第79話 教育・医療改革〔1〕

 3年前のじゃじゃ馬カトリーナの生誕祭の後、およそ1年をかけて王都の本邸にいろいろな人、物、設備を移してきた。

 もちろん、その間は公爵領と王都を行ったり来たりしていたのだが、研究開発部門や商品工場なども王都に新たに作って、あるいは公爵領では高校建設のことやいくつか破損していた村々の補強工事などを行っていた。


 食中毒が大幅に減ったというのは知られていたが、他にも熱中症や脱水症など、多くの人々にとってなぜか体調が悪くなる現象についての情報公開とその対策もいくつか共有されるようになっていった。

 まさかこの世界でも「水を飲むな」という、昭和の人間なら一度は耳にした言葉を聞くとは思わなかった。王宮の兵たちが演習中にそんなことを言っていた。私は隠れてがぶがぶ飲んでいた。


 このあたりは医学研究者のアーノルドたち医療班の働きがあった。冗談で作った人体模型や骨格標本など、そういうのを学校に置いたこともあった。当然怖がる子もいた。


 小学校、中学校は年々数が増えていったが、高校は新設したばかりである。

 結局、小学校と中学校を教えられる教員養成のコースがメインとなり、あとはそれぞれの研究者たちが講師となって、将来的に自分たちの研究に従事する人間を育成する、そういうコースもある。


 へき地の、ソーランド公爵領でも学校からの距離が遠い村々には、その村々から希望する何人かの子どもたちを学校近くに住まわせ、3年間ないし4年間程度の教育を受けさせることにした。他の子どもたちが午前か午後の半日だったのに対し、この子どもたちは丸一日学習がある。


 こういう子どもたちの場合にはその後に故郷に戻って、各自が習ってきたことを村々で広めさせる、そういう約束の下で、こちらが子どもの労働力分は貸与ではなく給付型の奨学金制度のようなものを作って、各世帯の負担を減らした。一時的に帰郷する場合にもこちらが負担した。寂しくないように、一人だけではなく二人以上にしたが、そうならなかった村もある。


 もちろん、その子たちのすべてが将来的に村に帰っていわば知識人として活躍するかは未定だが、これは賭けというよりは信じるしかない。未来への投資である。

 村々にもいろいろな書物や広告、文字情報などが行き渡っていったり、学校の講師を派遣したりするとまた変わっていくかもしれない。


 また、とある件がきっかけとなって未成年のみの世帯には、同じ家に住まないまでも必ず成人が目をかけるという制度を作った。



 高校段階ではもはや読み書き算盤のレベルではない。

 だから、生半可な講師では務まらないのでそういう講師を探したり、育成したりしていた。

 それに加えて高校用の教科書も作ることになった。しかも分野が広い。


 ここにはカーティスが通っていたバラード学園の講義内容であったり、他の講師が持っている知識などを参照しながら、無難なものを何冊か作っていった。

 もちろん、まだこの世界では明らかにされていないものもいくつかあってそういうのは教科書にはあまり載せられないので、授業中に話をすることはある。

 教科書には、証明はされていないけど、そういう現象や事実がある、というものなどはいくつか載せている。そこに「なぜか?」という好奇心を抱く子もいるだろう。


 教科書には授業をすることが前提のものと自学用のものがある。

 前者では内容は簡潔で、講師が授業で解説や補足説明をする。だからそこまで厚いものではない。

 後者の自学用は分厚い。


 これはどうなるかなと思ったが、一つの試みとしてドジャース商会を通じていくつかの自学用の教科書を出版した。実際には学校で使うものよりもう少し詳しい説明がなされていて、一般読者向けにかなりかみ砕いているものだった。

 それらの教科書が早熟の貴族の子弟の需要と合致したり、隣のカラルド国や他国でもなかなか好評だった。


 このことは、どういう教育内容を共通のものとするのか、こういう問題を提供することにもつながっていった。

 すなわち、各講師が自由に話をするのではなく、何を核とするのかであったり学問の体系性の問題である。一つひとつの断片をつなぐと一つの大きな体系となる。そういう話題の提供である。


 大げさに比喩的にいうと、微分方程式はわかるのにかけ算ができない、化学反応式はわかるのに元素記号を知らない、という学問知の謎の飛躍と省略がこの世界にはある。

 おそらくその間隙かんげきをヒロインが埋めていって、了解した研究者たちが爆発的に成長して生まれていった、そうなんだろうと思う。


 また、ある教科書ではアーノルドたちによる人体の仕組み、止血や人工呼吸の方法、怪我の治療、雑菌や腐敗、消毒の考えや加熱殺菌法、アレルギーを引き起こすアレルゲンの特定、そういうものを載せたり、土研究者のレイトたちによる土壌改善や土と植物、土と日光、土と塩分など、農業に関わるもので生活に密接に関わるものもある。



 とりわけ、アーノルドたちの主張したことで多くの人々からの反響が大きかったのは指紋の存在や指紋が人それぞれ違うということを知った時だった。これは意外だった。

 おそらく身近な身体の謎だからこそ、反応もあったのだろう。


 アーノルドたちは指紋鑑定ができるように、それは将来的に犯罪捜査に役立てることができるように研究を急ピッチで進めて、現在では簡易的な指紋採取もできるようになっている。

 だから、学校で「悪さをしてもわかるんだからな」と講師が言うと、子どもたちもええーという反応だったそうだ。

 

 この指紋鑑定は他国でも追試され、その信憑性も概ね妥当であり、窃盗や殺人事件の際に利用されるようになった。

 まだ導入したばかりであり、むやみやたらに信じるのではなく冤罪えんざいの可能性をまず疑うことを条件に協力をしていたが、そのうちに各国からその手法を学びたいと願う者たちが出てきて、多国から構成される科学捜査研究所の創業となった。その研究費や維持費もソーランド公爵家から出されるわけではなく、多くの国から支援を受けている。そういうドラマを見ていた私には少しだけ嬉しいことだった。


 この世界には裁判というものがあるが、どうやら物的証拠が杜撰というか、明らかに後付けであり、おそらく数多くの冤罪があったのではないかと思わせる案件があった。この手法が少しでも犯罪捜査をねじ曲げないようにすることを一つの目標としている。



 なお、アーノルドたちは「死とは何を意味するか?」という問いに対して一定の答えを用意していた。

 従来の魂と肉体との関係、つまり魂が抜け落ちると死ぬという理解がこの世界にはある。

 アーノルドたちはこの理解は全てではないという確信を得ていた。

 というより、魂と肉体との関係は明らかに間違っていると考えていたが、そういうものについては各方面への配慮から教科書などには載せていない。


 ただ、私は最近では自分の身に起きたことを考えると魂というものの存在を強く否定できるものではないなと思うようになってきている。

 たとえば、マナポーションもそうだが、魔法の素が人体のどこに集積されているのかがわからない。回復ポーションだってなぜ傷が治るのかも実際のところ不明である。

 精霊と契約をした身体とそうではない身体というのも魂の存在に干渉しているかどうかではないかとも感じる。

 だから、この世界では魂のような概念を採用した方が、もしかすると合理的に説明ができることが多いのではないかと思う。


 こういう理由もあって、1年目の頃に雇わなかった神秘主義に傾倒したりそれに関わっていた研究者たちにも声をかけて、一定の資金と場所を提供して研究をしてもらっている。

 この研究者たちの中には魂や契約とは何かを考えている人間もいる。理解されないことを嘆いていたのか、非常に感謝をされた。少し性格に問題はありそうだが、根はいい人ばかりである。

 この世界ではこのような研究者にしか見出せない真理もあるのかもしれない。


 さて、市販用の本には、「15歳からの~」とか「本当は知らない~」とか「知らないと恥をかく~」のような広告文やキャッチコピーを入れている。読者の見栄やプライドを刺激する表現である。


 こうした試みは、それまで知というものがある種の特権階級の人間だけが享受していたという偏差に修正を加えて、中流階層にまで広げていくことになった。


 もちろん、出せばいいわけではなく、幾度にわたって専門家会議が開かれ、文言の一つひとつに誤解をする表現はないか、事実誤認がないか、そういうことをダブル、トリプルチェック、しかもその場合も他の人間の目を通し、さらに違う分野の人間にも読ませて、うまく理解ができるか、解釈の異同はないか、そして誤字脱字チェックが完了して、初めて刊行ができた。


 それでも読者から誤字や脱字、表現の不明瞭さの指摘があるのだから、完璧な本を作るというのは難しいことだ。この市販の教科書は適宜増補改訂をしている。

 「増補」はともかく「改訂」というのはあまり馴染みのないものだったようで、初版と同じ版を用いる「増刷」、一部内容を変更する「重版」、全面的に変更を加えたリニューアルの「改訂」とあるが、いつの段階で出版されたのかがわかるように、はっきりと奥付おくづけを明記している。


 この市販用教科書が王都の国王の耳にも入り、バラード学園の教育にも修正が加わることになり、この世界のさまざまな研究分野である程度の体系性が作られていき、それは他国にも波及していった。

 おそらくこの流れの中でカーティスが学園に求められていた、という事情があるように推測している。

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