第81話 教育・医療改革〔3〕

 私がこの世界に来てからの5年間で狂犬病への対策を打ち立てた過程で助けられなかったソーランド領の人間の数は確認できただけでも279名である。他国や他領と合わせると数千人は超えただろう。おそらく、過去の死亡者数も合わせると相当な数に上る。


 すでに亡くなっているが、その国で狂犬病の研究を始めた人間は、身近な人間を喪ったことがきっかけで半生をかけて致死率を100%から60%に引き下げたのだという。その研究を絶やすことはできないと考えた弟子たちが引き継いで、さらに30%まで下げた。もはや執念である。


 なお、このワクチンはレシピ登録はしているが特許申請をしていない。それはこの研究者が望んだことだったようだ。

 だから、私たちはみな敬意を払ってその研究者の名を借りて「リベノワクチン」と名づけて、レシピ登録だけして特許を放棄した。もちろん、このワクチンを作れるだけの施設は他にはない。いつか、どの国でも作成ができるようになればよいと思う。

 この件に関しては国王にも許可を得て、多くの国々の王たちにも同意を得て、この世界の全ての人間に開放されることが正式に認められた。


 また、このことに関連して、私もいくつかのレシピを開放した。特に簡単に作れる食品については放棄した。 

 今ではもう他の商品で十分であったこともあるし、このことがこの国以外の国々の食文化の発展への妨げになっているとも感じられていたこともあるが、このリベノという研究者やその弟子たちに心打たれるものがあったからである。


 なお、天然痘のジェンナーも種痘法の特許は放棄して、この技術が普及していけばよいと考えていたようである。



 1年目の終わり頃には狂犬病については領内の人間には知らせていたので、2年目、3年目には少なくない領民がすでに最期を悟って、自ら名乗り出て協力をしたいと言ってきた。その領民たちには共同で開発していた改良ワクチンを投与したり、その副反応を調べたり、通常のポーションを与えて身体に与える影響などを一つひとつデータにしていった。

 そしてその中の半数は生き残り、半数は亡くなった。その一人ひとりに敬意を示し、亡くなった者は丁重にみなで葬った。元々の薬を使って生存率7割であっても、発症すれば助かる見込みはない。



 4年目の終わり頃、ちょうどソーランド領に一時的に戻って来た頃だったが、一人の患者が運び込まれた。アリーシャよりも少しだけ背丈のある茶髪の少女だった。

 ソーランド領のスラム街に偶然入りこんできた犬に追いかけられて手を噛まれていた。すぐに患者としてやってこなかったのは、実入りの良い日雇いの仕事が数日間続いていたからだという。家族には身体の異変を隠していた。


 外界と隔離された鉄格子の部屋で暴れるのを防ぐためにベッドに手足を緩く縛られた少女は、やがて水を怖がる恐水症状、風を怖がる恐風症状が見られ、感覚が過敏になっていった。ここまで発症したら、もう手の施しようがなかった。

 薄暗い部屋の中で身体をぶるぶると震わせ、口元には大量のよだれが溢れてベッドや床を濡らしている。医師や家族をはじめ、私たちはただ見守ることしかできず、唯一できたことは精神を落ち着かせる香をいて痛みを緩和させたくらいである。


 途中、一時的に正気を取り戻し、医師に断って慎重に部屋の中に入っていくと、泣き叫んでいる家族に何か言い、小さくかすれた声で何かをつぶやいている。不明瞭な会話しかできていない。動揺している家族をこれ以上近づけさせないために両腕でしっかりと抑え、耳に意識を集中させると私と一瞬だけ目が合い、「りょ……しゅ……さ……」とだけ言うと意識は途切れ、最期には呼吸困難となって息を引き取った。


 後日、この少女を知っているスラム街の住人に話を聞いたところ、12歳のアリーシャよりも背丈が少しだけあった少女は15歳になる手前だったという。

 両親は数年前に亡くなり、唯一の肉親に8歳の弟がいる。

 仕事をなんでもこなして不満一つ漏らすこともなく、他の子たちにも大人に対しても面倒見の良い子だったのだそうだ。

 弟もよく「姉ちゃん姉ちゃん」といつも少女の手を握って付き従っていた光景が目撃されている。仲の良い姉弟だったようだ。



「まさか、あの子が……。なんてこと……」


 少女のことを知る何人かの講師がいた。

 途切れ途切れになりながらも、姉弟は二人とも小学校に通って読み書きを習っていた。もちろん、授業は別々である。

 中学校にも薦めてもよいほどだったそうだが、少女はそれを断った。私が視察に行った学校に通っていたようだった。

 時折出される給食のプリンが好きだったそうだが、弟にもっと食べさせたいと思って家に持って帰ってすっかりぬるくなったプリンを二人で分け合っていた、思い出したようにそんなことを話すうちに、また一つ、それからまた一つ、その少女のことを悼むように語ってくれた。少女は働きながら、その合間に講師たちにも会っていたようだった。


 折しも、少女が亡くなった10日後に3年かけて行ってきたソーランド領のスラム街の生活環境の改善が一区切りついたところだった。


 時間はかかったがスラム街に近い住民たちを粘り強く説得して、連携して地域一帯をより住みやすいものにしていくために、もはやそこがスラム街だとは思えないような景観にもしていった。

 真冬に外で凍えて過ごすことはなく、夜でも外には灯りがあり、定期的に巡視がなされ、ドジャース商会や他の店が恒常的に人々に仕事を与え、労働への適切な対価を得て、その日暮らしで生きていくのではなく、多少の余裕を持てるだけの生活を保証したものだった。


 それでも、あの少女が苦悶の表情を浮かべながらも私を見ていた時の怯えの色の濃い揺らめく瞳と不規則な息づかいを今でも忘れることができない。


 夜になるとふと考える。あの子は私に何を言いたかったのだろうか。


 もはやその機会は二度とこない。そして、いつかあの子の顔も声も名も私は忘れてしまう日が来るのだろう。



 少女の名はヒルダ、この5年間のソーランド領で発生した狂犬病の最後の犠牲者である。

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