“三日目”

   三日目


 屋根裏で夜を明かした僕らは、示し合わせるでもなく同時に意識を覚醒させる。シーツを蹴り飛ばして寸分狂わぬ陽気を一瞥するが、同じ日が延々巡る絶望に落胆している暇もなく、思考は村に掛けられた呪いの事へとシフトしていく。シンメトリーな窓枠の影の下にしゃがみ込んで、スノウを呼び寄せた僕は、寝る間もポケットに押し込んでいた、呪いのルールについて記したメモを取り出した。残念なことに、昨日この村が繰り返しているという事実は確定した。だけどまだ、過去の僕らが記したらしい情報の三点が未確認のままだ。

・〈石の壁の外には、既に死の霧が充満している〉

・〈リセットによって村に残した痕跡は消え去り、全てが“今日”の始まりに戻る〉

・〈これら全てが、霧の魔女によって仕向けられたである〉

 摩訶不思議なこの呪いが、魔女のものであるかの確証は依然ない。そして二つ目のルール。ここに記されている今日の始まりに戻る、と言うのがどこまでの範囲を言っているのか。定刻に移ろう空模様から環境が繰り返している事、村人たちとの会話から記憶が巻き戻ってしまっているという事は既に分かったけれど、例えば村人たちの肉体の変化はどうだろうか? それについても今日判明するだろう。

 問題は――〈石の壁の外には、既に死の霧が充満している〉とあるこの点だ。死の霧の性質が曖昧な以上、これをどう検証するか、と言うのも念頭に置かなければならないけれど、僕はそれ以上に、に対して思うところがある。視界の端に積み上げられたメモの山を見ながら、どうにも納得がいかない点に頭を捻る。それを共有するように、僕は仄かな日差しに照らされたスノウへと口を開いた。

「僕らは一日の終わりにその日にあった出来事をメモに記しているだろう?」

「ん……?」

「この村がループしていると言うのなら、ここから出ようと言うのが一番に浮かぶ思考だと思わない?」

 興味を示したのか、腕を組んでこちらを見やったスノウは言う。また耳の上の毛が跳ねている。

「村の出入り口は固く閉ざされたままなんだ。それに、この村を取り囲んだ石の壁の外には、死の霧が蔓延まんえんしていているんだろう?」

「うん、だけど僕らがこのループを抜け出すためには、やっぱりここを抜け出さなくっちゃ行けないんだ。どうしたって最終的にはそこを目指す他が無い筈だ」

 唇を尖らせ、目を細めたスノウに僕は続けた。

「まずはこの村を出ようと考えるのが普通だ、何枚かのメモにはそれに対する考察もあった。壁越えを目論むその計画もさ。だけどそれを実行に移したと言う記載は一切無かった。どうにも腑に落ちないとは思わないかい?」

 首を少し斜めにしながら感心したように眉を上げたスノウ。僕らが今後執心していく最大の脅威は、おそらくはこの死の霧の事になるだろう。それにしても、過去の僕らはどうこの真実を確認したのか、村人たちの話しを鵜呑みにした可能性だってあるし、死の霧が迫るのが今夜だと言われている事からも、その検証は何らかの形で夜間に行われ、朝方にはまだ霧は迫っていないのかもしれない。……ただ不思議なのは、どうして死の霧の検証方法も過去の僕らはメモに記していないんだろうか?

 様々な可能性を模索しながら、僕らは屋根裏から寝室に降りた。身なりを整え準備を終えた僕らは、一階に降りて三人分の朝食の席に着いて食事を終える。

「行ってくるねお母さん!」

 夜会に向けて卵の運搬をするのだと思い込んでいるお母さんは、僕らの背中を笑顔で見送った。

 カゴを持って玄関を出た僕は、曲がり角の脇にある、大きめの石につまずく。カゴを持っているから足元を見ていないのもあるが、いつもいつも、どうしてこいつにつまずくんだろうと考えると、リセットによって村の環境が再配置されている事を思い出す。何度蹴り飛ばしたって、こいつは僕の進行上にまた戻って来てるんだ。

「……そうだ、この石を使えば」

「なにを試すつもりなんだいレイン」 

 妙案を思い付いた僕は、忌まわしい石の一つを拾い上げながらスノウに微笑み掛ける。


   *


 僕らは村の最南端に位置する鶏小屋にやって来た。僕らの管理している木組の小屋の奥には草木が生い茂って、そこには十メートルともなる石の壁がそびえている。ここには他に何も無いから、基本的には僕ら以外の人が立ち入ることもない。

「まずは死の霧の検証だ」そう言って先ほど拾った石ころを握り、振り被った僕にレインは固唾を飲む。

 十メートルという壁の高さは下から見上げるとかなりの高所に感じられる。それにこの石は思い切り投げるのではダメだ。山なりに投げて、壁の向こう側にピタリと着地するように投げたいんだ。切り立つ壁に時折吹き上がる強風。厳しい状況で何度も壁に跳ね返されて来た石ころであったが、僕らは繰り返し茂みに入っては石を拾って来て、遂に目論見通りの放物線を描くことが出来た。狙い通りに壁の裏側にピタリと石は落ちた筈だ。

「……で、死の霧の検証にはなった?」

 何の異変もないまま壁の向こうに消えていった石ころを見やり、スノウは半分呆れたような目で汗だくの僕を見下ろす。

「もしそこに死の霧がもう来ているなら、石ころなんかには効果がないって事がわかった」

「……」

「なんだいその疑り深い目は、僕の検証の結果は明日、明らかになるんだよ」

「明日……?」

 次に僕らは鶏小屋に入っていく。驚いて走り回り出した鶏の羽が舞い散り、スノウは嫌そうな顔をして羽を払い除けている。

「レイン、なにを……?」

「明日になったら元に戻るんだ。少し残酷かもしれないけれど、確かめたい事があるんだ。ほら、スノウも手伝って!」

 今度は羽まみれになって小屋の中を走り回る僕たち。やがて一匹の鶏を捕まえると、揉みくちゃになりながら外へと出る。僕の腕の中で暴れ、勇ましく鳴いた鶏を見やり、スノウは首を振った。

「一体何なんだい、もうこんなこと懲り懲りだよ」

 鼻をすするスノウに口角を上げながら、僕は鶏の足に小屋から持ち出したロープを括り付けて、そこらの木に結んだ。

「こいつをあの壁の外に放り出そうと思ってね。そうしたら壁の向こうに死の霧が蔓延してるのかわかるだろう?」

「キミって少し残酷なことを考える事があるよなぁ」

 スノウの言う通りだけど、この子たちも明日になったら元に戻るんだ。これは呪いの核心に迫る問題だから、確かめない訳にもいかない。けたたましい鶏の声を聞きながら、僕らは壁の近くに埋まった大きな岩に、長細い木の板を持って来てシーソーを作る。岩を隔てて向こう側の板の上に乗せた鶏を落ち着かせ、木に括ったロープを外して手に握る。僕は中間の岩に立ってタイミングを計りながら、スノウに向かって叫んだ。

「いくよスノウ! しっかり見ててくれ」

「ああもう、本気なのかいレイン。鶏が壁に衝突するような、残酷な光景を僕は見たくないよ」

「せーの――っ!」

 鶏とは反対側の板の飛び移った僕は、空に高く飛翔していく羽音を聞く。仰ぎ見ると、青空の下をゆっくりと鶏が羽ばたいていくのが見えた。

「やった、成功だ!」

「でも、向こうに投げ込んだってなにも確認できないだろう?」

「その為に紐を括り付けたんだ。一度壁の向こう側にいかせて、このロープで引っ張り戻すんだ」

 高い石の塀を遥かに越えて、鶏が外の世界へと飛び出した瞬間だった――

「――――ッ!?」

 僕らが見たのは、陽射しに照らされながら、骨になって消滅していった命の光景だった。石の壁から吹き上がった突風が、骨と皮だけになった亡骸を押し戻し、僕らの足元に落とす――

 絶句した僕は、もう引っ張り込んで確認するまでも無くなってしまったロープを手から落とした。すると壁を越えた先から浅黒く色を変えたロープが戻って来てボトリと落ちた。

・〈石の壁の外には、既に死の霧が充満している〉

 ――これか、これが……

 僕らの命を奪い去らんとする死の脅威は、既にこの壁の向こう側で僕らを待ち望んでいた。

「レイン……鶏の数が合わない」

 腰が抜けて、未だ立ち上がる事が叶わない僕に、小屋の前に移動していたスノウは沈んだ目を振り返らせた。

「昨日まで、確かに二十羽いた筈の鶏が、今のを差し引いても……十七羽しかいない」

 訳が、わからなかった……。まるで風化したようにボロボロになった鶏の骨が、僕の眼下で崩れていった。


   *


 ――外にはもう既に死の霧が充満していた。どうしようもない脅威が僕らを包み込んでいたのだ。過去の僕らもきっと、この絶望を目の当たりにしてさじを投げたのかも知れないと思った。死の霧が既に村を包囲しているという真実は、僕らの未来に完全に蓋をされてしまったのと同じなのだから。

 沈んだ顔付きで酒場へ卵を持っていくと、茫然自失としたその帰り道にティーダと出会う。

「ようレイン! じゃあ夜会でな」

 昨日の事が、まるで何事も無かった事のように――いや、彼にとっては本当に何事もなかったのと同じなんだ。何も覚えてはいないんだから。

「ちょっと待ってティーダ」

 僕は活気の無い声のまま腕を水平に伸ばしてティーダを止めた。驚いた顔で立ち止まった彼の、昨日擦りむいた筈の右膝を凝視する。

「無い……傷も、なにも」

 昨日彼の体に刻まれた筈のは、そこからは完全に消え去っていた。本当に、昨日なんてものが無かったとでも言うかのように。

・〈リセットによって村に残した痕跡は消え去り、全てが“今日”の始まりに戻る〉

「な、なんだよレイン……」

「……いやなにも、ごめんねティーダ。足を止めさせて」

 浮かない顔の僕を不思議がりながらも、彼はミルクタンクを頭に乗せて走っていった。トボトボ歩く僕の背中に、グルタに貰ったリンゴをかじりながらスノウはついて来る。

「……ダメだ。この呪いは完璧だ。肉体の変化でさえも巻き戻し、完全に僕らを包囲している。もうどうする事だって出来やしない」

 すっかり落胆した様子の僕へと、スノウは何を言うでもない。残されたメモの内容は、この呪いが魔女によるものなのかどうかという事。それが判明したところで、今直面していえる状況が好転する訳じゃない。……つまり、僕らの残したメモの内容は、ほぼ全て検証を終えたと言っても過言では無かった。

 だがその時、一つの現象が脳裏を掠めて僕は足を止めていた。

「肉体の変化さえも……巻き戻し……」

 それはまるで悪魔の囁きだった――そうして僕は正気ではないモノに取り憑かれながら、一つの思惑に支配される。

「……明日になったら肉体も全部元通りになる。だったらいっそ、一か八か――っ」

 だがそこで、狂気に呑まれ掛けた僕の肩を後ろから掴む者が居た。振り返ると、スノウが顎でこの道の先を示しているのに気付く。

「ヤケになる前に、話しを聞いてみても、いいんじゃないかな」

「……?」

 スノウの視線を追っていくと、井戸の側の大木に人だかりが出来ている。確認するまでも無く、あの仮面の商人が現れる時間である事は理解していた。あまり気乗りしないままスノウに手を引かれた僕は、今度は人混みに入らずに、井戸のヘリに腰掛けながら彼の話しに耳を傾けた。仮面の商人は腕を組み、大木にもたれ掛かったまま、なにやら品位のある言葉使いで村の女たちの声に答えていた。

「今日ここに来たってあんた、村を囲んだ石の壁はどうやって越えたんだい、十メートルはあるんだよ? 全然役目を果たしてないじゃないか」

「石の壁……それが今見えているアレの事であるならば、私自身も誰かに問い質したくて堪らなかった。あれはなんだ? 巨大な風穴があったから中を覗いてみれば、次の瞬間には穴は立ち所に消え去り、私の退路は閉ざされ、見える世界が変わっていた」

「今晩にはここいらにも死の霧が立ち込めるってのに、外を出歩くなんてとんだ命知らずね」

「死の霧……? そんなものは何処にも無かった」

「あなたは誰で、何処から来たのよ? 誰か知ってる人はいる?」

 仮面の男は長細い四肢をしなやかに動かして、焦げ茶のハットを外して華麗なお辞儀をして見せた。

「私は馬に乗って東の国から来た。流浪の魔導商人イルベルトだ」やや歳を食ったような、落ち着いた声音だった。

 ひとしきり彼の話しを聞くと、僕はどん詰まりの未来に僅かな希望が射した事に気が付く。瞳に光を灯らせながら、思わず立ち上がっていた。

「スノウ聞いた!? 死の霧なんて無いって言ったよ!」

「そうだね……けれど、他の話しもまるでちんぷんかんぷんみたいだけれどね」

 ……確かに、まるで道化師の様な出で立ちの彼――魔導商人などと名乗るイルベルトの口から溢れ出す言葉は、全くのデタラメの様にも思える。いつ何処から湧いたやもわからぬ彼は、余りにも怪しく、不気味な存在だった。村の女たちの問答は続く。

「ちょっとちょっと、なーにを訳のわかんない事言って遊んでるんだい」

「訳が分からないのはこちらの方だ。こんな土地に生者が居るはずもないのだ。ここから見える緑や山々もだ、全てが妙だ。誠に妙なのだ。まるで誰かの夢想に彷徨い込んだかの様だ」

「こんの〜、ちょっとあんたこっち来なさい!」

「お、ぉ……おおお……っ、余り手荒な真似は……やめろ、首根っこを掴むな」

 村一番の腕っぷしに引きずられていったイルベルト……彼の腰には曲刀も下がっているというのに、良くやるなぁと思う。

 まとまって移動していった彼女たちの後を追う事も出来たけれど、僕はそれよりも気になる事があったから、そうはしなかった。そんな僕が意外だったのか、スノウは不思議そうに眉を下げていた。

「ついていけば、もっと色んな事を聞けるんじゃないの?」

「うん……でも、今じゃないと出来ない事があるんだ」

 降り始めた雨を鼻先に感じて、スノウの瞳は天上へと向かった。


   *


 村の外れ、東の方角へ向けて早足で歩いていた。やがて目的の裏通りへと辿り着くと、空の酒樽の影に身を潜めて、程無く姿を現すであろう彼女の姿を待った。

「来た……」

 とうもろこしを軒先に並べたイリータの前に、リズがやって来た。キョロキョロと辺りを警戒しても良さそうなものなのに、彼女は全く迷う素振りもなく、白昼堂々トウモロコシへと手を伸ばした。

「リズ!」

 背後からリズに向かって声を掛けた僕は、飛び上がった彼女の肩に手を置いた。するとそろそろと、まるで幽霊を見たかの様に戦慄した形相で青い瞳が振り返って来た。少し潤んだ彼女の白目はキャンパスの様に真っ白で、虹彩はサファイアの様に青く輝かしい。何処までも透き通っていて純に見える……なのにどうして、盗みなんてするんだろう。

「盗みなんて良くないよ、リズ」

「やっぱり……レイン、どうして?」

 慌てて逃げ出そうとした彼女の手を、僕はとっさに掴んだ。昨日よりも肌に切り傷が目立つ気がするけれど、それは気のせいだろう。

 するとリズは観念したように足を止めて、やっぱり穴が空く位に僕を見詰め始める。

 ――彼女たちは繰り返しているのだから、こんな事をしたってどうせ明日も盗みをするのだろう。だけどどうしても僕は、彼女が悪事に手を染める事がわかっていながら、それを黙っていることが出来ないでいた。

「お人好しだね」

 僕の背中に隠れてスノウは囁いた。

「リズ、付いてきて」

 お腹を空かせて仕方が無いのであろう彼女に、僕は柔和な笑みを向けながら手を引いていく。

「ぅぅぅ……っな、なに、するの?」

 とうもろこしを仕分けしているイリータの前に出て行った僕は、ビクつく彼女の手を引いたまま、頭を下げて頼み込んだ。

「お願いだイリータ。お腹が空いて仕方がないんだ。どうかそのとうもろこしを一つ、分けてくれないかな」

「ん、レイン……と、リズじゃないか」

 リズの姿を見て取ると一瞬顔をしかめたイリータ。顔を真っ赤にしたリズが逃げ出そうとするのを、僕は手に力を込めて静止する。

 一度息をついたイリータは、顔に笑みを作ってとうもろこしを拾い上げた。

「全く……仕方がないね。夜会では沢山ご馳走が出るってのに。朝から働き詰めで疲れたんだね、ほら」

「ありがとうイリータ!」

 僕はイリータから手渡された二本のとうもろこしを持って、リズと共にその場を立ち去っていった。

「信じられないわ、あのイリータが私に食べ物をくれるだなんて」

 そんな事を言って、頬を赤らめたリズ。

 人気が無くなった所で、僕は足を止めてとうもろこしを二本ともリズに手渡す。

「事情を話せばきっとみんなわかってくれる。そんな事をしてたら、キミのお父さんはきっと悲しむよ」

「――お父さ……っ」

 僕の一言に反応して手を振り払ったリズは、キレイな瞳に涙を溜めて、兎のように走り去っていった。黒く美しい絹のような髪をひるがえした彼女の手には、しっかりと二本のとうもろこしが握られている。

「怒らせちゃったのかな……」

「みたいだね」

 雨の中、東の壁の方へと消えていくリズの背中……僕と肩を並べたスノウは、やれやれと言った具合に鼻息をついていた。

「これを明日から繰り返すって言うのかい? 全く呆れるよ」

 スノウの苦言に舌を出して頷く。今日の彼女を律したとしても、明日の彼女はまた盗みを繰り返すだろう。だからこの行動は無意味で、ただの僕のエゴなのかも知れない。

「ごめん、でも……いつか、届いたら良いなって」

「……届く?」

 それでも僕のこの言動が、いつか彼女の心に届いて、その行動を変えられたら良いなと思う。全てを忘れて繰り返しているんだとしても、僕らの心のその何処かで、この記憶は蓄積されているとそう思いたいから。


   *


 昨日よりも少し早いけれど、夜会に向けてお母さんを迎えに行くことにした僕ら。リズはどうして怒ったのかな、なんて考えていると、日暮れになって来た雨の村。ボンヤリと遠景に緑の豊かな山の起伏を見ていると、やがて無骨な石の壁が視界に入って来た。すると悲惨な姿となった鶏の姿が脳裏に蘇る。

「あの壁の向こうには、もう死の霧が立ち込めているんだ」

 スノウは答えるでもなく長いまつ毛を伏せると、しばらく僕と並んで歩きながら、道に沿う様に咲き並んだ、雨粒を乗せたブーゲンビリアの薄赤色の頭を指で弾いた。飛散する水が僕の背中を濡らす。

「あのイルベルトの話しは、やっぱりあてにならないかい?」

 ――彼は死の霧なんて無いと言っていた……。

 心に残る微かな突っ掛かりはきっと、希望の無い未来に、道化師の言葉を信じたかったからだろう。だけどどう考えたって彼の話す内容は……

「彼はペテン師だよ……スノウ」

 ハッキリとそうとだけ答えて、視界の悪い裏通りを過ぎていこうとした時だった――

「ふぅむ、ペテン師か……」

 何気なく通り過ぎた背中に、そんな男の声が投じられた。眉をひそめた僕が足を止めると、背後から、何かを注ぎ込むかの様な物音がある事に気付く――

「――――わっ!」

 温かで芳醇な香りに振り返ると、屋根だけになった吹き抜け小屋の中心、床から突き出た赤と紫のフクシアの花弁に囲まれながら、小さな丸テーブルの側の木の椅子に腰を据えたイルベルトが居た。彼の足下に広げられた赤いクロースには、どれも見たことの無い品物が陳列されているけれど、屋根からの雨漏りでどれもこれも水滴が付着している。

「ペテンはどっちかな、少年よ」

 イルベルトは夕暮れの下で優雅に足を組んで、ティーポットからトポトポと紅茶を注いでいる所だった。しっかり色付いた黄金色の液体は湯気を上げて、華やかな香りを解き放っている。

「繰り返すが、死の霧なんてものは無いよ」

 上品にティーソーサーを胸の前に上げながら、右手でカップの取手をつまむ様に持ち上げ、顎を上げずに口を付けるイルベルト。仮面の口元だけを覗かせて、かぐわしい湯気に微笑する口元が見える。

 僕の背中に隠れたスノウ。僕は勇気を出して怪しい仮面に言葉を返す。

「死の霧が無いだって? 僕らは確かにこの目で見たんだ、石の壁の向こうには、もう魔女の霧が蔓延しているんだ!」

「井の中の蛙、大海を知らず……未だ、空の青ささえも。閉ざされた世界で生きるキミには、見えていないものがある」

 意味深なことを呟き、クッと紅茶を飲み下していくイルベルト。僕には彼の言っている言葉の意味がわからない。だけれど彼の品位ある言葉使いが、その妄言にややばかりの現実味を持たせてくる。……するとイルベルトは仮面の奥からくぐもった声を出した。

「少しわかって来た。この村について……」

 そう言ってイルベルトは足元に下ろした大きなカバンから、一組のティーセットを取り出して新たに紅茶を注ぎ始めた。少し煮詰まって色の濃いお茶が香りを広がらせると、彼はティーソーサーに乗せたカップを一つ、僕の胸に突き出した。

「さぁ、取るがいい少年よ」

 仮面の向こうから覗く未知なる眼光が僕を試しているような気がして、僕は一歩後退る。鼻で息を吐いたイルベルトは、表情も見えぬ仮面姿のまま、椅子に背もたげ、客人に断られた紅茶を丸テーブルに置いた。

「見ていくか? 私の扱う魔道具の数々だ。どれもこれも、キミたちにとっては物珍しいものだろう」

 彼が手で示した赤いクロースの上には、小瓶に入った輝く砂、不気味な二枚の舌ベロ、中に不思議な光景の広がる水晶卵、背景を歪ませている透明な何かに、巨大な羽で編み込まれた赤いブーツ、植木鉢に入った銀色の植物、生臭いウロコ付きのボロ布……まさかこれが、魔導商人としての彼が扱うだと言うのだろうか。……というか、こんな所で勝手に商いなどして随分と図太い所があるらしい。

 奇妙な品物に少しの興味も覚えながらも、僕は意を決して仮面を見上げる。

「ねぇイルベルト、僕らはキミに聞いてみたい事があるんだ」

 動揺したスノウが僕の背中を掴む。けれど僕らの置かれた状況はどん詰まり以外の何者でもない。藁にもすがる思いで、一度道化師の言葉に耳を貸したっていいかも知れない。

「ふぅむ、私としても新たなると出会えるかも知れない……か」

 唸ったイルベルトは頭上のハットを整えると、顎に手をやり長い足を組み直した。彼の腰元で揺れた曲刀の鞘が鈍く光る……

「私の知る事で良ければ」

 前屈みになってズイと顔を近づけて来たイルベルト。漂い始めた挑戦的な雰囲気に、僕は本能的に仰け反ってしまっていた。

「じゃあ……死の霧が無いって、どうしてわかるの?」

「村人たちの話しからすると、その霧は東から来るのであろう? 私はここより遥かな東、フォルト領アリオールの都から馬で旅をして来たが、そんなものを目にする事はおろか、話しすらも聞いた事がない」

「フォルト領? アリオール? 僕は地理には詳しいつもりだけれど、そんな都はこの大陸で聞いたことも無いよ」

「私も聞いてはいない。このような地に霧隠れする、スノードームの村がある事など」

「スノードーム……?」

「スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない。あらゆる環境はその球体の中で完結し、降りしきる雪も、この中でだけ起こる現象に過ぎない」

 スノウと顔を見合わせながら眉を下げる。そうして怪訝な表情のままイルベルトに振り返って首を振って見せた。

「キミの言っている事がわからない……」

「だろうな、キミたちにとってはここが真相の全てなのだから」

 含みを持たせる様な妙な言い回しを続けるイルベルト。彼の話しをこのまま黙って聞いていたら、終いにおとぎ話しでも読み聞かされているのかも知れない。なんて思った僕は話題を変える事にする。

「イルベルト、キミは昨日、霧の魔女が死んだ事は知っているのかい?」

「……霧の魔女は死んではいない。ただひどく弱っている」

「待って、死んでないなんてそんな筈が無いじゃないか。アルスーン王国の騎士たちは、魔女に確かにトドメを刺したんだ。でなきゃ戦争は終わらないじゃないか!」

「懐かしい名だ……しかし残酷な事を伝えよう。キミたちの王国はもう消滅した。人類と魔族による闘争は――」

 ――彼の話しを最後まで聞く事もなく、僕はスノウの手を引いてその場を離れていく。

「どうしたんだよレイン、まだ彼の話しの途中じゃないか」

「キミは、彼のあんな話しが信じられるとでも言うのかい? あんなふざけた世迷言を」

 怒りまなこで振り返ると、揺れる白銀の髪の隙間に、僕の残したティーカップを持ち上げていくペテン師の姿が見えた。

「そうやってキミは、真実から目を背ける」

 肩を怒らせたままその場を立ち去っていく。

 ――彼の語った言葉の全てはデタラメだ。出なきゃ辻褄が合わないんだ。

 僕らが今宵、死に絶えることに……辻褄が。

 

   *


 お母さんの手を引きながら、僕らは夜会に出向く。向こうに見える石の壁、空に覗く闇の無限が、昨日よりも恐ろしいものに思えるのは気のせいなんかじゃない。

「ごめんねレイン。今日はなんだか目が見えづらいの。アナタがエスコートしてくれるお陰で、私は無様にドレスを汚さないですむわ」

「少し疲れてるだけだよ。沢山食べてぐっすり眠ったら、きっと良くなる」

 酒場に辿り着いた僕らは、レインコートを壁に掛けてから席に着いた。

「なぁレイン、村長を知らないかい?」

 昨日も一昨日も、恐らくはそれよりもずっと前から続けていたやりとりを終えた僕は、立ち上がったフェリスが夜会の開催を宣言するのを横目に見る。

「それでは皆さん、終戦のお祝いと、夜を乗り越えるための宴を始めましょう」

 打ち合わされたグラスに、始まった喧騒。みんなが昨日と同じ表情で、同じ話しをして、見たことのある笑みを貼り付けている。みんなが誰かの手の上で踊り続ける光景が、何故だか妙に恐ろしくて堪らない。

 嘘臭いまでに見える様になった騒ぎはやがてなりをひそめ、陰鬱なる気配が場を満たし始める。もうすぐ誰かが皿を落とす……僕がそう思った刹那――

「見ていられないや」

 悲しみが会場を満たし切るその前に、スノウは席を立っていた。注目を集めたままピアノの前に座り、鍵盤を撫でたスノウ。村のみんなの意識が悲しみに向かい切る前に、月光に照らされた天使がそこに降臨したみたいだった。

 息を呑んだみんなの耳に、首をよじったスノウの旋律が――――


 クロウド・ドビュッシーより――「夢想」


 幻想的なる旋律が、

 静かに……僕らを包み始める。

 例えるならばそう――これは夢。

 昼とも夜とも知れない幻想の世界で、穏やかになびく草花と清流。

 遥かなる夢幻の彼方に送り込まれ、羨望の深みへと沈まされていく、

 美しく、儚げな、誰かの夢は、疑いようも無い現実へとすり替わり、

 僕らを魅了する――


 呆けた口を開けながら、みんながスノウの奏でる旋律の海に浸かっていくのが見てわかる。

 ――僕はピアノを弾くスノウが好きでは無い。

 ずっと一緒に居るべき僕らが、切り離されていく様な感覚に襲われるから……

 だけど僕は何故だかスノウのピアノを聴いている時、彼の魂がこもったメロディを受け入れているこの時、頭に掛かっていた霧が澄み渡るんだ――

 揺れる蝋燭の火、軋む木の床、震えるカップの中の水面……自らを俯瞰している位の集中力の中で、僕は夢の世界で思考する。

 

 ――僕らの残したメモの内容は、ほとんど全てが真実だったと判明した。

 実証された死の霧の存在。リセットと共に肉体までが時を巻き戻すというその真実。 

 ……残されたのは、これらが魔女の呪いなのかという点だが、今それが判明した所で状況に変化は無い。

『こんな平地に霧隠れする、スノードームの村が……』

 イルベルトの言った不可解な言葉。スノードームとは? 死の霧が無いとは? 

 どうして彼の言う言葉の数々が、僕らの認識とことごとくズレている? 

 そもそも彼は一体誰なんだ。いつこの村に現れたんだ。僕らの残した屋根裏のメモには、イルベルトの存在は記されていなかった。あれ程奇怪な存在が居たとすれば、必ずどこかに書き記す筈なのに。

 つまりそれは――

「イルベルトが現れたのは、僕らの前回の忘却から、今に至るまでのその間なんだ」

 つまり彼は、これまでの僕らに無かった要素。過去の僕らでは持ち得なかった情報の一つなんだ。

 彼という存在が無ければ僕は今日、自暴自棄になって危険な賭けに転じていたかも知れない。

 ――メモに死の霧の検証方法が記されていなかったのはもしかすると、過去の僕らが無法な壁越えをして、記憶を途切れさせていたからなのかも知れない。

 だけど彼の話しを何処まで信じるべきなのか、まるで信頼に足る証拠が無い以上、根底を揺るがす荒唐無稽な虚言をどうしたって信じてやる訳にはいかない。

 今そこの椅子に座って、圧巻とスノウを見上げているティーダが話した言葉……

『仮面の商人の言う“今日”と、僕らの“今日”がズレているってこと……かな?』

 ――ズレている……まるで絵空事のような妄言を吐きながら、イルベルトの話しをどうにも笑い飛ばしきれないのは、彼の言葉とその様相に、得も言えぬ説得力と現実味を感じるからなんだ。例えるならば、彼もまた嘘をついているつもりなどがなく、ただ彼の知る現実と、僕らの現実がといった様な……


 メロディがそこで転調し、時を刻みつけるかの如く一定の和音が繰り返され始めた時、

 はたと僕は気付く――イルベルトと僕らでズレているのが、“今日”では無く、なのだとしたら。

 僕の全身が戦慄き始め、肩を抱いて身悶えする。

 ……だとすれば、一筋の希望を掴む代償に、僕らはさらなる脅威にさらされる事になるだろう、その事がわかって、この体は震えているのだ。

「なにを考えてるんだ僕は……馬鹿げてる、そんなことある訳ない、アルスーン王国が滅びたなんて、そんなこと……」

 明日、あの道化師の話しに耳を傾けてみよう。信じた訳じゃない。ただ、彼の口から漏れ出す言葉を、この仮説に照らし合わせて見ようと思うだけだ。それにあの魔道具というのも気になる。魔力を介した忌み嫌うべき敵国の技術だけれど、もしかすれば、この難攻不落の呪いに風穴を開ける何かに役立つかも知れない。


 幻想的に奏でられる楽想が、徐々にとテンポを緩やかに変えて、やがて僕らは夢から醒める。

 鍵盤から離された指先、月明かりに立ち上がった白銀。

 悲惨なる現実を甘い夢でコーティングして、スノウは今宵も僕らに夢を見せる。

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