第2話 田中哲朗という人間

 話は3日前に戻る。


 私、田中たなか哲朗てつおは日本で働く会社員だった。長年勤務していた会社も定年に近づいている年齢だった。


 新入社員の育成にも関わり、よく会議室で昼食を食べながらざっくばらんに他愛のない話をしていたものだった。

 若い子たちの今を知りたいという思いもあったため、ここでは堅苦しいことは抜きにしようと言っていた。毎日ではなく週に1回くらいできればいい、みんなが参加しなくてもいい、その程度のものだ。


 もちろん、こんなことを私の立場で言えば、部下は勝手に忖度そんたくして「これは断れない」と感じるであろうことくらいはわかっている。そのことも伝えた。


 いや、待てよ。こういうのもハラスメントになるのか? 「と、田中さんは言ったけど、やっぱり断ってはいけないのだ」と思う可能性もあるわけか。ずいぶんとややこしいな。


 ハラスメントをする人間はそれをハラスメントだと思わないものだ。ハラスメント研修でもよく言われる。

 もしかしたら、私もそうなのかもしれない。せめてもの自戒として、そのことは心の隅に置いておきたい。


 しかし、嬉しいことに部下たちからはそういう雰囲気は見られない。むしろ、こうした会議室の方が大声で話すこともできる。

 私にも多少は見る目くらいあるつもりだ。それでもフィルターがかかっているのかもわからないが、とりあえずぽつぽつとみんな参加して、世間話などをすることがあった。

 あまり効果はないが、この時ばかりはネクタイくらいは少しゆるめる。


 自分はもう終わりの見えている年代だ、せめて若手を育て上げておきたいと思う。そんな若手にも良い職場環境にしたいと切に思っていた。


「川上さんは何をやってるんだ?」


 川上さんは入社して2年目だが、私から見ても将来有望の優秀な人間だった。

 その川上さんはすぐに食べ終えると、いつもスマホに意識を集中させている。仕事中はバリバリ働くが、休憩中はこうだ。それでも毎回参加してくれている。


 ただ、会話は聞いているらしくて、話しかけたら答えてくれる。器用な子なんだろう。

 まあ、気晴らしになるなら何の問題もないし、特段不快にも思わない。

 しかし、そんなに熱心に何をしているのだろうか?


「あ、これ、今流行ってるゲームなんですよ!」


 待ってましたと言わんばかりにぱっと明るい表情をした彼女は、それから『流麗なるなんとかかんとかの王国』というタイトルを述べ、かいつまんで物語の舞台や内容を教えてくれた。

 川上さんはもしかしたらこの話を誰かと共有したかったのかもしれないな。



 日本の高校生がゲームをしていたら、突如としてそのゲームの中のヒロインになってしまい、その世界で生活していくという話だった。

 その、なんとか王国の住人となって、恋にバトルに勉強に励んで、最後には幸せを獲得するのだという。

 主人公のヒロインは地球にある技術や知識を利用して、王国を豊かにしていくらしい。

 王国に限らず、その世界は文明や科学技術が発達しているというわけではなく、ヒロインのもたらした21世紀の科学技術で急速に発展していく。


 たとえば、石けん一つでいろんな問題が解決するのだというのだから、なんとも楽なものだ。

 その様子は他国からも羨望せんぼうの眼差しで見られ、王国はその大陸一の国として席巻、君臨していく、そんな話だ。



 好きなものを好きなように話す人は好ましく思う。

 川上さんもそうだった。こういう熱量が仕事にもきっと関係があるのだろう。

 ただし、内容はほとんど私の理解を超えている。


「悪役令嬢に婚約破棄? なんだか物騒だな。ときめきなんとかってゲームみたいなものか」


 ヒロインをいじめる悪役の令嬢がパーティーで婚約破棄の宣言されるのだという。

 どういう理由があるのか知らないが、そんな世間体が気になる行いをするなんて、まずまともな感覚じゃない。


 もし若い時に妻にそんな場所でそんな宣言をしたとしたら、それは仮に妻の不貞行為があったとしても、一族いちぞく郎党ろうどうからそっぽを向かれてしまい、会社でだって立場がなくなるというものだ。


 会社のイベントや重要な会議や社交の場で「お前とは婚約を解消する」なんてことを言い出す人間がいたら良識を疑うし、同僚や部下がそんなことをしたら厳しく問い詰めるだろう。

 想像するだけでも馬鹿馬鹿しいほどに恐ろしい。


 私の言葉を聞いた40代の山本くんが笑いながら言った。


「田中さん、それは古いですよ。最近のはもっとドロドロと屈折しているらしいですよ」


 そうか、山本くん世代から見ても私の古いゲーム情報なんて、もはや考古学の対象か。


 ゲームといったらピコピコくらいしか思い浮かばない。ケータイだってパカパカだ。髪の毛も歯間もギャグのセンスもスカスカで、ただしお腹はポコポコではない。

 ときめきなんとかなんて、よく知りも知らずに話題にするなんて、若い子たちを前に背伸びをし過ぎてしまったな、つっこまれるわけだ。


 そうだな、婚約破棄なんてものもヒロインを輝かせる踏み台のようなものなんだろう。その輝きに目を奪われ、踏まれている者には目は行き届かない、そういうことなんだろうな。


 昔いた上司が、口だけ出して提案もせず、しかし部下達と頑張って成果を出したが、結局褒められて高評価だったのはその上司だったことがあった。部下達と静かに慰め合ったものだった。


 ところで、川上さんよりは年上の娘も、リビングでスマホを操作しているが、そういうものをやっているのだろうか。


 しかし、聞けば聞くほどその王国の運営は大丈夫かと心配になる。


「リスク管理が甘いんじゃないか? それに婚約破棄なんて、そんな大勢の前でするもんじゃないだろう? 外聞が悪いというか」

「まあゲームですからね。そこらへんはガバガバ設定ですよ。いやー、田中さんは理解があって嬉しいです。うちの父なんて『ゲームなどくだらん!』っていっつも渋った顔してきますから」


 「今の田中さんの発言に対しては、私たち世代だったら『真面目か!』ってつっこむんですよ」と川上さんはわざわざ教えてくれた。そうか、私は真面目か。いや、真面目か!


 そうだな、30年以上の年の差があるんだ。

 若い子たちのやることには理解はできんことも多いが、それもいいだろうと思っている。

 会社にも新しい風が必要だ。風通しの悪い職場ほど息苦しいものはない。

 若者たちに無理に迎合げいごうする気はないが、だいぶ私も人生の守りに入ってきたのかもしれない。


 石けんで席巻かと、ふっとつまらん冗談に笑いが出てきてしまった。だから私はスカスカなんだ。口に出してもみんな笑ってはくれないだろう。黙ったままにしておこう。


 そういえば手柄を横取りした元上司は、その後不倫がバレて、横領の事実も分かってすぐにいなくなった。因果応報とは、この人にこそふさわしい言葉だ。

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