第57話
俺は今、人生で初めて胸ぐらを掴まれている。
冷や冷やしながら登校したところ、俺の顔を見つけた津崎が鬼の形相で近づいてきて、抵抗する間もなくひと通りの少ない踊り場に連行された。
「おらァ、どういうことだよ答えろや九澄ィ!」
まあ。
薄々こうなることは予感していたのだが。
だから今日は学校に来たくなかったのだが、そんな理由でサボる度胸もやく渋々登校した。
先週の金曜日。
うちのクラスに転校生がやって来た。
CutieKissの久那小春だ。
驚きはしたものの別に関わることもないかと油断していたところ、放課後に話しかけられた。
しかも、あろうことかお話しようなんてお誘いをクラスメイトの前でしてきたのだから、ガチファンからすれば激昂案件だろう。
津崎は誰もが知るCutieKissガチ勢だからな。
「いや、えっと」
なんと答えろというのだ。
津崎は中でも詩乃のことを推していたような気がする。よく覚えていないけど好きなのは確かだろう。
そんな津崎にすべてを嘘偽りなく話そうものならいよいよ拳が飛んでくる。
かといってこの場を丸く収める言い訳が思いつくほど頭の回転は良くない。
「なんでお前みたいな陰キャが小春ちゃんと一緒に帰ってンだよ! オオ!?」
「だから、それは」
ぐわんぐわんと体を揺らされる。殴ってこないところ、まだ彼の中には冷静な感情も残っているのだろう。
しかし、それもいつまでもは続かない。俺の沈黙を煽りと捉えたのか徐々に彼の苛立ちは募っていく。
「黙ってりゃ終わると思ってンのかクソ陰キャがッ!」
声が荒くなる。
ああ、そろそろ手が出るかなーと嫌な予感を覚えた頃。
「どしたの?」
と。
声をかけられる。
朝っぱらからこんなところを通る生徒なんてまずいない。つまり、その声の主は意思を持ってここに来たということだ。
俺は驚く。
津崎も振り返り、言葉を失う。
「朝からそんなハイカロリーなことしてると昼まで持たないよ。えっと、そうそう、津崎くん」
久那小春。
元を辿ればこの状況の元凶たる人物が救世主として現れた。
先日は髪を下ろしていたので学校ではアイドルモードと差別化するつもりなのかと勝手に思っていたが、今日はしっかりツインテールだ。
「こ、ここ、こは……久那さん」
こいつ、意外にチキンなんだな。
と、津崎の視線があちらに向いていることをいいことに俺は半眼を彼に向けた。
「なにをそんなに怒ってるのかな?」
「いや、久那さんとコイツがどういう関係なのか訊いてたんだよ。この前ほら、一緒に帰ってたから」
津崎が言うと、久那さんは「ああ!」と納得したような顔をする。
頼むから余計なことは言わないでくれよ。
「違うよ。別に津崎くんが思っているような関係ではないよ。ただ、他の人と比べるとトクベツなのは確かかな」
待て待て。
余計なことはマジで言うな。
俺と詩乃の関係をバラせばマジで殺されるから!
「トクベツな、関係?」
恐る恐る津崎が尋ねる。
「あたしと九澄くんは従兄妹なのだよ!」
ババン! というような効果音が出てそうな勢いで、久那さんは堂々と嘘をつく。
「い、いとこ……?」
「そそ。それだけだよ。津崎くんだって転校先にいとこがいたら話しかけるでしょ?」
「そりゃ、まあ」
「ね? だから、あんまりハルくんをイジメないであげて?」
久那さんはにこりと笑う。
その笑顔に負け、俺の胸ぐらを掴んでいた津崎の手から力が抜ける。
「クソ。なら最初からそう言えよカスが」
口悪。
久那さんには聞こえないように小声で吐き捨てた津崎はそのままどこかへ消えていった。
「大丈夫だった?」
「まあ、かろうじて」
俺はくしゃくしゃになった胸元を正しながら答える。それを見た久那さんは申し訳無さそうに笑う。
「ごめんね。ちょっと考えなしだったかも。まさかあそこまでの熱烈なファンがいるとは」
「大人気アイドルだってことをもう少し自覚するべきかもな。まあ、結果的に何事もなかったからいいけどさ」
というか、と俺は改めて久那さんを向き直る。
「よくあんな嘘を信じたな。津崎は」
「信じるしかなかったんじゃないかな」
淡々と言う久那さん。
「まず第一に恋人であってほしくないという気持ちがある。次に恋人になる可能性がないことを願っている。そこに分かりやすくその条件を満たす理由があれば縋る思いで信じるでしょ」
「え、こっわ」
それを分かっていながらあんなこと言ったのかと思うと恐ろしくて仕方ない。
「芸能界にいるとこういう術を身につけないとやっていけないんだよ」
「えー、こっわ」
芸能界怖いな。
テレビで見る楽しげな印象だけでいいのに、当事者から言われると嫌なリアリティがある。
「それにしてもいとこってのはどうなのさ」
「おかげで助かったんだからいいでしょ。十中八九噂は広まるだろうから大変だね」
「パパラッチとかごめんだぞ?」
「そのときは適当にあしらうよ。なんなら嘘ですよって白状するだけさ」
「それで済めばいいけど」
「ま、そういうわけだし当分の間は従兄妹的な演技を楽しもうよ。ハルくん」
「そう言われても」
ていうか、ナチュラルにハルくんって呼ばれてるんだけど。
多分、いとこっぽい呼び方を考えて咄嗟に思いついただけなんだろうけど。
「あたしのことは、そうだなー、ハルちゃんとでも呼んでもらおうか?」
「ハル被りはややこしくない?」
「じゃあ小春って呼ぶ?」
「……それもちょっと」
なんかまた拉致されそうな気がする。
「こはちゃんでいこうか?」
「もうなんでもいいや」
きっと、平穏な生活はもう戻ってこないのだろう。
久那小春という突然の来訪者により俺の日常は見事にぶっ壊された。
さらに言うと、今からおよそ一ヶ月後に俺の日常はさらなる崩壊を迎えることになるのだが、それはもう少しだけ先のことだ。
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