第66話 田中哲朗の仕事〔2〕
私は大学院まで進み、その後コスメティック・サイエンス、つまり化粧品、美容品関連の商品開発を主として担って働いてきた。
0.01%でも成分が違えば全く異なる効果になる。その事実は当時の私にはとても魅力的で魅惑的なもののように思われた。
コスメ、この化粧品を意味するcosmeticsという言葉は、ギリシャ語で「秩序」や「調和」を意味するコスモス〔kosmos〕に由来すると聞き、コスモスの対義語がカオス〔chaos〕であり、まさに無秩序から一つの小さな宇宙を作り上げる、そう意気込んでいたのは私がまだ若かったからなのだろう。
顧客の要望や上からの希望、そういうものと実際の製品作りとの間には語りきれないほどで、数々のドラマが小さいけれども、あった。
今にして思うと会社のことよりは商品開発や好きなことばかりを考えており、一般的なビジネスマンとしての素養を大きく欠いていたのだと思う。
ここ数年で知ったビジネス用語やマナーも多くなったが、この世界の人間のように知識に穴が多いのか、同期の人間には「昔使ってた」と言われても思い出せなかったし、「田中さん、それみんな知ってます」とこっそり教えてくれる心優しい部下たちもいた。「その言葉は私でも知ってる」と妻にも何度か注意されて呆れられた。
そんな私は50を過ぎてから突如として人を管理する立場になった。
だが、それは思いも寄らなかったし、研究開発員としての自分のこれまでが否定されたように思ったこともあった。
妻に愚痴をこぼしたこともあった。
「あなたはあなたじゃない」と言って慰めてくれた。
「新しい自分を発見できるかもよ?」とも言ってくれたこともあった。
なんだか就活指導をされているように思えたが、「今を今として生きよう」と言われているような気がした。
最初は何をするのが正解なのかがわからず、営業や経理、総務などいろいろな立場の人間に頭を下げてまで訊いて情報を集めてきたり、他業種の運営や仕組みについて幅広く学び始めた。
ようやく一開発者では考えることのなかった、会社がどのような仕組みで機能しているのかを考えるようになった。
そしてそこで働く社員、経営陣、顧客、他社の人々の心理や哲学を感じ、私がやるべき仕事とは何かという核心に触れるようになった気がする。
さらに、人は美とどう関わってきたのか、匂いや色とは人間にとってどんな意味があるのか、なぜ女性だけに化粧が求められてきたのか、そしてどうして男性にも化粧の需要が増えてきたのか、ジェンダーを超えた、あるいはどちらにもまたがるような中性的なアイドルが出現したのは社会のどのような変化に起因するのか、その影響はどうこれからを変えていくのか、そしてそれらの問いを含めて「人はなぜ化粧をするのか」、そのような社会的、文化的、心理的、哲学的意味や意義も考えることが多くなってきた。
そうして、どうやらこういうことを考えてきた人たちも過去にいたことがわかり、より広く学ぶことを覚えたし、妻からもいくつかの本を薦められた。
結局、「人とは何であったのか」という過去の叡智にアクセスし、「人とは何でありうるのか」という可変的な人間の未来について想像し、集約された「人とは何か」という、短いのに相当厄介な問いに50代半ばにして思い至った。
それが私にとって幸福な問いや人生なのかどうかは判断ができないが、ポストが人を育てるとはそういう意味なのだと思う。
人間には
しかし、全てにそつなくほぼ完璧にこなせて、私よりも若くて優秀なエリート社員もいる。これは謙遜でもなんでもなくて、私はそういうエリートとは無縁である。
それでも私には私にできることしかできないし、そんな私にあの時ポストを与えた経営陣には何らかの判断があったからだと思うようにした。何か文句や失態があったら、上から注意されるだろう、と。
幸いなことに、同僚や部下にも恵まれ、私が若い時にいたとんでもないハラスメントの塊の上司もいない。そういう人間はどんどん定年を迎えて去り、今時旧態依然の社風は問題視されるので確実に少なくなっていった。
そんな私が現在は公爵となって領地を運営していると妻や娘が訊いたら、どういう反応をするだろうか。きっと二人とも呆れはてて笑うのだろう、そんな光景が目に浮かぶ。
「……バカラ様?」
「あ、いえ、失礼しました。まあ、そうですね、人ですね。人から学んだ、それに尽きると思います」
「人、ですか……」
どこか要領を得ない表情のクラウド王子とボーリアル宰相だったが、カーティスだけは静かに納得をしているように見えた。
こうして二次会は無事に終わった。
翌日、クラウド王子たちとともに王城に行き、国王と会談の場を設けることになった。
単なる挨拶だけではなく、何やらかの政治的な取り引きのような話があるのだろう、詳しい話は訊けなかった。
再度、マリア王妃とカトリーナ王女、アベル王子たちとも話があったらしく、関係を密なものにしていたようだ。
それから、カラルド国に戻って行くことになるが、カラルド国に戻るにはソーランド公爵領を通ることになる。
だから、私も一緒にカーティスとアリーシャを引き連れて、ソーランド領に戻り、いくらかの手土産を渡して、カラルド国一行はすっかり満足して帰って行った。
ソーランド公爵領とカラルド国との距離の近さもあり、今後とも深い付き合いをしていくことを互いに堅く約束した。
その数日後、カトリーナ王女とクラウド王子との婚約の発表が国内中に知れ渡った。
そして、3年の年月が流れた。
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