“四日目”
四日目
また次の日が来た。固い屋根裏の床に寝ているからか、節々が痛んで渋い顔を見せ合う。片目を開けてあくびをしたスノウは、目元の涙を拭いながら肩を回していた。
「今日は何をするんだい、レイン」
僕は寝癖でぐちゃぐちゃになった髪を掻き回しながら答えた。
「言ったろ、今日になったら結果がわかる事があるって」
首を捻ったスノウは「ああ、あの石ころ」と言ってこめかみを指で弾いていた。
寝室に降りてお互いの容姿を見つめ合いながら身なりを整え合うと、僕はポケットから一枚の紙を取り出してベッドの上に放り投げた。屋根裏から持ち出したそのメモには……我ながら思うが奇怪なキャラクターが描いてある。なにを遊んでいるのかと思うかも知れないけれど、これもまた一つの謎を検証する道具なんだ。
訳がわからなそうに肩をすくめたスノウに、僕はシャツの襟を直しながら釈明する。
「見えていた謎は検証されてしまった。だけど過去の僕たちが見つけられなかった法則や、細かいルールなんかもきっとある筈だ」
「このふざけたキャラクターが、その手助けになるって訳ね」
蟹の様な胴体をした化け物の首から、白い仮面がにゅっと突き出している。僕的にはこれはイルベルトのつもりだったのだけれど……お世辞にも上手いとは言えないイラストを二人で見下ろす。次に上げられるであろう嘲笑混じりの瞳から逃れる為に、僕は足早に階段を駆け降りていく事にした。
「あら早いのね、おはよう」
いつも通りに三人分ある食事の席に着き、お母さんは嬉しそうに話しだす。
「今日は久々に鳥肉をスープに入れたの。今日くらいは贅沢したって誰も文句は言わないわよね」
「そうだね、お母さん」
自分の表情がぎこちなくなっていないか不安だったけれど、お母さんはいつも通りにニコニコしていて安心した。そうして三人、食事の前の日課として神に祈り始める。瞳を瞑って祈っていると、お母さんが手から落としたスプーンの物音で我に返った。
「ごめんね、なんでもないの」
はにかんだ微笑と共に、すぐにスプーンを拾い上げてお母さんは言った。
「こんな毎日が、いつまでも続いたらいいね」
そんな嬉しそうな声に応えたのはスノウだった。淡々と一言だけ……
「そうだね」と。
*
カゴを持って家を飛び出した僕らは早速養鶏場へと向かう。……あれ、なんだか今日は足取りが軽快だ。なんて思っていると、スノウが足を止めた。
「……石が無い」
僕らにとってとても重大な事を失念していた。いつも無意識の進路上にあって必ずつまずく筈の石が無くなっているのだ。辺りを探して見てもやっぱり無い、完全に消失している。こちらを見つめるグレーの瞳に向けて、僕はカゴを投げ払って抱き付いていた。
「やった! やったよ、あの石の壁の所がピッタリそうなんだ! 一度で成功するだなんて思っても見なかった!」
激しく揺すられるままスノウは僕の鼻先で首を捻っている。まだ整理がついていない様子の彼へと、僕はこの大発見を教えてやる。
「わからないのかい? 僕は昨日、あの石で
僕が昨日検証していたのは、魔女の残した繰り返しの呪いの有効範囲だ。あの忌まわしい石を苦労して壁の真裏に落ちるように繰り返した甲斐があったというものだ。つまり呪いの有効範囲とは、キッカリ僕らの村を包囲したあの石の壁までで間違いがない。
「あの石は、
「必ずそこに配置される筈であったものが、そこに無くなったから、繰り返しの呪いから脱したって言いたいのかい?」
「そうだよ! きっと居なくなった村の人も、僕らと同じように魔女の呪いに気付いて、それでどうにかして壁の外に出たんだ! それでこの村から居なくなっているんだよ!」
冷めた瞳のスノウは激しく揺すられたまま、首を傾げて何か呟いた。
「それならループの村を抜けた村の人たちは、どうやってあの死の霧を掻い潜ったんだ?」
*
僕らは村の最南端にある鶏小屋に辿り着いていた。
昨日の鶏の亡骸がまだそこに転がっている様な気がして、なんとなく恐る恐ると歩んでいた。けれどそんなものが転がっている筈は無いとの確信もまたあって、いつも通りにけたたましく鳴く小屋の中の鶏たちを見て心を取り戻した。
「ほら、やっぱり無い。ある筈がないんだ」
昨日、無惨な死体が転がっていたそこには、陽射しを浴びながら風に揺れるカタバミが並んでいるだけだった。ホッと胸を撫で下ろして息を吐こうとすると、小屋の方角から尋常では無いような声が上がったのに驚いて、止めていた空気をそのまま飲み込んだ。
「何度数えたって数が合わない……十七羽しか居ないんだ!」
「……は?」
小屋の中を唖然と見下ろしたスノウの隣へと、僕は緑を踏んで駆けた……
「そんな訳ない、一緒に数えるんだ!」
……僕らが何度数えたって鶏の数は変わらなかった。昨日死に絶えた鶏は一羽。その亡骸は確かに石の壁の内、この呪いの範疇に引き戻したんだ。リセットによって朽ちた体も再生して、その数は十八羽になる筈なのに――そこにあったのは、命が一つ潰えたままの十七羽の鶏の群れだった。
動揺した僕は頭を抱える。あらゆる仮説が音を立てて崩れ去る衝撃に、混乱して頭が回らない。
「おかしい、そんな筈ない、リセットによって全部が昨日に巻き戻るんだ! でなきゃ……おかしいじゃないか、今日の朝だって、夜会でも鳥肉が出た。仮にそうなら、僕らは何度も繰り返しているんだから、鶏の数は毎日減っていく筈じゃないか! 二十羽しか居ないんだ、とっくの昔に数が尽きている筈だよ!」
誰にともない僕の嘆きにはスノウが答えていた。
「いや……僕らが毎朝食べている肉は何日か前に捌いて保存してあった分だ。それに夜会で使われていたのも、思い返してみれば干し肉や加工肉ばかりだった。どれも今日捌かれた肉なんかじゃない。これから何日とも保証の無い死の霧に備えるんだ。それがわかっていながら、家畜の数を減らす程、みんな浮かれていた訳じゃない」
言葉を失った僕は、その場に膝をついて小屋を見つめた。羽を撒き散らして暴れる鶏たち。その数が足りない分だけ、過去の僕たちは同じ過ちを繰り返して来たのかも知れない。
この瞬間、一つのルールが僕の思考に追加される――
・〈
「スノウ、聞いて……」
だが強烈な落胆と同時に、僕の頭を何よりもたげていた仮説の一つが否定されていた。スノウの肩を両手で掴んだ僕は、困惑した彼へと決死の勢いで訴え掛けていた。
「僕らは死んでなんかないんだ!」
「え……うん、当たり前だろ?」
とぼけた顔で事の重大さを理解していないスノウを抱き寄せ、僕は涙を振り撒いていた――
「僕らは誰も、
「わかってるよそんな事……さっきから何を言ってるんだい」
――リセットは、僕らの死によって引き起こされている訳じゃないと、その時理解した。
この世界は夢想でも、死後の世界でもなく――現実なんだ。
ならば尚更僕はこの呪いを解いて、村のみんなを救い出さなければならない。だってこれは……こんな呪いは、僕らの命を冒涜しているのと同じなんだから。
帰り道、茂みの中に朽ちた鶏の亡骸を見つけた。命を終わらせた住人は、壁の側を吹き荒れる突風に流され、そのまま生命を巻き戻す事も無く、ただあるがままに転がっていた。判明するもう一つのルール……
・〈遺体となったモノはそこに残り続ける〉
僕らは目を逸らす為に、もう見なくて良い様にと、死体を土深くに埋めた。
*
「リセットのトリガーは死ではないとすると……」
卵の運搬を終えた僕はぶつくさ言いながら、背後からのジト目に気付かないフリをして、昨日と同じ路地を曲がっていった。スノウはグルタに貰ったリンゴをかじりながら僕の背中をちょいと突いた。
「レイン、ぶつくさ言ってないで前を見なよ。イルベルトの所に行かないのかい? なにやら色々と、彼には聞くべきことがあるんだろう?」
「ああうん。でも村のみんなに囲まれてたら話にならないよ。彼は昼過ぎにはあのボロ小屋に座ってるんだ」
「なるほど、つまりキミは今、また彼女へのお節介に向かっている訳だ」
意地の悪い言い方をするなぁ……まぁでもその通りだ。僕はまた自分の良心を満足させる為だけに、無意味に繰り返すんだ。東の外れの方角へ向けて歩んでいった僕らは、裏通りの軒先でとうもろこしを並べるイリータの家に辿り着いた。宣言通りまた僕はリズの盗みを阻止しに来たって訳だ。
呆れながら息を吐いたスノウが、ポケットから取り出した懐中時計を確認しながら「もう来るよ」と言ったので僕は身構えた。
「……」
「……ん?」
しばらくの沈黙の後に、スノウが言った。
「……リズが来ない」
「え、そんな筈無いよ。だって彼女は昨日この時間に現れたんだ」
しかし待てど暮らせどリズは現れない。首を捻った僕たちは、イリータがとうもろこしを仕舞い込んでしまったのを機に、東の壁に隣接するリズの家に向かってみる事にした。
「おかしいよスノウ。どうなっているんだろう、村人の行動は余程の事がない限り変わらない筈だろう。それなのにどうしてリズは現れなかったのかな?」
「この繰り返しの中で、ルーティンと違う行動をするのは僕たちだけだ。何らかの要因があるとしたら僕ら以外に無い……だけれど、今日に関しては、彼らの行動を阻害するようなアクションを起こしていない」
思考する時のいつもの癖で、スノウはこめかみを指で弾きながら眉をひそめている。
程なくすると僕らは荒地にポツリと佇んだ小さなレンガの家に辿り着いていた。側にそびえる石の壁によって一日中日当たりの悪いここらは、ジメジメしていて他にひと気も無い。大きな岩に腰掛けながら目を細めたスノウは、その家の一階で明かりが灯されるのに気が付いた。やはりリズは家の中に居るという事らしい。
「昨日僕の分のとうもろこしをあげたから、食糧には困っていないのかな?」
「リセットで村のものは全部元通りになるんだ。貯蔵なんて出来ない筈だろ」
腕を組んで唸った僕らは、この奇妙な現象を確かめるべく、リズの家の戸口を叩いた。
「ひぃあぁああ――ッッ! なに!? ナンデ?!」
古びた扉の鉄製のドアノッカーを鳴らすと、次の瞬間に家の中から悲鳴が聞こえて来た。それと同時に家具をひっくり返す様な物音もする。もう一度ノックすると、彼女はひどく狼狽したような声を発していた。なにをそんなに怯える必要があるのだろうか。しばらくしてから玄関の扉が少し開いて、リズの青い目が僕らを覗いた。
「どうしたんだいリズ。僕らがキミの家を訪問するのが、そんなに意外だったのかい」
「え……ぁ、なんで、来る筈ないのに……」
「来る筈じゃ……無い?」
背後のスノウと瞳を合わせて僕らは顔を強張らせた。そしてリズに鎌をかける。
「リズ……どうして今日は家を出ないの? 変な事を聞くけどお腹が空いているだろう? とうもろこしとか……食べたいんじゃ無いのかい、確か好物だったよね」
「うん……大好物。三度の飯より一本のとうもろこしが好き」
こちらを覗いていた瞳が、少しの戸惑いを見せながらあちらこちらへと向かわされる。しばらく僕らが返答を待っていると、リズはようやくこう答えた。
「だって……
「き……っ昨日だって!?」
「お父さんが、悲しむからって……」
その衝撃に、僕は放り出した手を中空に留めたまま固まってしまった。そして思い返す――
――リズが僕をジッと見つめていたあの目は、僕という不可解を観察しているようにも思えた。そして何より、考えれば当たり前の
「リズ……っ」
「……? なに、レイ――ん、ぅぇ――ッ?!」
震える声で、動揺する手で、僕は強引に、華奢な腕から戸口を引き開けていた――
扉を突如と開け放たれ、驚いたリズの前髪が流れ込んで来た風に舞い上がった。白き素肌が光に照らされ、長き黒髪が宙に踊る。涙を溜めたブルーサファイアの瞳は僕を真っ直ぐに見上げながらすくんでいた。
「
考えてみれば、この呪いの影響を受けないセーフティゾーンが、うちの屋根裏以外にもあると考えるのは当たり前の事だった。
*
僕らは今、リズの家に上がり込んで居間に座っている。横長の机を挟んだ形で、僕らは二人リズの向かいの椅子に座った。ボロの外観と違って、家の中はキレイに整頓されていた。グルグルに巻いた観葉植物や、奇怪な絵画が置かれ、曲がった時計が壁に掛けられている所以外は、僕らの家とそんなに大差無い。少し不気味に映るこの
「キミは、いつからこの繰り返しに気付いていたんだい?」
ここまでの経緯の全てを伝え、僕らはおっかなびっくりと視線を彷徨わせたリズへと注目していく。彼女はピッタリと付けた膝頭に手を置きながら、モジリモジリと掌を握ったり離したりしていた。
「わからない、
「今回……?」
「レインと同じ。私も何度も忘れて、また思い出している。繰り返しの日々の中で、寂しくて堪らなくなると、私はお父さんの寝室で眠るの。そこにまだ匂いが残っている気がするから」
どうやらリズのお父さんの寝室が、この呪いを回避するセーフティゾーンになっているという事らしい。さらに彼女もまた僕らと同じく、突如この日々の忘却をしてしまっているとの事だった。今の僕らにとって最大の脅威は、この
「同じ境遇の者が見つかったのは良いけど、あまり悠長にやっている暇は無いのかもね、スノウ」
「……」
するとそこで僕は、不思議そうに首を傾げて僕を見つめたリズに気付く。先日も穴が開く程に凝視されたがそれとは雰囲気が違う。いつも困り顔をしているその表情がそれにも増して目立っている。何か変な事を言っただろうか、なんて考えていると、リズは顔を掌で覆う。
「あっ、あぁそうか、そうだったね。何でもないの!」
「リズ……?」
「それより、見る? お父さんの寝室」
長い廊下を連れ行かれ、リズに案内されたのはなんと地下室であった。どうやら昔村人が防空壕として用意していた地下施設跡をそのまま改装したらしい。彼女のお父さんは人目を忍んで生きて来たからか、ここの方が落ち着くと言って、息の詰まりそうな地下深くをそのまま寝室にしてしまったのだとか。自宅も狭いので、リズは母屋に、お父さんはここで眠っていたらしい。となると僕らは、魔族と人間とのハーフである彼女のお父さんが、この薄暗い階段を降りていった先に、
「普通だね……スノウ」
「ああ、ガッカリするほど変哲もない」
暗い洞窟の室内は、色褪せたベッドと小さな机があるだけの質素極まりないもので、ほとんど僕らの生活環境と変わりがなさそうだ。どこもかしこも年季が入って、今に壁が崩れて生き埋めになるのではないかと思う。
「あれ、何かなレイン」
ただ一つ僕らの目を引いたのは、机の上で異様な存在感を放っている二つの指輪であった。見たこともない深緑の水晶、それと対になっている紅蓮の水晶が、中で光を屈折させながら、暖かな緑と赤を絡ませて光を放散している。この指輪に付いている煌めきがただの宝石ではない事はすぐに理解が出来た。壁に小さく映す影を、ウサギや人影にして遊ぶその様は、僕らの知る原理ではとても説明がつかないからだ。
「すごい、これが魔法なんだっ」
声を弾ませた僕らにリズが教えてくれる。
「お父さんとお母さんの指輪だよ」
ルビーの様な赤い瞳をしていた彼女の母親が、とっくの昔に亡くなってしまった事を僕らは知っていた。だから一回り小さい赤の指輪がそこにある事は理解出来る。たがもう一つ、リズのお父さんの物であろう緑の指輪はどうしてここにあるのだろう? 僕の抱いたその疑問は、次に語られたリズの言葉に解を得る事になる。
「お父さんはね、徴兵に行くときに指輪をここに置いていったの。持っていくべきだったのにね。よく分からないけれど、いつか私に必要な時が来るかも知れないって言って」
リズは薬指に赤い指輪をはめた。彼女の細い指先ではぶかぶかだ。
「夢を叶えてくれるんだって……私の薬指に、スッポリとこれがハマる時に」
……リズのお父さんは、戦争に行った自分がこの村に帰れなくなった万一の事を見越してこの指輪を置いていったのだろう。
そんな事を知ってか知らずか、リズは赤い発光を顔にかざして屈託もなく微笑んでいる。いつか彼女の薬指にその指輪がピッタリとハマる未来は訪れるのだろうか……いや、そんな未来はこのままでは訪れない。それはリズ自身も良く理解している筈だ。
だから……嬉しそうに跳ねる黒髪の向こうに、切なげな視線が揺らめいているんだ。
――リズが繰り返しに気付いている事はわかった……けれど、それなら彼女はどうして何もしなかったんだろう? 僕はどうしてこの繰り返しを受け入れながら生活を続けていたのかをリズに問い掛けてみた。すると彼女は急速に表情を暗くしていきながら口をつぐんだ。
「……だって――」
程無く彼女は話し出したが、その目の奥に深い陰が現れ始めた事に僕は気付いた。薄暗い地下の調度も合間ってか、斜めにした影になって、声の調子も沼に沈み込むかの様だった。
「同じなんだもん。私が何をした所で、何を言ったって、この繰り返しは変わらないんだよ。それに私にはどっちだって一緒なんだ……ううん、この繰り返しの中の方がまだマシなんだ」
無理に口元を微笑ませた彼女に応えられず、僕は首を振った。
「私はね、みんなから嫌われてるの、魔族の娘だって……いらない子だってみんな話してる」
「そんな――っ!」
けれどリズもまた首を振った。生傷を負った腕が明かりの下に垂れる……僕はその時、彼女の肌に刻まれた傷が増えていると思ったのは、やっぱり気のせいなんかじゃなかったと思い出した。
「いいんだ、だって私魔族の娘なんだもん。嫌われて当然だもん」
リズの美しい視線を受けて、僕は思わず視線を逸らした。……口先で彼女を励まそうにも、それが軽はずみで無責任極まる蛮行であると、その美しい瞳に諭されたかの様だったから。
伏せた長いまつ毛に影を落としながら、リズは続けた。
「……だからね、私にとっては、世界が繰り返している方が都合が良いの」
「……」
「誰が何時何処で何をして、それが決まっていた方が、私は人目に付かずに生きていられる。盗みだって上手にやれる。イリータだって、今日というめでたい日には手を上げないとわかってるの」
――『助けてくれなくても、イリータは手を上げなかったのに』
リズとこの繰り返しの中で初めて会った時、彼女は確かに僕にそう呟いていた。あれがこんな意味で言われていたとは思っても見なかった。
僕に背中を向けてリズは続ける。大好きなお父さんの面影を寝室に見渡しながら。
「私にとっても……私のことを視界にも入れたくない村のみんなにとっても、これで良いかなって……食べ物を盗んだことは悪かったけれど、うちには食べるものが何も無いの」
目元を拭い、時折声を上ずらせながら――
「明日にはみんな忘れて、全てが元通りになるの……だから私も繰り返すだけ。一人この渦の中で回っているだけ。喋り相手も居なくて、ちょっぴり寂しいけれど、新しい悪口も言われない。毎日毎日、みんなは同じ言葉で私を罵って来るの……何度も何度も言われるとね、始めは苦しくて堪らなかった言葉にも、だんだん慣れてくるの……でもね、でも……」
……それから暗い室内には、彼女の悲痛な息遣いだけが残された。
「だんだん心が壊れていくみたいで……っ……それも怖いのっ」
……上手く言葉に出来ずとも、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔が僕に全てを物語っていた。
「ごめんなさい、盗みをしてごめんなさい……だけど、私……どうすればいいかわからなくって、誰も助けてはくれなかったから、お父さんもずっと、帰って来ないからっ!」
咽び泣く少女の痛ましい姿にこれ以上もない悔恨の念を抱きながら、僕とレインは彼女の手を一つずつ取った。振り返ったリズに心の中でごめんねと唱えながら、僕は伝える。
「そんなに辛い思いを抱え込み続ける位なら、全て忘れていた方がラクなのに」
息を呑んだリズへと向けて、鋭い目つきでスノウは言った。
「それでもキミがお父さんの寝室で眠り続けるのは、
後は任せたと、スノウは少し口角を上げて僕に目配せをした。
「僕がこの呪いを解き明かすから、一緒にこの世界を抜け出そう、リズ」
潤んだ瞳で、赤くなった鼻をすすりながら、彼女は両手で握った僕とスノウの手を握り返した。
「ありがとう、レイン……スノウ」
*
リズの家を後にした僕らは、彼女の手を引いてイルベルトの元へと向かっていた。昨日よりも少し早い夕暮れの空は、いま少しだけ雲間から夕焼けを見せている。
あの怪しき商人は、リズが繰り返しを思い出した頃にはもう村に居たらしい。彼女も魔導商人の存在は認知している様だが、積極的には関わって来なかったのだとか。
「大丈夫かなぁレイン、私と居たら、アナタまで変に思われるんじゃ……」
「なんと思われても構わないさ、みんな忘れてしまうんだから」
――リズとイルベルト。過去の僕らに無かった存在は、この呪いを解き明かすのに大いなる力を発揮するかもしれない。
「……ほう。これはこれは、小さなお客さ――」
僕らはイルベルトの居る吹き抜け小屋に辿り着く。彼の赤黒いシャツの奇妙な模様が、緑と花々を背景にしながら浮き上がっている。すると仮面の視線が僕とスノウを通り過ぎていき、おっかなびっくりと腰を屈めているリズの所で静止した。
「ひぃ……っこっち見てっ……仮面怖いぃ」
「…………」
顎に手をやり、前屈みにリズを凝視するイルベルトを不思議に思い、僕は問い掛けてみた。
「どうかしたのイルベルト?」
すると彼は腰掛けていた椅子に背をもたげて「いや、何でもない」と答えた。そうして仮面を斜めにすると、今そこの藪に隠れたリズを認めながらウンウン唸り、今度は急激に思い至ったかの様に指先をピンと天に向けた。
「それより諸君は何故私の名を知っているのだ。一度も名乗った覚えは無いのだがな。これは妙だ、誠に妙だよ」
一体どういう情緒をしていればそうなるのか、今度はクツクツと微笑し始めた白い仮面は、今ではすっかり落ち着き払って僕の言葉を待つ様にしていた。テーブルには既にティーセットが置かれていて、ティーカップより立ち上る湯気が降り始めた雨に霧散している。
「うん、僕らもキミに話したいことが……」とそこまで言った所で、彼が足元の大きなカバンから、もう一組のティーセットを取り出したのに気が付く。少しズラした仮面から覗く尖った顎先を見つめていると、その手前で昨日より少し色の薄い黄金色がカップに注がれていく。
「取るがいい、少年よ」
「……」
芳しい香りと共に僕の胸に突き出された食器には、緻密な彩色が施されていて目を奪われる。目前のティーカップより少し視線を上げると、そこには僕を試す眼光が滾っていた。
「……知っているかい少年よ、かつての世界の英国紳士は、一日の内に最大で十回もティータイムを設けていたとか。そして今は丁度、ミッディティブレイクの頃合いだ」
仮面の下から覗いた口元が白い歯を見せて微笑んだと思うと、背もたれに仰け反って大仰に手を広げる。まるで僕らを歓迎するかの様に。
「いまここでキミの口から未知が語られるのを直感した。私にとってその甘美を味わう為には、やはり紅茶が必要なのだ」
細長い足を大胆に組み替え、イルベルトはティーカップを傾ける。
「あいにくとティーポットにはあと一人分の紅茶しか残っていなくてね……それとも、ちゃんと人数分揃えた方が良いだろうか?」
振り返ると、スノウは首を振って、リズは何やら眉をひそめながらイルベルトを窺っていた。二人の意見を汲み取った僕は彼からの申し出を断った。
「必要ないよ、イルベルト」
早速僕は、空を仰いだ彼に本題を切り出そうとしたが、一足早く話し始めたのは仮面の方だった。
「少年少女諸君。まずは本題では無く、何気もない話しをしよう。それが紳士淑女のやり方だ。キミたちは不思議な事にそうでは無いようだが、私の方はキミたちの名前も知らないのだからな」
うっかりしていた僕らは順番に名を名乗った。リズはビクビクと、スノウはぶっきらぼうに。それが終わると、細長い足を高らかに組み換えて、イルベルトはテーブルに頬杖を着き始めた。
「私は魔道商人のイルベルトだ。今ここに広げている様な、未知の伝導を生業としている」
彼の足元に広げられた摩訶不思議な魔道具の数々。リズとスノウはいつの間にやら僕の背中から出てきて、足下に陳列された魔道具をしゃがみ込んで眺めていた。僕も彼の言う未知の誘惑に堪え切れずに、ティーソーサーを持ったまま一緒になってしゃがみ込む。……それにしても、仮面をしているから判然とはしないのだが、やはり彼の視線がリズへと注がれている気がしてならないのは気のせいだろうか。
僕らの視線が赤いクロースの上を移動する度に、イルベルトは敏感にそれを感じ取って一つ一つ魔道具の説明をしてくれた。
「その小瓶の中身には、“ゴンゴリューニの砂”が入っている。ゴンゴリューニとは大陸を越えた遥かな西の
イルベルトは小瓶の中の砂を摘み上げると、側に垂れた赤いフクシアに振り掛けた。すると貴婦人のイヤリングとも言われる下を向いた花弁が、クイッと顔を上げて僕たちを覗いたのだった。
「すごい、命が宿ったみたいだ!」
次に僕が視線を落としたのは、そこにある背景を歪ませている透明の何か――
「それは“姿隠しのマント”だ。その名の通り姿を背景に同化させる事が出来る」
リズがマントを羽織ると、たちまちに背景に溶け込んで消えてしまった。驚いた僕とスノウの前で、何も無い空間から「何が起きてるのー!」と叫ぶ声だけが聞こえるのが不思議だった。
「それは魔導具とはやや違うが、まぁカメレオンムササビの革で作ったマントだ、背景に溶け込む性質を持つ故に、捕捉は困難を極めるだろう」
感嘆した僕らは、マントをクロースに置いて透明な卵に視線を移した。
「それは“ガラス卵”この世界の何処かに広がる魔境の姿を映している」
「こんなキレイな世界がこの世界の何処かに? 生き物も見えるよ」
「ただし気を付けろ。勘の良い奴はこちらに気付き、目が合う事がある。血の気の荒い者であれば、そこからでもこちらに干渉してくる」
ギョッとして卵を覗くのを止めた僕に、イルベルトはクツクツと笑いながら続けていく、彼の示した手の先には、怪鳥の巨大な赤い羽で編み込まれたブーツが風になびいている。
「それは“羽靴”と言って、何処ぞの魔女が自分の体重を偽る為に作った……まぁ言わばジョークグッズの様なものだ」
僕らが三人揃って首を捻っているとイルベルトは説明する。
「このブーツを履けば羽のように体重が軽くなる。ただそれだけの事。注意すべきは、自分の体が風に吹き飛ばされて地上に戻れなくなる事だ」
体重が軽くなると聞いて、リズは手を上げて「欲しい!」と叫んでいたが、僕らにはイマイチその魔導具の価値が分からなかった。
リズの熱視線を残し、僕らの視線が次に移る。
「そこにあるのは“二枚舌”だ。片方が真実を言い、片方がウソを言う。どちらが真実を言っているのかは判別不能」
イルベルトが根本で繋がる粘液塗れの舌ベロを拾い上げると、ネチョリと音がしたのを聞いて、僕らは「おえ」と口元を抑えた。すると舌が揺れて話し始める。
「イルベルトは魔女だ!」「イルベルトはしがない魔道商人だ!」
舌に言われたイルベルトは、「こいつめ」と言って、クロースの上に二枚の舌ベロを投げ出した。
怪訝な表情を見せたスノウが僕の袖を掴み、耳元でそっと言う。
「今、魔女って言わなかったかい?」
「偶然だよ。どちらかが嘘を言ってどちらかが真実を言うんだ。彼は男性だし、魔導商人なのは紛れもない事実だろう?」
視線を落とし始めたスノウを少し不思議に思っていると、弾んだ少女の声が商人に話し掛け始めたのに気付いた。
「これは?」
リズが小さな植木鉢を抱えて前に突き出すと、商人はハットのつばを整えながら答える。
「“ロンドベル庭園の魔草”。甲斐甲斐しく世話をすれば花開いて心地の良い音を鳴らし、世話を怠ればつぼみに戻り、烈火の如く泣き喚く。銀河のように瞬く庭園より拝借して来た」
瞬く銀のつぼみを見詰めながら、リズは目を丸くして植木鉢を戻していった。そして最後に残された生臭いウロコにスノウは眉を下げる。
「これは“ズーのウロコ衣”だ。キミたちは何やら怪訝な表情をしているが、これが一便高価な物だ」
魚に似た生臭さに鼻をつまんでいると、衣であったらしい何かの皮切れをイルベルトは広げてみせた。途端に広がる悪臭に嗚咽していると、彼はこう説明を始めた。
「ズーは悲惨極まる毒沼地帯に生息する生物の事だ。こいつの皮はあらゆる強酸や毒も通さない」
それを聞いた僕の瞳が色めき立ったのに気付いて、スノウはほくそ笑みながら僕に頷いた――
――この衣があれば死の霧を越えられるかも知れない。
さっきまであんなに鬱陶しく思っていたウロコの布が、金銀財宝の散りばめられた至宝のように思えて来た。僕はイルベルトの広げた“ズーのウロコ衣”を指差して大きな声を出していた。
「それが欲しい!」
「これが? ……しかしこれは非常に高価な」
「お金なら持って来たんだ!」
僕はポケットから家に貯め込んであったありったけの硬貨を詰め込んだ袋を三つイルベルトに渡す。慌てふためいて顔を真っ赤にしたリズが、僕に飛び付いて首をブンブン振っている。
「だっ、ダメだよレイン。お家のお金……あんな大金、訳の分からない衣に使ったら」
僕はイルベルトに聞こえない様に、彼女にそっと耳打ちした。
「大丈夫さリズ、リセットが起こればお金は元通りになるんだ。それより僕らは、死の霧を抜け出す為に絶対あの衣が欲しい」
「さ、詐欺だよ〜そんなの」
リズの制止を無視して、小袋の中身を確かめ始めたイルベルトを見上げる。お父さんの残したお金も持って来たんだ、これで足りないなんて事は無い筈だ。
――だがしかし、頭を悩ませたイルベルトは首を振って、小袋を三つとも僕らに投げ返して来た。
「その貨幣に価値は無い」
「えっ、価値が無いって……アルスーン王国の正式貨幣だよ!? この大陸じゃあ、何処に行ったって……」
ため息をついたイルベルトは、何か悲観しているかの様な、くぐもった声を発する。
「やはりそうなのか……しかし悪いな、
突き返された小袋を握り、僕らは三人顔を見合わせる。確かにイルベルトは昨日も、アルスーン王国は滅びたなんて言っていた。けれどそんな話し、証拠でも無ければ信じられる訳が……
「私が求めているのはこれだ」
そう言ってイルベルトは、ポケットから緻密な刻印のされた硬貨を数枚取り出して僕らに見せた。精密に作り上げられたそれは、とても彼が個人的に、僕らを欺く為だけに作り上げた代物とは思えなかった――
「フォルト硬貨。今この大陸で価値のある貨幣は、これだけだ」
彼の示した真実の証明に、僕らの開いた口は塞がらなかった。
しかしそれは反対に、
額に手をやり首を捻ったイルベルトは話し始めた。
「キミたちが、単に古い貨幣を持ち合わせていただけとの可能性もある……だが、ここまでに得た情報から整合性を得ようとするならば、やはり――」
そして僕の考える仮説の内容は、項垂れたイルベルトの口から語られる事になった。
「
リズとスノウが、驚愕として僕を見つめていた。
――そうだ、そうなんだ。イルベルトと僕らの間でズレていたのは“今日”ではなく――
つまりそれは、僕たちのこの村が、外界で流れ去る時間から隔絶された事を意味していた。
「ふぅん。妙だ、誠に妙だねこの村は……こんな所で牧歌的に暮らす、キミたちと言う存在も」
「……え?」
「時に……今日はキミたちの認識の、何年何月だ?」
「××年の十二月二十四日だよ」
僕の述べた日付を聞いた途端、仮面の向こうの毛髪が逆立ったのに僕は気付いた。けれど彼は多くを語ろうとはせずに、放心したまま僅かな雲間に覗くオレンジの陽を見上げ、物憂げに紅茶を口に含んだ。僕もまた残る紅茶を一気に飲み下してから口を開く。
「わかっただろう、これは僕らだけじゃなく、キミにとっても重大な話しなんだ。だから話しを聞かせて欲しいんだ。僕らの知っている情報も、全部キミに答えるから」
未だ思考の収集が付いていないリズとスノウを置き去りにしてイルベルトへと詰め寄ると、俯かせたハットが揺れ始めたのに気が付いた。つい先程までの、彼の生気を抜かれた様相はもう消え去っている。
「私は今興奮冷めやらぬ状況だ。何故だかわかるか、それは私の魔導商人としての血が騒ぎ始めているからだ。我々は旅をして、各地にある未知を回収して渡り歩いていている。魔導商人とは皆、そう言った
不敵な笑いにゴクリと喉を鳴らし、僕は頷いた。
それからイルベルトと情報を交換しあった、僕らの置かれた状況や繰り返しの事も伝えた。彼自身ももう何度もこの日を繰り返しているのだという事も伝えたが、何故だか絶望した様子もなく、むしろ嬉々としている事が声音から感じられた。これが魔導商人とやらの未知への探究心と言うなら、異常というより他が無い。
彼についてまとめた情報はこうだ――
・彼はここより遠くの東の地、フォルト領のアリオールという都から旅をして来たというが、どちらの名も、僕らの認識では存在しないものである。
・東から来たのであれば、僕らよりも死の霧に近い筈であるが、彼はそんなものは無いと言う。
・僕らの属するアルスーン王国は、もう滅びた国だと彼は言う。
・エルドナとアルスーン王国との戦争が集結した日は、僕らの認識では××年の十二月二十三日だが、彼はもっと後だと言う。
・霧の魔女は死んでいない、ただしひどく弱っているのだと彼は言う。
・霧の中、ズラリと並んだ石の壁を見つけた彼は、巨大な風穴を見つけて中を覗き込んだ。すると次の瞬間、白い濃霧に飲み込まれて、見える世界が変わっていた。背後の穴は消え去って、宵の空は朝陽に変わっていたらしい。
・村から見えている外の景色が、彼が先程まで見ていたものとはまるで違う。だが確かに、大陸における座標としては一致しているらしい。
・イルベルトと僕らの認識では、八年もの歳月のズレが生じていた。
「私の話しを全て信じるかもキミたち次第だがね」イルベルトはそう締め括った。
全て聞き終わると僕らは三人、硬直するより他が無かった。余りにも衝撃的過ぎる事実が、彼の口から幾つも語られたからだ。この沈黙を破り、嘆きに近い声で話し始めたのはリズだった。
「八年も……八年も外での時間が流れてるって言うなら、どうしてお父さんは帰って来ないのっ?」
顔を掌で覆ってうずくまったリズに続き、スノウは混乱した視線を彷徨わせる。
「アルスーン王国は滅んだ……? だったら僕らが聞いた昨日の知らせはなんなんだ? 霧の魔女は死んだって、戦争も終わったって意味なんだろう」
僕も動揺する二人に上手く言葉を返せないでいる。真一文字に縛った口から言葉が出て来ない。イルベルトの口から語られた真実はそれ程までに僕らの認識を震え上がらせるものだった。途端にこの世界の事がわからなくなってしまった。もう少しで見えると思っていたものが、全て霧が作った幻影であったかの様に形を変えていってしまう。
頭を振るった僕は数ある疑問をひとまず置いて、イルベルトに懇願するように手を伸ばす。
「この村であり得ない事が起こっているんだ。キミがここに訪れたのがどれ程前かはわからないけれど、それ程昔じゃないと思う。それでも僕らはキミの話しによると、約八年もの歳月をこの村の中で繰り返しているんだ」
僕の伸ばした手を見下ろし、イルベルトはまた勢い良く足を組み替えた。彼は僕の手を取ろうとはせずに、ティーカップに紅茶を注ぎ直しながら言った。
「繰り返しか……諸君は先ほど私に言ったね。同じ姿、同じ環境、同じ記憶で同じ一日を繰り返し続けていると。その点に私は
「そんな、僕らの言っている事は本当だよ!」
「キミたちに一つ教えよう。どれ程強大な魔術師をもってしても、覆せない万物の
眉をひそめた僕らにイルベルトは言った。
「
完璧なるループが完成していれば、僕達はここで一生この一日を繰り返し続ける。それを不老不死だとイルベルトは定義するらしい。
前に出たリズが必死な表情をしてイルベルトに訴え始めた。
「でも、私たちは確かに繰り返しているわ。この姿を見て、八年もの時が流れてるんだとしたら、私たちはもう大人になっている筈だわ!」
「ふぅむ……しかし仮にそう体感しているのだとすれば、それは疑似的な模倣に過ぎない。史上最高峰の魔術師と呼ばれたあの霧の魔女であったとしても、
「綻び……?」
「そうだ。諸君が完全に同じ一日を繰り返しているのだとすれば、この呪いの自覚さえする筈がない。いや出来無い筈なのだ。しかしキミたちは度々に繰り返しを自覚するという。それもまたこの世界に生じている綻びの一つなのでは無いのかね」
確かに言われてみればその通りだ。完全に同じ条件で記憶も行動も繰り返しているのなら、僕らがこの呪いに気付く事も無い。
綻び……神に背いたこの世界には、幾つかの欠落があるという事だろうか?
「でも、それでも僕らが繰り返している事は本当なんだ。それは信じてくれるイルベルト?」
持ち上げていたティーソーサーをテーブルに置いたイルベルトは、顔の横で踊るフクシアの花弁が、魔法の砂による効力を終えて頭を垂らしていったところを指で撫でた。
「私はこれまで魔道商人としてあらゆる未知を探求して来たが、これ程までの現象には遭遇した試しが無い……やはりその繰り返しとやらは否定せざるを得ない」
「そんなぁ!」
僕らは反感の意を込めて、三人一緒になって彼に抗議する。まずはリズが、次にスノウが、そうして僕がイルベルトの前に出て口を開く。
「じゃあ、私たちがアナタの名を知っていたのは?」
「何処ぞで聞き及んだのかも知れない」
「ここに来た時、見える世界がまるごと変わってしまったって言ったのは?」
「大規模かつ高濃度での魔術の干渉があるならば、それは不可能ではない」
「キミと僕らの時間軸がズレているって事は!?」
「……目下検討中。まだ確定はしていない。諸君の記憶領域への魔術の干渉であるとも考えられる」
「ああもうっ、大人って……!」
するとイルベルトは言う。
「すまないな、大人になる程、夢に没入出来なくなっていくのだ。キミたちも、時が経てばそれを理解する」
仮面の向こうに見えた煌めく緑の眼光――やっぱり大人なんてくだらない。何にでも疑り深くなって、信じるべき事さえ見えなくなっているんだ。僕はチンケなものを見る目で彼を睨み付けてやった。
「それなら僕らは、大人になんてなりたくないよ」
イルベルトは僕の言葉をしっかりと胸に留めたかの様に深く頷く。そしておもむろに立ち上がり、足元の大きなカバンにティーセットをそのまま仕舞い始めた。
「面白い話しを聞かせて貰ったよ。なんだ、どうしたんだその怪訝な目は? 私はキミたちがウソをついている言うのでは無いよ。ただ何か見落としがあると、そう言っているんだ」
ティーセットを仕舞い終えたかと思うと、今度はテーブルや椅子までカバンに押し込み始めたイルベルト。どこにそんな容量があるのか、詰め込まれるだけカバンは飲み込み続け、そのサイズが肥大化する事もない。これもまた彼の魔道具の一つなのだろう。
「どこに行くのさ、まだ話しは終わってないよ!」
「もう夕刻だ。諸君は夜会とやらに行くのだろう、村の女たちから聞いた。私は寝床を探す。こんな雨漏りでは寝られないからね」
見上げた天井からは、いつの間にやら降り始めていた雨粒が垂れて来ていた。夕暮れのオレンジも向こうの空に消え掛けている。それでも僕は、足元の魔道具を片し始めたイルベルトの背中に必死に呼び掛け続けた。
「助けてくれないのイルベルト? キミも繰り返しているんだよ?」
「そうか。ならば、明日の何もかも忘れ去った私にまた質問しに来るが良い。存外察しが良いので、苦労もなく助言を聞ける事は保証しよう」
「そんな、待ってよ、まだ聞きたい事が――」
振り返るでもないイルベルトの長い手から、銀の花弁の垂れる小さな植木鉢を押し付けられた。ズイと押されて思わず受け取る。
「キミたちに貰った未知への対価だ。それではまた」
大きなカバンに跡形もなく全てを詰め込んだ彼は、僕らに華麗なお辞儀の一つをして、雨粒の垂れる空の下を歩き始めた。
「それでは少年少女諸君、明日があるのならまた明日。明日が来ぬならまた今日に会おう。誠に妙な言い回しだがね……」
過ぎ去ろうとする彼の細長い背中を見詰めていると、最後にこれだけは聞いておこうと思い至ったのか、リズが雨空の下に出ていった。そして大きな声で叫ぶ。
「戦争はどっちが勝ったのーっ?」
アルスーン王国は滅びたとイルベルトは言った。だから返って来る返答に予想は着いた。悲観に暮れて涙ぐんだリズと隣り合い、イルベルトの声を待っていると、過ぎ去りし仮面の背中は雨粒の中でこう答えた。
「どちらとも無い」
全くもって予想外の返答。争い合った国と国との闘争に、そのような結末があり得ようか?
宵の闇に消えていく背中――彼は最後まで怪しく、掴み所のない人物であった。まるで霧の様に。
*
冷たい雨降りしきる闇の中を、村人たちが酒場に向かって歩いている。浮き足立った彼女たちは何も知らずに、僕らに向かって微笑んだり、手を振ったりしていた。イルベルトの話しを信じるならば、僕らは約三千日もこうして夜会に出向き続けているというのに、誰もがそれに気付かずに、ハリボテの真実を信じ続けている。
お母さんを迎えに早足で家に帰る道中、肩を落としたリズへと振り返る。
「リズ、夜会に行こう。僕らと一緒に」
雨除けなのか人目を避ける為か、深く被られたフードの下で彼女の表情が引きつった。ただでさえ先程の衝撃を飲み込めていない上に、まだ考えるべき事も多いけれど、僕らはこの繰り返しの毎日を生きていかなけらばならないんだ。
「でも……みんなが嫌がるから、楽しい雰囲気に水を差したくないから……」
リズは顔の前で勢い良く手を振り、頬を赤くしながら足を止める。そんな事考えてもみなかったという表情だ。そんな彼女に僕は言う。
「キミにとって、とても勇気のいる事だってわかってる。だけどもうずっと質素な食事しかしてないんだろう? 夜会に行けば好きなものを食べられる。それにキミだってこの村の――」
そこまで言った所で、リズは逃げるように走り去ってしまった。「ごめんなさい!」そう残して、彼女の後ろ姿が闇に溶けていくのが見えた。
リズは僕らの手を取ってくれた。この繰り返しを抜け出そうと一歩前に踏み出してくれた。けれど早計だったかもしれない。僕はこうして無意識に彼女を傷付けて来たんだ。するとそこでスノウは僕を振り返らせた。
「彼女自身で変わろうとしなければダメだ」
彼女は恐怖しているんだ。村のみんながなにか恐ろしいものに見えて仕方が無いんだ。スノウが言うように、彼女自身がそれを望まない限り、それは変わらないのだろうか?
――でも彼女の事を深く傷付けたのは僕らだ。彼女が勇気を出すのをただ待っているだけでは無責任だと感じたんだ。
だから僕は白状する――
「彼女の手を引きたかったんだ」
夜の家路につきながら、僕らは並んで家へと向かう。草木を打つ雨音と、冷たい夜気を行きながら。
「キミは優しいね」
僕の心を読んだみたいに、スノウはそう言った。
*
いつものように夜会に出向いた僕らは、同じ喧騒を側に聞きながらお母さんと一緒に席に着いた。テーブルに広がるご馳走を眺めていると、リズにも食べさせてやりたいとそう思った。
少しだけ食べてから、楽しげな宴の席で僕は一人顎に手をやって考え込んでいた。
「どうしたのレイン、手が進んでいないわ」
お母さんが心配そうに僕を覗き込む。すると次に、困惑したように辺りを見渡し始めた。
「ねぇ、スノウはどこに行ったのかしら?」
そう言って咳込み始めたお母さんに、僕は首を傾げながら答える。スノウならずっとそこに居るじゃないかと。
「居ないわ、居ない。側に居たら、私はきっとわかるもの」
そこのテーブルで無愛想にしている彼を僕は指差すが、お母さんはまだスノウを見つけられないでいるらしい。ひどく不安げな表情をするので、僕は彼に合図を送った。そうすればきっとお母さんの目にも彼が映るから。
席を立ったスノウがピアノへと向かい、歩んでいく。瞳に輝きを取り戻したお母さんを確認すると、僕はまた思考に
アレクサンドル・スクリャービン『十二のエチュード』作品八第十二番より――「悲愴」
タイトルこそ悲しげであるも、スノウの奏でるこの曲は、並々ならぬ情熱と気迫に満ちていた。
先刻奏でたショパンによる「革命」を彷彿とさせる焔の閃光――
その熱情と勇ましさに、悲しみに暮れるのも忘れた観衆の表情に、明るい灯が灯っていくのが見える。
それはこの繰り返されるメロディに、みんなの魂が高揚していく為だとわかった。
栄光と情熱。あらゆる苦境に立ち向かう猛き心が、滑るようで煌びやかな、スノウの美しき旋律に乗って繰り広がる。
――僕はまた思考する。皆がステージに釘付けになる最中で、親指の爪を噛みながら前屈みになって。モヤの消えた洗練された意識の中で、スノウの音楽と同調する。
イルベルトは言った。この村の外では八年の歳月が経過していると。その年月の中で、アルスーン王国は滅びたのだと。イルベルトは壁に空いた風穴からこの村に立ち入ったとも言った。そんな穴なんて何処にも無いけれど、僕らの生きるこの空間が外の世界とは隔絶されているのならば、この呪いの外と中とでは違う観測になるのかも知れない。
僕らは刻に置き去りにされたんだ。まるでスノードームの中に閉じ込められたみたいに……
この呪いの境界はおそらく、あの石の壁の外にある。昨日投げたあの石が再配置されていない事から、このループを出たんだと結論付けられるからだ。つまりあの石の壁の外に出てしまえば、僕らもまたこの繰り返しから逃れられると言う事だ。
だけど石の壁の外には死の霧が蔓延している。イルベルトは外から見たから死の霧が無いなんて言ったんだ。多分壁と境界に僅かな隙間があって、きっとそこに当時のままの――つまり八年前の十二月二十四日の状況のまま魔女の脅威が吹き荒れているんだ。……〈死んだ命は還らない〉。今日発覚したこの決定的なルールの一つがある以上、無闇に壁越えは考えられない。当然壁を壊したり門を開くのもダメだ。死の霧が村に流れ込んでしまえば、みんな死に絶えてしまうんだから。つまり僕らはあの壁を越える為に、どうにかしてイルベルトから“ズーのウロコ衣”を手に入れなければならなかった。
『スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない』
――いつかのイルベルトの言葉を思い起こす。
けれど新たなる真実は同時に、僕の中にあった仮説の一つを否定した。僕はこの村で起こるリセットが、ある種の死に戻りで発生すると思っていたけれど、どうやらそれは違うみたいだ。……ならばなぜ今日という日にリセットが起こるのだろうか。ただの霧の魔女の気まぐれなのだろうか? しかし僕には何故か、そこに理由があるような気がしてならないんだ。
ドラマチックなメロディが、より一層の盛り上がりを見せて炎を吹き上げた時、打鍵するスノウの指先と汗が、すぐ眼下に見えた。月明かりに映る白銀の髪が弧を描いて揺れる――
今日明らかになった
歯切れが良く、スノウの演奏がそこで終わった。強烈な炎の鎮火、残る余韻に緩やかな白煙が昇る。強く打ち付けられた彼の指先が下がると、呆気に取られた静寂の後に、みんなが手を打ち鳴らして喜んだ。
*
家に帰り、お母さんとの抱擁をする僕ら。
「大丈夫よ、心配しないで。明日もきっと同じ一日が……ゲホッ……」
「お母さん?」
咳き込みながらよろめいたお母さんに驚いて歩み寄ると、差し伸ばされた手のひらが僕らの頭を順番に撫でていた。だけどまだもう一方の手を口元にやって、少し苦しそうな顔をしている。
「大丈夫よ。少し夜風で冷えたみたい」
こんな事今まで一度だって無かったけれど、頭上ですっかりと笑顔を取り戻したお母さんを認めて、気にする事も無い些細な変化だと思った。
「おやすみなさい。スノウ、レイン」
「うん」
「おやすみお母さん」
二階の寝室で服を着替えた僕らは、寝支度を済ませて屋根裏に上がっていく。今朝方置いておいた変なキャラクターのメモはまだベットの上だった。
屋根裏に戻った僕とスノウは部屋に灯りを灯すと、イルベルトに貰った“ロンドベル庭園の魔草”を枕元に置いてから、ドッと押し寄せた疲れにへたり込んだ。今日はいつにも増して様々な事があった。頭も体も休息を求めている。だけど僕にはまだやらなければならない事があるんだ。
「今日あった事を、全部メモに記しておかないと」
「後でもいいじゃないか」
「後にすればきっと嫌になる。今やるんだ」
眠い目を擦りながら、僕はメモに今日あった事を記し始めた。スノウは僕の後ろからそれを覗き込むようにしている。
欠伸をしながらイルベルトの素性を書いていると、僕はふと疑問に思った事があって、背後で船を漕ぎ始めたスノウに問い掛けた。
「どうしてお父さんたちはこの村に帰って来ないんだろう。この呪いの中へと、難なく立ち入れるという事は彼が証明したって言うのに」
「アルスーン王国が滅びた事に、何か関係があるのかな」
「そんな……お父さんたちが死んじゃったって、キミはそう言うのかい?」
「イルベルトは霧の魔女が生きていると言っただろう? それは魔族たちの脅威が、未だ根絶されてないって事だ」
「でも、イルベルトはこうも言った――この戦争に勝者はいないと。ならば何か事情があって帰って来られないでいるのかも知れない。村のみんなや、リズのお父さんだってみんなそうだ」
とうとうシーツに包まり始めたスノウが「うん、そうだね。それを確かめに行かなくちゃあね、村の外へ」と言った。未だ羽ペンを握る僕は「そもそも、どうして戦争が終結したなんて誤った情報を、昨日の使者は僕らに伝えたんだろう」と聞いてみた。
「スノウ……?」
「…………」
返答はなかった。早くも夢の世界に旅立ってしまったのだろうか。
程なくメモを記し終えた僕は、部屋の明かりを消して、スノウの横でシーツに包まった。側には銀の花弁を垂れる魔草があって、闇でほのかに光を放っている。明日水をやろう、そしたらいつかこのつぼみも花開くかも知れない。魔草の奏でる美しい音というのも気になる。
明日すべき事を考えながら、僕は瞳を瞑る。今日はすぐに眠りにつきそうだ。
二十二時を告げる鐘が鳴るとその時、不意に隣から聞こえた――
「何か思惑があったんじゃないの?
「……起きてたのスノウ、何か言った?」
スノウの指先がまたシーツの上を踊り始めた。あの曲をいつか奏でる事を夢見て。
返答を待っているその僅かな間に、僕は眠りについてしまった。鐘の音が響き、闇の中で語られた彼の口調が、頭に繰り返される。
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