第8話:ある朝、突然




「もう、良いです。アレク様」

 サファイアが、婚約者であるアレキサンダーの腕に、そっと触れて下ろさせた。

 それに合わせるように、壁に貼り付いていた獣人も床へとずり落ちる。

「もう、良いのです。帰りましょう」

 サファイアは淋しげに微笑んだ。


 アレキサンダーは立ち上がると、サファイアの肩を抱き部屋を出て行った。

 壁の獣人へも、土下座している宰相にも、一瞥いちべつもくれなかった。



 屋敷内からアレキサンダーの気配が一切なくなると、宰相はやっと体を起こし、体勢を崩した。

 壁際に落ちている息子に目をやる。

 辛うじてではあるが、生きているようだった。

 生命力が強く回復も早い獣人ならば、1ヶ月もせずに完治するだろう。


「交易は無いし、不可侵条約も交わされている。魔人が攻めて来る事は無いはずだ」

 宰相は、自分に確認するように、声に出して何度も「大丈夫」と呟いた。


 翌日、出勤した宰相を迎えたのは、いつもと何ら変わりない大臣達だった。

 部下の様子も変わりない。

 サファイアから【番詐欺】の訴えがあるかと思ったが、それも無かった。

 もしも訴えがあったら、さすがに今回はちゃんと対応しようと思っていたが、何も無いのを良い事に、何も【番詐欺】の対策をしなかった。



 それから暫くは警戒していた宰相だったが、1ヶ月も経つと全てが元通りだった。

【番詐欺】の訴えはまだ無くならないが、が相手なので、今まで通りに放置したのだ。


 本当なら、人間などという下等生物は、全員獣人の奴隷でも良いくらいだ。

 爵位が上の人間ほど、その考えが強かった。


 人間の待遇改善を訴える訴状も、全て握り潰していた。

 人間はどれだけ功績を残しても、伯爵位以上にはなれないし、政界では末端がいいところで、直接まつりごとに関わる事は出来ない。

 それが人間には相応しい、と。

 そんな頃だった。大陸の人間全員に、不思議な手紙が届いたのは。


 結局国は、人間達の狂言だと放置した。




 魔王が現れて3ヶ月が経過した。

 もっとも、現れた事を知っているのは宰相だけだったが……。

 ここで隠蔽などせず国に報告していれば、人間に対する国の対応も変わっていたかもしれない。

 そうすれば、獣人が見捨てられる事も無かったかもしれない。


 全てが仮定であり、無駄な事だった。


 ある朝、大陸中から人間が消えていた。

 1割弱ほどは残っていたが、それは獣人に媚を売っていて甘い汁吸っていた者か、犯罪者だった。



「うちの使用人が逃げた!」

「従業員が全員消えた」

「明日納品する布が織れない」

「調理する人間が居ないから、店が開けられない」

「頼んでいた商品を納品しないで消えやがった」


 いつもなら国に苦情を訴えるのは殆どが人間だったが、この日だけは獣人ばかりだった。

 そしていつも通り、国は何もしなかった。

 いや、出来なかった。

 なにせ訴えられた側の人間が、誰一人居なかったから。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る