第2話 中編

「ここは……?」

 

 高く、薄暗い天井が目に映った。重厚な色合いをした木のはりが、暗闇と溶け合うように交差していた。見慣れない天井を見上げながら、ボクは目を覚ました。ぶあつい布団のなかで寝ていたみたいだ。

 畳の敷かれた純和風といったおもむきの部屋だった。部屋のなかは薄暗い。片隅にある行灯あんどんが、障子紙を透かして淡い光を生んでいた。


 宿の部屋か、とも思ったけれど、いつどうやって宿に着いたのだったか思い出せなかった。

 それどころか、眠りにつくまえの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 寝起きということを差し引いても、ひどく頭がぼんやりした。

 深酔いしたあとのような前後不覚の状態だ。けど、二日酔いのときのような不快感はなかった。

 内容は忘れてしまったけど、なんとなく良い夢を見たあと、その夢の余韻にひたっているような、そんな心地が近いかもしれない。


 ふと、衣服の感触が心もとないような気がして、両手で体を触ってみる。木綿もめんのような、さらさらとした触感がかえってきた。布団を上半身の分だけはねのけて見てみると、上下一体になった浅黄あさぎ色の浴衣を着ていた。たぶん夏用の薄手の浴衣で、布団をのけると少し肌寒かった。

 それもいつ身に着けたものか、まったく覚えていない。


「あら、お目覚めになられたのですね」


 不意に、柔らかな声が横合いから聞こえた。ふんわりとまどろむような独特のイントネーションをした、女の人の声だった。

 布団のうえで上体を起こして、声のしたほうを向く。

 部屋の入り口近くに、白い小袖と藍色の長袴という巫女装束姿の女性が座っていた。

 後ろ手に一つに結んだ髪が、つややかに目に映る。


「……めづる?」


 それが誰であったか脳が思いだすよりもはやく、口が勝手に名前を呼んでいた。


「はい、めづるでございます。旅人様」


 ふんわりとした微笑を浮かべ、彼女は軽く頭を下げた。


「ボクはいったい……?」

「ああ、どうかそのままで」


 めづるさんはボクが起き上がろうとするのを、やんわりと手ぶりで制した。

 そのまま膝を寄せ、布団のそばまでやってくる。ふんわりと良い匂いが鼻孔をくすぐった。

 その甘い匂いが記憶のどこかを刺激する。

 けど、ボクがなにかを思い出すよりも早く、彼女はボクの後ろに回りこんで、肩を抱いた。

 少し力を込めて抱き寄せられ、ボクはその柔らかな胸に背を預ける格好になった。


「えっと……?」


 首を回して、目線で問いかける。

 けど、彼女はボクの髪に頭をうずめて身を寄せ、なにも答えなかった。

 首周りにからむ彼女の腕は、小袖の感触越しにもひんやりとして感じられた。


「やはり……、だいぶ気枯けがれがすすんでしまっていますね」


 めづるさんの指が、なにかを探るようにボクの肩から胸のほうへと滑る。そして、左胸にぴたりとてのひらを押し当て、止まった。そのまま、ボクの心臓の鼓動を読み取るみたいに動かなくなった。

 きっとボクの鼓動はいま、平時よりも早く脈打っているだろう。


「ケガレ? ボクの身体が汚れているっていうこと?」

「いいえ、そうではありません」


 ふりむかなくても、声の調子だけで彼女が微笑んだのがわかった。


「心にたまったあか、とでも申しましょうか。……もっとも、お身体のほうもだいぶお疲れのご様子です。このおやしろには湯もございますので、あとでご一緒いたしましょうか」

「それは……」


 返答に困っていると、彼女はふふっと声に出して笑い、ボクから身をはなした。


「少々準備をいたしますので、旅人様はどうかそのまま横になっておくつろぎください」

「準備?」

「はい。気枯れを癒すための準備です」


 答えが返ってきても、なにを言っているのかはよくわからなかった。

 けど、それを言い始めたら一から十までわからないことだらけだ。

 ここがどこなのか。どうやってボクはここに来たのか。彼女が何ものなのか。

 考えるのを放棄して、ボクはもう一度布団のなかにもぐりこんだ。


 眠くはなかった。でも、やっぱり頭がぼんやりとする。

 目を閉じると古い木の香りが、ほんのりと感じられた。

 それに、密着したときに感じた、めづるさんの残り香が入り混じっている気もした。


 ――気枯れ。

 ――心の垢。


 彼女の発した言葉を胸の内で繰りかえす。

 わかりやすく言うなら、心が疲れている、ということだろうか。けど、自分ではよくわからない。

 彼女にその治療みたいなことを頼みに、ここまでやって来たのだったろうか。

 そんな気もする。けど、やっぱりうまく思いだせなかった。

 記憶に薄ぼんやりとしたまくがかかっているみたいで、その先に無理に進もうとするとひどく疲れる。あきらめて手ばなすほうがよっぽど楽だった。

 めづるさんのことを思いかえす。

 巫女装束が肌に吸いつくようにサマになっていた。彼女が本物の神職であることは、たぶん間違いない。そうすると、ここは神社のなかなんだろうか。だとしたら、なんで神社の一室でボクは寝ているんだろう。

 いったいいつ、彼女と出会ったのか。

 遠い昔から知っている相手のような気もするし、ほとんど会話を交わしたこともない気もする。その顔よりも、彼女から漂う甘い匂いのほうが懐かしく感じられる気がした。

 なにも思いだせない以上、考えてもムダだった。

 疑問を抱いても、それが思考になるまえにぼんやりと霧散してしまう。



「お待たせしました」


 部屋の向こうから、ふすまを開ける音、ついでめづるさんのゆったりとした声が聞こえた。

 ボクは寝転がったまま、そっちを向く。

 めづるさんはさっきと変わらない格好だったけれど、両手に巾着(きんちゃく)袋のようなものをいくつも持っていた。


「失礼して、まずはこうかせていただきます」

「コウ?」

「はい。旅人様は、どうかそのまま楽にされていてください」


 そう言って、部屋の隅にある戸棚のほうに静かに歩く。見たところ、それが部屋にある唯一の調度品だ。

 マッチをするシュッという音がして、薄灰色の煙がたなびく。

 部屋のなかに、甘いミルクのような匂いが立ちこめた。香といっても、仏壇に捧げるお線香の匂いとはずいぶん違っていた。

 少し経つと鼻が慣れてしまったのか、お香の匂いはほとんど感じられなくなった。けど、胸の内が落ち着くような、呼吸がおだやかになるような、そんな心地はずっと続いた。


「では、はじめましょう」


 めづるさんは再びボクのすぐかたわらに座り、寝かしつけるみたいにボクの額を軽く押した。


「肩の力を抜いて。腕をだらんと横たえるイメージです」


 ボクは彼女に言われたとおりしようとした。

 けど、ややあって小さな苦笑が返ってくる。


「わたしがおそばにいると、緊張されてしまいますか?」

「……かもしれない。自分ではよくわからないけど」


 ぼーっとしているつもりではいる。けど、横にいるめづるさんの存在を意識するな、というのは無理な相談だった。


「どうやら旅人様には、もう少しゆっくりと下準備をする必要がありそうですね」

「どうすればいいの?」

「ご心配なく。全てわたしにおまかせください」


 言葉と同時、彼女はボクの頭を両手で持ちあげた。

 そのまま、自分のひざのうえに乗せる。

 ひざ枕される格好になって、ボクは彼女の藍色の瞳を見上げた。その目元は優しげに笑っているけど、奥底には妖しげな光を宿しているようにも感じられた。

 頬は白く、唇は血のように真っ赤だ。近くで見るまで気づかなかったけれど、巫女装束にちょっと似合わないくらい、洗練されたメイクをしているのがわかった。決して厚化粧ではないけれど、細やかで、自身の美しさを熟知しているからこそなせるワザだと思えた。


 めづるさんはボクの頭を膝に乗せたまま、なにかを両手に持った。

 直後、視界が真っ黒におおわれた。柔らかな布の感触がまぶたからこめかみ、後頭部へと伝わっていく。めづるさんの指の感触がかすかにあって、頭の後ろで布をしばったのがわかった。

 めづるさんはもう一度ボクの頭を持ちあげ、枕のうえに戻した。


「……これはなに?」


 驚くボクの耳元で、ささやき声が返ってきた。


「なまじ光があると、目に見えるものに心がとらわれてしまいます。ですので、しばしのあいだ目隠しをさせていただきたいと思います」

「……ちょっと怖いんだけど」

「ご安心ください。暗闇はあなたのお味方です。それに、わたし――めづるもおそばにおります。まあ、もしどうしてもご不快なようでしたら、ご自身でお取りしてしまってもかまいませんが……」


 不快――ではなかった。ボクはアイマスクのたぐいがなんとなく苦手で、バスや電車での長距離移動中もつけたりしなかった。けど、いま目隠しのためにつけられた布は、優しくまぶたのうえをおおって、心地いいくらいに感じられた。

 当たり前だけど、なにも見えない。

 ただ目隠しされただけ。それだけで、違う世界に放りこまれた気分だった。

 小さな純和風の部屋は消えて、暗闇がどこまでも広がっている。


 ――暗闇はあなたの味方です。


 めづるさんの投げかけた言葉が脳裏にこだまする。

 目には見えなくても、感じられるものがあることに気づいた。

 すぐそばにめづるさんがいるのがわかる。

 その気配、息遣い、漂う甘い匂い。

 目を開けていたときよりも、色濃く、はっきりと伝わってくる。

 彼女が言っていたのは、こういうことなんだろうか。

 暗闇のなか、めづるさんの存在感だけが道しるべのように感じられた。


「ふふ、それでいいんです。さあ、もう一度力を抜いて。ゆっくりとでかまいません」

「うん……」


 彼女の声が空気を震わせて、ボクの肌の内へと染みこんでいくみたいだった。


「怖がらないで。安心してください。闇はあなたの味方です。いつもあなたのそばにいて、あなたの心を守ってくれている。自分のなかにある暗闇の奥へと深く――深くもぐってください。暗闇はあなたの友です。どうか、安心して」


 同じ言葉を何度もリフレインさせて、めづるさんはささやき続ける。

 頭で考えるよりも、ボクの身体が勝手に反応する。それに心も後から従う感じだった。

 その感覚を気持ちよく感じている自分がいた。


「よくできましたね」


 ボクの頭をなでる、めづるさんの手の感触が伝わってくる。

 そのまま、彼女はボクの髪をくしけずるみたいに、指でもてあそんでいた。

 心地良さと同時に、もどかしさも感じる。

 その細い指で、髪だけじゃなくて、もっと全身に触れてほしい。

 いつの間にか、ボクはそう願っていた。


「旅人様、わたしがいまなにをしているかわかりますか」

「……ボクの髪をいじってる」

「そうです。ふだんあまり意識されないでしょうが、髪もあなたを形作る大切な一部です。もちろん、髪だけではありません」


 ボクの内心の願望が漏れ聞こえていたのだろうか。

 めづるさんの指がボクの身体の上をなぞってゆくのを感じる。

 額を――、頬を――、首筋をたどって肩の稜線を。

 自分の浴衣がはだける衣擦きぬずれの音が聞こえる。けど、ほとんどそれとわからないほど、浴衣を脱がすめづるさんの手つきはさりげなかった。

 細い指が、さらにボクの全身をたどってゆく。


「あなたの息吹いぶきを伝える喉も――

 鼓動を送る心臓も――

 全身をめぐり指先まで流れる血の流れも――

 いきづく細胞の一つ一つまでもが――

 あなたがあなたであるために、存在しているのです。

 どうか、ご自身のすべてを感じてください」

「……んん」


 めづるさんの指はひんやりと冷たいのに、触れられたところが熱を帯びたみたいに感じる。

 なにも見えないなか、その感触に全神経が集まっていく。

 そして、彼女がささやいた、ボクを形作るすべてが色鮮やかに脳のなかに浮かびあがってくる。

 とても不思議な感覚だった。

 いままで、ずっと当たり前だと思っていた自分自身に、初めて出会ったみたいだ。


「ああ、とてもステキです、旅人様。そのまま……次の段階にまいりましょう」


 めづるさんの声がさっきまでより、はっきりと響いて聞こえる。

 たぶん、声を大きくしたんじゃない。ボクのなかの感覚が変容して、より鋭敏になっているみたいだ。

 

「今度は、いま強く意識した、あなたという感覚を手放してゆきましょう」

「……手放す?」

「はい。といっても、難しいことではありません。わたしの言う通りにしてください」


 ボクの脳も身体も全部、めづるさんの言葉に素直に従おうとしていた。そうすることが、とても気持ち良い行為だと、予感しているからだろう。

 

「――ご安心ください」


 もう一度同じ言葉が、鼓膜に直接息が触れたんじゃないかと思うくらいの超至近距離でささやかれた。その声に暗示をかけられたみたいに、ボクの身体からストンと力が抜け落ちる。


「ふふふ、では、そのまま仰向けに横たわっていてください」


 言われたとおり、ボクは海に浮かぶ水死体みたいに身じろぎ一つせず仰向けになる。

 すぐそばに、めづるさんの柔らかな肌の感触があった。

 すうっと声が胸のうちに溶けこんでくる。なんの違和感もなく、その言葉を受け入れていた。

 ささやかれるその声に感覚が従ってゆくのが、心地よかった。

 裸になって水の上に浮かび、重力から解き放たれたような快感がボクを満たしていく。


「さあ、わたしの吐息を感じられますか。呼吸を合わせてください。わたしと一緒に吸って、わたしと一緒に吐いて。なぜかは考えないでください。さあ、ゆっくりと……いきますよ」


 めづるさんはすうぅぅっと唇を震わせて大きく息を吸い、はあぁぁっと吐息の音とともに吐きだす。それを何度も繰りかえした。

 その深い吐息はどこかなまめかしく感じられた。それに合わせるのは少し気恥ずかしい。

 けど、やっぱりというか、ボクの身体は頭で考えるよりも先に反応していた。

 同じ深さで吸い、同じ長さで吐こうとする。時を忘れるくらい、何度も、何度も。

 いつからか、ボクの意識はただ呼吸にだけ集中していた。

 彼女が深く息を吸いこめば、ボクも肺に空気が満ちるほど深く吸い、ゆっくりと吐きだせば、吐息が空気を揺らす音が聞こえるほどゆっくりと吐いた。


 ずっとそれを繰りかえすうち、めづるさんの息遣いはだんだん自然なものになっていく。

 もう呼吸する音も聞こえなくなった。それでも、ボクにはその吐息が感じられた。

 彼女の呼吸に合わせ、ボクの呼吸もおだやかなものになっていく。

 何も意識しなくても呼吸を合わせられた。彼女がいつ息を吸い、どんなふうに吐くか手に取るようにわかる。飛ぶことを覚えたひな鳥のように、ひとたびそれがわかると、できるのがとても自然なことのように思えた。


 ボクがめづるさんの呼吸に合わせているのか、それともボクの呼吸が彼女の息を導いているのかもわからなくなってくる。

 それどころか、二つの呼吸が渾然一体こんぜんいったいとなって、もう自分のものか彼女のものかもよくわからなくなっていた。

 

 めづるさんの吐息が近くなる。耳朶じだをくすぐるほど、唇が耳たぶに触れるほど――近く。

 そして、彼女の身体がボクに覆いかぶさった。

 ボクは、まったく驚くこともなく、自然にそれを受け入れていた。

 ひんやりとした皮ふが、全身の重みが、柔らかな肌の感触がゼロ距離でボクに重なっていく。

 鼓動が――、息遣いが――、脈打つ血流が――、一つに溶けあう。


 「ああ……旅人様とわたしの境界が消えていくのを感じます。

 もっと、もっと――わたしと一つになってください」


 めづるさんがボクのなかへと入っていく。

 あるいは、ボクが彼女の存在を求め、その内へともぐりこんでいってるのかもしれない。

 もう、どちらなのかもわからなくなっていた――。



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