第55話 カレン先生の物語〔2〕
先生の話には続きがある。
どうして、亡くなったその先生のいきさつをカレン先生が知っているのか、そのことに想像を及ぼすべきであり、あらゆる場所を奪われた人間がどういう心理になるのかを私は考えるべきだった。
何よりも普段見ている人の心や記憶に、簡単に踏み込まない方が良かった。
「先生は最後に、私や何人かの教え子たちに手紙を残していたんです。おそらく、亡くなる数か月前くらいに書かれたんじゃないかと思います。厳封され、それぞれに名前が書かれてあったそうです。心優しい方が、その手紙の宛名の一人に連絡をつけ、しばらく経ってから私のもとに届きました。そこにはあの先生からは想像もつかないほどに乱れた字で書かれていました。書き殴ったと言った方がいいかもしれません」
話は淡々と続いていく。
「『こんなはずじゃなかった』とか『なぜ私がこんな目に遭わなければいけないのか』『貴族様に逆らうんじゃなかった』『こんなことならお前たちの世話など引き受けるんじゃなかった』……先生が晩年に溜め込んでいた私たちへの怨みつらみが、それこそ隙間もないほどに、縦に横に、その余白にまで書かれて、しかも文の上からさらに重ねるように、思いついたことを、思い出した恨みを、その一つひとつが書かれてあったんです」
「…………」
「そして、解雇の直接の原因である私の手紙には『お前を許さない』と、それこそ血のようなインクで書かれてありました。こちらです」
先生は大切に保存されてきた手紙を慎重に取り出して広げ、私に見せてきた。
言葉の通り、みっちりと書かれている。
手紙には学園を去ってからの生活や、嫌がらせなどへの思いの丈が
その一つひとつが同じような大きさや形の字ではなく、大きい字、小さい字、ふにゃふにゃの字、力強い字、いろいろとある。判読できないものもある。
一番に目を引く赤い文字がある。これは呪いだと思った。
「ああ、なんて愚かだったのかと思いました。先生はもう70近く、元々先生は身寄りもなく、そして再就職の道も望めない、少なくともあのような嫌がらせが学園を去った後も続く可能性を、もっと私は深刻に受け止めるべきでした。あの人間たちが思いつきのように人を踏みにじることなど、日常茶飯事だったんですから。それなのに、私は
年齢のことを考えると、そして晩年に起きていた数々の出来事を考えると、もはや正気を保っていたとはいえない。そんなこともあるのかもしれない。ただ、それは何の慰みにもならないし、してはいけない。
「今でも考えているんです。先生が通知書を私に見せた時におっしゃった言葉は、あの時は先生の本心だったのかどうか。今となってはもう誰にもわかりませんが……。情けない話ですが、その手紙を受け取った日から、ただ生きている、生きていくために生きていっていました。どうでもいいという感情に呑まれそうなこともありました……それでも不思議ですね、生きていたいと思えてしまった。家にはもう戻れませんから生活するためには稼がなければならない、稼ぐためには噂や評判にならなければならない、でも評判になったら嫌がらせがやってくるかもしれない、もちろん当時は違う国にいましたけど、いつ何があるかわからない、そんなことに怯える日々を送っていました……」
カレン先生が伏し目がちだった顔を再び上げる。
「でも……」
先生が深呼吸をして、言った。
「バカラ様が私を見つけてくださって、『私のところへ来い』とおっしゃってくださった。まさか、公爵様からお話があるとは夢にも思いませんでした。ですが、もしかしたら何かの
そう言うと、カレン先生は私に深く、長い礼をした。この礼は私が受け取るべきものではない。
「……もしかしたら、その先生もカレン先生や他の人たちと出会った時にはそう思ったのではないですか?」
「えっ?」
腐った学園の中で、その先生は講師として多分に苦悩や葛藤や焦燥感などがあったのだろうと思う。
強く出ることもできず、特別に何か目立ったことをしたら叩かれる、そんな日々を長年過ごしてきたのだろう。いったい自分は何のためにここにいるのか、その目的も半ばどうでもよくなりかけていた時に、カレン先生や他の子に出会えた。だから、もう一度頑張ろうと思った。頑張れると思えた。そうしてひっそりと支援を続けていった。
「カレン先生に向かって言った時の先生の言葉は、やはり本心だったのではないでしょうか……もちろん、その手紙の言葉も重い真実だと思いますが」
二つを合わせると矛盾する。だが、その時その時に発した言葉が真実ではないと誰がいえるだろうか。整合性などそこに介在する余地はない。
「……そう、だといいですが、今はもう、自分を慰めるくらいしかできませんし……いいえ、違いますね、どうあったとしても、私はあの時の自分を、許すつもりはないんです」
そう強く言い切ったカレン先生の目の光も強い、ように見える。
ゲームの世界の全ての一人ひとりには、こうした過去の重みと影がある。
私には何冊かの愛読書があるが、きっとカレン先生と同じように、主人公と会話をすることもなく接点もなくただ情景描写として存在していた人たちがいたことを思い浮かべる。
小説の中には、それぞれ人々が「私は」と発して生きる主人公としての物語が、その小説の世界にその数だけ内包されている。それらは語られないし、読むこともできないが、それでもわずか一文の中にしか語られなかった「男」や「女」という名詞のたった一語にもカレン先生と同価の顔があるし、一語さえも語られずに背景となっている人々にも、きっとある。
そして、小説が閉じられてもそれらの人々の物語は終わらずに続いていく。
そのことに気づいた読者は小説世界からそれらの人々の物語を想像して見出して丁寧にすくい取って、さらに他者との語らいの中でそれらの人々は息吹を与えられて生かされ続けていく。物語るとはそういう行為だ。
おそらく一枚の絵にも描かれなかったであろうカレン先生は、きっと解消されることのない心の傷を、呪いを持ち続けることを使命としている。病みながら、それでも生きていく、そういう生を選び取ったまさしく一人の人間である。
「話していただいて、ありがとうございます」
そう言って、手紙を返した。
カレン先生の
カレン先生は気づいているのだろうか―――この国の言語ではない言葉で手紙の端に小さく「すまない」という一語が書かれてあったことを。
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