから止まったまま……


 少しづつ、壊してしまわぬ様、大切に築き上げて行った人並みな幸せ……それを唐突な悪意によって奪われ、それでも変わろうと努力した……


 励まし、助けてくれた人もいた……


 それでも変わらず絶望はやってくる……


 絶望は手招きなどしない……


 気付かない内に背後に回り込まれる……


 背中を疎かにしている愚かな奴はゆっくりと、沼の様な黒に引き摺り込まれていく……


 気付いた時にはもう遅い……すでに半身を、冷たさも暖かさもない暗くどよどよとしたなにかに浸からせている……


 底は一人、自力で抜け出すことは常人では不可能、奇跡を待つか、神頼みか……


 ……暗い思考を悶々と巡らせている……


 そんな俺を見透かすかの様に、深い闇夜にギョロっと覗くまんまるの眼球はジッとこちらを見下ろしていた。


 そのどこかゾッとしつつも魅惑的な月に誘われるように、月明かりの届いた開けた場所に出て行く……


 ……体力の限界か、自然と身体は壁に寄り掛かり、ポケットを漁り、マッチと一緒に取り出した煙草の端を唇の間に挟みこんだ。


寒さからだろうか、小刻みに震える手はつまんだマッチの火をゆらす。


近づけると煙草に火が付く、その目先の温かみは眠気を誘う。動かない視点に映る煙をみながら、座り込もうとした時だった。



 何処からかオト、が聞こえてくる……


 これは幻聴だろうか、地獄からのアナウンスだろうか……


「ははっ……」


 とうとう頭までおかしくなって来てしまったのかと掠れた声で自嘲し、足を曲げる動作を止め、細目の視界の中、立ち込める煙に目が染みるのを感じながらも、耳を澄ませていると、それは誰もが知っているであろう、何処かで聴いたことがある音だと気が付いた……


 それは、――ピアノの調べ……


このまま重力に従い座り込んでしまう方が楽だったが、一度座り込んでしまうともう二度と立ち上がることはできないと感じ、少し気になり始めていたその音を壁伝いに、抱き込まれ、誘われるかの様に、近づいていく……


 ザッと足を擦り、明かりの届かないヒト1人分ほどの狭い路地へと入り込み、真っ直ぐに進んでいると、徐々に近く大きくなっていくその演奏は、やがて自分の知っている曲だということに気がつく。


 この曲、聴いたことがある……


 クラシックを知っている人なら誰もが知っている有名な曲だ……


 < ポロネーズ第6番変イ長編『英雄』>


 ――英雄ポロネーズ。


 まるで空気に溶け込むかのような自然な音色が聴こえてくる。


 疲れた脳内に染み渡るかのように音が心地良い。


 音から察するに、かなり上等なグランドピアノだ。


「……なんで……」


 なぜ、こんな場所からピアノの音がするのかと疑問に思ったが、それでも幻聴じゃない事は確かだと確信して、奥の月明かりを見つめながら歩みを進めると再び開けた場所に出る。


 ⎯⎯途端に飛び込んでくる月の光が網膜に当たり、少しの痛さと眩しさを感じながらも正面を見つめるとそこは、――ひとつの世界だった――。


 この世から隔絶された月の光の世界、星々の輝きに照らし出された銀世界……暗い夜のとばりが降りる中、ただひとつ、そこにそれはあった。


 真っ白なピアノがあり、その調べがある……


 そんなキラキラと一面に輝く鏡の様な浮世離れした空間で、一つの物語を織り成すように……


 ゆらりゆらりと動きながら、ひとつひとつが美しい粒のような音色を奏でる、白手袋をした奏者は……



 ――赤色のジャージを着たウサギだった。




 Alice in wonderland?





       ?■?■?■?




 思考停止、乾いた唇からはタバコが落ち、火は湿った地面によって消えた。


吸殻を拾い上げ、ポケットに突っ込み、脳へと思考の再生を促す。


 ……ま、まてまてって、違う違う……ウサギ? は居るがそもそも俺はアリスちゃんではない……確かに一瞬鏡の世界かのように思われたが、白ウサギの着ぐるみ? 頭だけだが……継ぎはぎだらけで不気味だ……それと鏡の國への案内役は実はうさぎはしていない、よく混合されがちだが不思議の國と鏡の國は別々のお話だ、この辺もなんか大雑把だ、まぁこっちが勝手に鏡のようだと思っただけだしな。


 しかも何でジャージなんだよ! よく映える赤色だし! 何処と無く懐かしさを感じさせる。ふーん、良いファッションセンスしてんじゃん……共感はないけどな。


 ……まぁ、そんなアウトローなセンスは置いておいて(常に視界に入るからうざいけど)、凄いな……あのレベルで弾くには相当な努力と才能が必要だ……ピアノは小さい頃に教わったことがあるがあそこまでの域に辿り着くにはとてもじゃないが俺には無理だ……過去にかなり努力をした自負があるが俺にはどうやらピアノの才能がなかったらしい……良く一緒に遊んでいた幼馴染の方が才能があった。


 ……ゆらゆらと、揺れながらピアノを弾くウサギはこの場の雰囲気と音色を奏でる技術も相まってとても幻想的な光景にも思えた……


 やがてその幻想物語が、最後の音と共に終わりを告げると、ウサギは頭を此方へと向けていく……その遅遅とした動きがピタリと止まると、まるで不審者のような(実際そうだが)安い変声機をつかっているのだろうか、ノイズの走ったダミ声を発した。


「英雄ボロネーゼじゃ」


「何でイタリアンにした!!」


 ――はっ!? しまった……つい光を置き去りにする宇宙膨張速度神速のツッコミを入れてしまった……昔、友人の一人によって鍛え上げられた元来のツッコミ癖が未だに抜け切っていない、俺はどっちかと言うとボケ重視なんだけど、ドウデモイイカ。


 口調から目上の人だと判断し、此方の口調を直すよう心がけながらひとつ咳払いをしてピアノの感想を口にすることに。


「……すみません、思わず見惚れてしまいました……凄くお上手ですね? プロの方とかですか?」


 何で俺はこんな今にも襲いかかって来そうなサイコ野郎と会話をしようとしているんだ?


 ……逃げたら追ってきそうだし、いいか。


 何を考えているか分からないその無機物の赤く染った大きな瞳を向けながらウサギは声を発する。


「――君は英雄とはどう思う?」


「……英雄とは、ですか? 何でしょうね」


 ……いきなりだなあ……


 まあ、とりあえず真面目に答えよう……出ないと喰われかねん……


「……人々の憧れの象徴、でしょうか?」


 どうだウサギちゃん、この答えはシンプルすぎたかな?


「……平和ではなく、憧れとな? そうじゃな、いかにも分かりやすくて的確な答えの内の一つじゃ」


「……では、君はその憧れの象徴になって見たいとは思うかね?」


「……お爺さん、憧れは憧れであってなって見たいとは思いません」


「……英雄、英語にするとヒーローですけど、彼らは人々を助けすぎです、それ故に希望を持たせてしまう……それに実際なって見ると絶対疲れますよ、それで些細な不運、不慮の事故なんかで居なくなっちゃったりして、人々に絶望を与えてしまうのだから元も子もないです……助けるのは両の手ほどの本当に助けたいやつだけで良いんです」


 なんだかクサイ事を言っている気がして少し恥ずかしくなってきた……


「それなら休暇もありますしね……過労死はよくない」


「だいたい俺はヒーローより成すべき事を必ず成す為に何でもする、ダークヒーローの方がよっぽど好感を持てますよ……ダークでカッコイイことが大好きなのは男の性ですしね」


 ウサギはその言葉を理解したのか共感したのか被り物のせいで全然よく分からないけど、ゆっくりと頷きを見せ、再びピアノへ向き直り、その白と黒の織りなす鍵盤に手を添える。


「……では、こういう感じでどうじゃ?」


 その手が、ピアノが織りなす世界が、物語が再び構成され始める。


 初めはゆっくりと徐々にペースを上げ、少しずつ、基盤は変えすぎない様にアレンジを加え始めて行く……軽快で踊るような一般的な英雄ポロネーズとは一風変わったダークな曲調に変化し始める。


 それはまるで、初めは希望を抱いていた少年が深い絶望に襲われ、己の限界を知り、自分のやっていることは身の丈に合わない事だと気付き、今までのやり方を根底から見直して徐々に己の身の丈にあったヒーロー像を構成していくかの様に……


 一つ、また一つとテンポがゆっくりとして行き、曲調がだんだんと暗く深く陰鬱になっていく……


 少年は気付いたのだろう……今までの自分の愚かさに浅はかさに……そして、中盤から後半にかけてゆっくりとしたテンポに戻っていた音色が徐々にペースを上げていく……最初の頃よりも早く速く……もう遠慮などないように……ボロボロになりながらも本当に大切なものだけを抱え、他のモノなぞに見向きもしないかのように……


 まるで魔法でも掛けられたかの様な編曲。そして最後には、ささやかな祝福を告げる様にして、少し明るめの音色で物語の終わりを告げた……


 ……思わず息を呑む。


 感無量とはこのことなのだろう……


 上手く声が出ないのでウサギの言葉を待つことにした。


 そのウサギはまるで故郷を見つめるかのようにして銀に輝くまんまるの月を見上げると――


「そうじゃな……名前を付けるのだとしたらそれは――」



「イカスミボロネーゼと言ったところじゃっ」



「……イタリアンから離れろぉぉぉおおおおおーーーー!!」












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