第一章(3128回目)

“一日目”


   第一章 一日目


 窓から射し込む薄い朝陽が、閉じた瞼をチカチカと照らす。

 ベッドから身を起こした僕は側で眠りこけているスノウの肩を揺らした。

「起きてよスノウ、今日は大忙しなんだ。知ってるだろう?」

 眉をしかめながらも、未だ静かな吐息を繰り返すスノウを、僕はさらにと強く揺する。

「ん……起きた、起きたって……今日、キミは……」

 薄く開いた瞳で起きかけたスノウだったが、だらしのない事に、また枕へと沈んでいった。

「オムレツが出て来なかったら、僕たち家族はみんなに恨まれるんだぞ。あの乱暴者のグルタに羽交い締めにされるかも知れない」

 パチリと開いたグレーの眼差しが、僕の瞳を映す位の目と鼻の先に起き上がった。「仕方がないな……」そう言ってスノウは、不服そうに目尻を垂らしながら、ハネた耳の上の髪を撫でつけた。

 立ち上がった僕にピッタリと続くように、スノウもまたベッドから降りて、二人して大きな伸びをした。

 相変わらずの仏頂面で、窓から注ぐ外の陽射しに目を細めたスノウは、白銀の毛髪を風に流しながら、伏せた瞳で村を見渡す。

「あぁ、また始まった」

 そうボヤいて窓際に立ち、物憂げに視線を落とす少年の姿が光に照らし出される。

「お父さんたち、帰ってくるかな」そう僕が言うと、スノウは振り返った。

「来るんじゃないの、戦争が終わったんだから」

 抑揚も無く帰って来た声。さらにスノウは続ける。

「でも不思議だよね。実体の無い霧の魔女にトドメを刺せたかなんて、誰にもわかりゃしないのに」

 子どもながらにやさぐれた感じのあるスノウに、僕は目を回しながら話題を戻す。

「みんな二年前に徴兵されてから、一度も村に帰ってきて無いんだ、早く会いたいよ。お父さん僕たちのこと誰だか分かるかな」

 僕の気苦労を知り薄く笑ったスノウは「変わりゃしないよ」と言いながら、髪を後ろで結んだ。

 服を着替えた僕たちは居間に向かっていった。階段を降りていく途中から、スープの匂いとパチパチと鳴る炎の温かさに気が付いた。微笑みあった僕らは居間への扉を開ける。

 僕とスノウはお母さんに朝の抱擁をする。その後に、いつもはパンとサラダだけの食卓に温かなスープが付いているのを嬉しそうに眺めた。

「おはよう。今日くらいは少し贅沢したって、誰も文句言わないわよね」

 温かい湯気に包まれて、僕たちは神に感謝してから食事を食べ始める。

「こんな毎日が、いつまでも続いたらいいね」

 目を擦りながら、お母さんは僕らにそう言った。

 窓の近くで小鳥が鳴いて、朝の風が流れ込むと、温かな香りが部屋を満たしていった。

   *

 カゴ一杯になるだけの卵を収穫してきた僕とスノウは、灰色の空の下を歩いていた。

 僕らの視界に過ぎ去るは、陽気に歌うおばさんに、手を繋ぎながら僕らを追い抜いていった幼い少女。井戸の水を汲む若い女性と、フルーツを抱えた黒い髪の女性。

「よう卵家」

 声の聞こえた方を向くと、風に乗った木の葉が、丁度彼女の鼻先を撫でていくところだった。

「ぶええッくしょい! だぁちくしょうめ!」

 豪快なくしゃみを披露したセレナが、百面相しながら庭先の干し肉を下ろしている。

 僕がセレナを見詰めて眉を下げていると。スノウは彼女からの視線を避けるようにサッと僕の背中に隠れてしまった。

 スノウはどういう訳か村の人に無愛想を貫き続けている。昔と違って体も丈夫になったんだ、そろそろ社交性というものを身に着けていくべきだと思う。

「……なぁところでレイン、スノウ」

 活発そうに笑っていたセレナが、突如と目の色を変えたのに僕は気付いた。

「オルト爺さんを見てねぇか? 小麦屋のフィル婆さんも。姿が見えねぇんだ」

 僕がスノウと不思議そうにした顔を見合わせていると、セレナは手を振り上げながら調子を取り戻した。

「ま、いいさ。万一外に出ちまうなんてことはねえだろうし、ケロッと帰ってくるさ」


   *


「来たね、遅いよ。卵がなくちゃあね」

 目的の酒場に到着し、グルタに言われた通りにキッチンに卵を置いた僕たちは、一息ついてまたカゴを持った。これからまたこの酒場まで何往復もしなければならないので、いそいそと酒場を後にしようとすると、腕まくりしたグルタにリンゴを一つ投げ渡された。

「新鮮な卵を頼んだよ」

「村に鶏は二十羽しか居ないんだよ? 今持ってきたのだって昨日のさ」

「なんでもいいから持って来ればいいんだよぉ」

 こっちの気も知らないで豚鼻を鳴らすグルタに、下唇を突き出しながら酒場を出る。すると程なくしてスノウがまた僕の背後に回った。見ると向こうから、豆粒みたいに小さな影が頭にミルクタンクを乗せて走って来ている。

 やがて僕たちは、山羊のミルクを運ぶティーダとすれ違った。彼は爽やかにこちらに笑みを向けて「夜会でな」と言って走り去っていった。随分と忙しくしているらしい。背中に潜んだままの彼へと、僕は眉を下げながら振り返る。

「そんな調子で、今夜の役目は全うできるのかい?」

 頷くスノウ……もっとも彼の事だから、今夜の夜会でのピアノ演奏は、淡々とやり仰るのだろう。

 貰ったリンゴをシャクシャク交互にかじっていると、村人たちの会話を小耳に挟む。みんな長い戦争が終わって嬉しそうだ。兵力不足によって二年前に徴兵された村の男たちもじきに帰って来るんだろう。

 ――これから村が、変わっていくんだ。

「ねぇレイン。これから村が変わっていったら、僕たちも変わるのかな」

 何処となく上擦った声で、僕にそう話しかけて来たスノウ。

 ――ピンと張り詰めた空気。

 僕はこのまま変わらずに居たいけれど、スノウは早く変わって欲しいと言う。このまま時が止まってしまえばいいと僕が言うと、スノウは早く大人になりたいと言う。……だから僕は、不服そうに彼へと言葉を返す。

「変わらないさ、僕らはずっと二人で一人だ」

 ……そう口にした瞬間だった。僕の脳裏に奇妙な違和感が起こる。

 ――あれ、この会話……

 閃光のように走った既視感を、僕はさして気にした風もなく、突風に乱れた前髪と一緒に流していった。

 灰の瞳を光らせて、スノウが僕を覗いている。


   *


 三度目の卵の運搬を終えた帰り道。人々の行き交う大通りで、スノウが僕の服の袖を引いた。丁度空から細かい雨が降り始めた時の事だった。

 スノウの視線を追っていくと、井戸の横の大木のある辺りに人だかりが出来ている。スノウの手を引いて野次馬に混じっていくと、見るからに怪しい、白い仮面の男が大木にもたれかかっているのが見えた。仮面の男は「妙だ、誠に妙だ」と繰り返していた。人混みをかき分け、さらにと近付いて行くと、男の出で立ちから、どうやら異国から来た旅人である事がわかる。

 僕らの右隣で腕を組んでいたボナが教えてくれる。

「おかしな人が紛れ込んでね。商人なんだってさ、でもこんな時に外を渡り歩いてくるなんておかしいだろう?」

 僕らが頷いていると、背後から頭に腕を回してきたサーシャが言う。

「それも何だか無茶苦茶な事を言ってるの。こんな所に村がある訳ないとか、霧の魔女は死んでないだの、何だか危ない人だわ」

 背後に見える緑の起伏を背景に、男勝りな村の女たちに圧倒されている仮面の男を眺めていると、ボナが僕らの背中を押した。

「今夜は大事な役目があるんだろう? もう行きな」

 僕は物珍しい商人をもっと観察していたかったけれど、スノウは僕の腕を引っ張って人混みから引っ張り出していった。


   *


 夕暮れの雨の中を、僕らはレインコートを着て歩く。お母さんが雨で濡れた石で転ばないように、僕らは両脇に立って歩いていた。

「ねぇスノウ、なんだか今日は夜目が効かないの。だけどこの耳は冴え渡っているわ。あなたの演奏とっても楽しみにしているからね」

「うん」スノウはなんでもなさそうに頷いて、お母さんの手を引いて歩く。

 やがて酒場に辿り着くと、もう賑やかなムードが始まっていた。大きなテーブルには見た子もないようなご馳走が並んでいる。空いていた席に座った僕たちは、簡単に挨拶を済ませてから席に着いた。すると僕らの元にグルタが近づいて来た。何やら思い詰めたような顔をしている。

「なぁレイン、村長を見てないかい? それとオルトの爺さんとフィル婆さん……あとそうだ、ロイドと、リズ……それから」

 広い酒場のテーブルには、チラホラと空席が見えた。みんなどうしたのだろう。一抹の不安を覚えながら首を振ったお母さんを認めると、僕もまた同じようにして見せた。するとグルタは眉をしかめる。

「まぁこのご馳走は無駄にはならないけどね。私が食べるから」

 唸ったグルタはそのまま引き返していった。奥のテーブルにはセレナの姿がある。彼女はお爺さんと二人で暮らしていたのだから、とても不安なのだろうと思う。

 それでもセレナはここに来た。他の人たちにしたってそうだ。僕らは夜会を始めなくちゃならないんだ。今日この日の夜会は、終戦を祝うだけの催しでは無いんだから。

 長く美しい金髪を揺らし、フェリスが十八時の定刻と同時に席を立った。

「それでは皆さん。長き戦争の終結のお祝いと、死の霧の迫る、この夜を乗り越える為の夜会を始めます」

 可憐に笑った彼女の音頭で、僕らはハーブティの注がれたカップを、大人たちは一杯のブドウ酒が入ったグラスを打ち合わせた。皿に手を伸ばし始めた僕たちは、嬉しさのあまりお母さんに笑いかける。

「すごいよこんなご馳走見たことがない!」

「いいのよレイン。今日はたくさん食べて楽しく過ごすの。それ以外のことは考えてはいけないわ。思い切り騒いで、食べて、そのまま眠るの」

 ……無理に元気を装いながらも、僕の指先は震えていた。

 みんなの表情にも、不安の影が落ちているように見える。死の霧という目に映らない恐怖が、重く伸し掛かり始めたみたいだった。

 張り詰めて来た緊張感は、誰かが、震える手で皿を落とした物音で、急激に高まった――

 静まり返った喧騒。みんなが食事の手を止めた。お母さんが静かに泣き始めた事に気付いた。他にも泣き出しそうな人が大勢見える。だけど誰も、声を上げる事はしなかった。誰もがこの感情を、この恐怖を押し殺すしか他が無かった。

「……スノウ?」

 そんな中、スノウは一人立ち上がった。

 ……去りゆく背中に僕はまた、ある筈の無い記憶を重ね合わせる。

 スノウはすすり泣くみんなを一度見渡してからピアノの前に腰掛けると、ただ一音、確かめるように音を鳴らせた。

 この身を苛む恐怖心に、今にも叫び出しそうになっていた僕は、震えるまつ毛の先に、スノウの姿を見る……

「こんなに暗い、闇の中でもキミは……」

 心落ち着けながら、伏せた視線――その双眸が覗く先は、簡素なモノトーンの鍵盤。首元まで締めていたボタンを一つ外したスノウは、その小さな手で奏で始めた。


 古の名曲――フランツ・シューベルト『白鳥の歌』第四曲より――「セレナーデ」


 なまめかしく動いた指先が、鍵盤を走り始めたその瞬間――

 哀愁漂うメロディが、僕たちの胸に響き渡ったこの瞬間――

 ……灰色の情景が色を持った。

 何処か感傷的でいて、されど優雅に波を踊るように、

 悲惨に満ちたその生涯に、微かな希望があったと示すように、

 静々と流れ去る哀しみより、微かな光が漏れ出している。

 嘆きと残夢に打ちひしがれていながらも、

 この生涯に悔いは無かったと、そう囁いているかのように。

 その曲は、美と荒廃とを露わにした、祈りのような楽想だった。


「こんなに、上手だった? ……スノウ」

 僕の握り締めた拳は小刻みに震え、肌を僅かに紅潮させる。

「…………っ」

 何故、僕と同じ年月しか生きていない筈のキミが、キミの奏でる旋律が、僕らのまだ見ぬ、果てしのない人生の苦楽を理解している? キミから上るその色香は、どう考えたって、僕には無いものじゃないか。

 どうしてなんだろう――僕たちは、ずっと一緒に居た筈なのに……

 ――僕は、ピアノを弾くスノウが、好きではない。

 曲の中で流れゆくそのストーリーに身を委ねたスノウは、もう瞳を閉じていた。

 己の指先さえ見ることも無く、古に果てたその生に没入していく。

 ――だってキミがそうしている間、僕は一人取り残されるんだ……

 スノウは、その小さな手では、届かぬ筈の音符にさえ、懸命に食らい付いて音を奏でる。

 僕らの頭に起きたこのイメージは、決して途切れることなく共鳴を続ける。

 まるで俯瞰ふかんしているように、僕自身がそこで演奏をしているように、目まぐるしく視点を変えながら、僕は思う。

 ――この才能に返せるだけのが、僕には無い。

 見渡すと、恍惚としたオーディエンス。頬を赤く染めた彼らの様相が、絶望から色を一変した時、僕は頬に熱いものが伝っていた事に気が付いた――

、スノウ……」

 高尚なる祈りの余韻に打たれながら、熱狂渦巻いたホールで、僕は涙を拭った……。

 スノウのピアノが、村のみんなを絶望の底からすくい上げた。僕はそれを、ただ指を咥えて見ている事しか叶わない。


   *


 お母さんとの抱擁を終えた僕らは、頭をかき寄せられながら告げられる。

「明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。そしたらすぐに眠りにつく。きっと変わらない明日が来る」

 額にキスをされた僕らは、笑みを返して二階へ上がっていった。

 寝巻きのボロに着替えた僕は、窓から遠くに見える石の壁を眺めているスノウの背中に話し掛けた。彼はまだシャツのまま着替えていない。

「すごい演奏だった。心から感動したよ。僕も村のみんなも、今日眠ることが出来るのはキミのお陰だ」

「眠る事が出来る……か」

 スノウは黙々と着替えながら、少しぎこちない笑みを返した。そんな彼に、僕はまるで懺悔ざんげするかのように口を開く。

「僕は、キミの才能に返せるだけのモノを持っていない。僕らは二人で一人なのに、僕だけがキミに置いていかれて……」

 僕の声に、スノウは振り返らずに答える。

「大丈夫。レインにはきっと、僕にできない事が出来るから」

「……僕にしか、できない事?」

 そう残して、スノウがランタンの火を消そうと手を伸ばした時だった――

「ん――?」

 ベッドに腰掛けた僕の膝下に、ひらりと宙をひるがえった小さな白い紙が、ボロの屋根裏の床を抜けて落ちて来たのだ。

「なんだこれ」

 それは――年季の入ってボロボロになった、何者かによるだった。

「屋根裏から落ちてきた? ……何か書いてある」

「レインそれ……っ!」

 そこに記された文字を読み上げていった僕は、こんな悪戯を思いついたスノウに振り返って笑った。

「はは、スノウ。なんだよこれ、趣味悪いよ」

「……っ」

 微笑みは返って来なかった。代わりに突き返されたのは、硬直しきった彼の面相だった。様子がおかしいと思った僕は、もう一度そのメモを読み返してみる。そこに記されたインクは滲み、掠れ、所々の文章しか読むことが出来なかった。

『おかしい――村――――ノウは――』

 スノウの様子が見た事も無いくらいに緊迫している事に気が付いて、僕は一度顔を上げて、また読み始めた。

『――繰り返して――、――何度も――』

 正体不明のメモより漂うただ事でない雰囲気に、僕は滝のような冷や汗を垂らしながら、見開いた目で、微かに認識できる文章の最後を読み上げた。


『魔女の呪い。この村は


 そしてそこに記されている、このメモの筆者の名を、僕は確かにこの目にして――戦慄した。

『レイン・A・ウィンセント』

  紛れも無いまでに既視感のある筆跡で、僕の名前が記されていた。

 生唾を飲み込んだ僕は、引きつった笑みをスノウに見せた。……だがやがて僕は、僕が書いたらしいこの謎のメモ書きを、隠さねばならないという思いに支配された。スノウと僕の表情をここまで凍り付かせた、あまりに不気味で不謹慎なその怪文書を、間違ってもお母さんには読まれる訳にはいかないと。

「――レインッ!」

 僕は走った。寝室を出て、急いで屋根裏へと続く小さな梯子を下ろし、我も忘れて駆け上がっていった。

 ……昔から隠し物はここに潜ませるというのが、僕らの習性だったから。

 ――だがその無意識下でのその決断が、僕を……僕らを、さらなる暗黒へと誘った。

「――これ……は?」

 もう何年も立ち入っていない狭い屋根裏に上がった僕は、ギシギシと鳴る隙間だらけの床を歩いて、天井に吊るした小さなランプにマッチで明かりを灯した。何年も放置していて、点灯する筈の無かったランプにあっさりと火が灯り、の影を引き伸ばした時、僕は絶句する。

 そこにあったのは……積み上げられていたものは――!

 まるで記憶に無い。怪文書の山だった……。

「なんだ、よ――コレっ!!」

 強烈なにあてられて、僕の中の断片が頭の中にフラッシュバックする。

 ――繰り返し、繰り返し、何度もここに来て、何回だってここに来て、何度も忘れてまた思い出して――それでも抜け出せなかった。僕のを……

 僕の短い悲鳴の後に、スノウは屋根裏へと上がってきた。こめかみを叩く指先、灯りに照らされ、神妙にも映る彼の表情……

 その時、二十二時を告げる鐘の音が村に響いた。小さな窓の向こうから、僕の心情を表すかのような激しい雨音が聞こえて来る――

、思い出したんだね……レイン」

 この屋根裏へと続く四角い暗闇が、まるで底の見えない深淵へ繋がっているみたいに思えた。


   *


 打ち付ける雨音が、固く閉ざされた心の扉をノックし始めた。薄暗く、ぼんやりと闇に浮かんだスノウへと、僕は詰め寄る。

「またって……またってなんだよスノウ! キミはこの繰り返しに気が付いていたって言うのか!?」

 胸ぐらを掴まれたスノウの瞳は沈んでいた。彼の薄い唇から言葉が流れ出す。

「違うよレイン。僕はキミのメモを見て、この屋根裏に来て、そこで思い出したんだ。キミもそうなんだろう?」

「……っ」

「強い記憶にあてられて、微かに思い出した。僕らは以前もこうして、二人でこの謎に直面していた……そう、何度も」

 そう言われた僕はスノウから手を離した。記憶を探ると、確かにここでこの謎をめぐりスノウと額を突き合わせていた記憶がある。……彼もまた思い出したんだ。僕と同じく衝撃的な記憶に触れた事によって。

「ごめんスノウ……気が動転して。キミを疑うなんてどうかしている」

「仕方がないさ。こんなものを見せられたら」

 スノウの視線が向かったのは、インクと羽ペンの乗った小さなテーブルの奥に積み上げられているメモの山だった。そろそろとそちらに向かっていった僕は、にわかには信じられない――けれど確かに僕らが記したと確信のあるメモを慎重に取り上げていった。どの紙にも最後には僕の名前が記されている。疑いようも無く癖のある僕の筆跡で。

「繰り返している……? 僕もみんなもこの村も、ずっとずっと、全て忘れて、今日という一日を?」

 頭ではまだ信じられない。だけど確かに記憶がある。遠い昔の事のように薄ぼやけた記憶であるが、確信に近い何かが。

 怯えて丸くなった僕の背中にスノウが言う。

「とにかくそこにある情報を整理しようよ」

 彼の言葉に頷いた僕はメモの山に手を突っ込むと、むさぼる様に読み漁り始めた。

「スノウも手伝って」

 得体の知れないメッセージに肝を冷やしながら、僕らは情報の整理を始める。所々塗りつぶされた箇所のある数多の情報は交錯し、重複し、とめどもないまでに錯綜さくそうしていたが、村の消灯を告げる二十二時の鐘から二時間ほどが経過するとまもなく、僕らはその目的を達成した。

 ――整理された情報はこうだ。新しい紙に箇条書きで抜き出しながら読み上げていく。

・〈終戦の知らせを受けた翌日(××年十二月二十四日)を村全体がループしている〉

・〈人も動物も環境も、あらゆる偶然や思考さえも、一日を同じルーティンの様に繰り返し続けている〉

・〈強い記憶に触れると、忘れ去る前の断片が蘇る事がある〉

・〈僕らの話しは相手にされない〉

・〈石の壁の外には、既に死の霧が充満している〉

・〈〇時二十一分三十二秒になると、世界がホワイトアウトしてリセットが行われる〉

・〈リセットによって村に残した痕跡は消え去り、全てが“今日”の始まりに戻る〉

・〈この屋根裏は魔女の呪いの影響を受け無い。ここにある痕跡は残され、リセット時刻を越えても記憶は引き継がれる〉

・〈これら全てが、霧の魔女によって仕向けられた呪いである〉

 スノウと共にメモに落とした視線の先で、握った羽ペンが影をゆらめかせる。未だ愕然としたまま、僕は一度唾を飲み込んだ口を開く。

「魔女の呪い……僕たちは、“今日”をループしている?」

 多分、正気ではないような顔付きをして頭をもたげた僕に、スノウは細い視線を返していた。

「信じるのかい?」

「信じ……たくない、信じられない。でも、それならこの記憶はなんなんだ! 何度もキミと一緒に、この呪いに直面して来たこの記憶は!」

 もしここまでの情報が全て真実なのだとすれば、過去の僕らは、これ程の情報を得る為に、どれだけの時を費やしたと言うのだろうか……考えると、狐につままれた様な空寒さを感じてゾッとした。

 スノウがポケットから真鍮しんちゅうの懐中時計を取り出した。既に〇時を過ぎた事がそこに示されている。メモに記されていたと言うのが本当に起こるのだとすれば、もう猶予がない。渋々ながら僕は言った。

「寝具をここに持ってきて、今日はここで過ごそう。馬鹿げていると思うけれど、そこに書いてある事が真実かは確かめる事ができる」

 頷き合った僕らは、二階の寝室からシーツを持って来ると――底知れぬ恐怖が僕らにそうさせたのか、示し合わせたように一緒に包まった。屋根裏の小さな窓から、闇の垂れた村を横目にしながら考えを巡らせる。そして一つの疑問を抱いた……

「魔女の呪いから逃れられるというこの屋根裏――言わばセーフティゾーンであるこの場所で記憶が引き継がれると言うのなら、どうして僕らはまた事を忘れていたんだろう」

「……とにかく、あらゆる現象の真偽を確かめよう、そうだろレイン」

 屋根裏の隅に腰掛け、ゆらめくランプの炎を見上げる僕らの間には、懐中時計の一つが開かれたまま置かれている。まるで断罪の時を待つかのような重苦しい空気の中では、時の流れが異様に遅れて思える。

 その間僕らは不安を誤魔化すように、答えのない質疑を繰り返した。まずは僕が、そしてそれに応えるようにスノウが口を開く。

「今起こっている事が本当だとして、どうして霧の魔女は僕らにこんな呪いを掛けたのかな」

「わからない」

「そもそも霧の魔女は昨日死んだって、そう聞いたじゃないか。これはもしかして死の霧の影響なのかな」

「霧の魔女はその名の通りに実体のない存在なんだ。誰かに擬態して生き延びていても不思議じゃない。それと死の霧は命を奪う霧なんだろう? 僕らは生かされているじゃないか、ずっと同じ一日を」

「……村のみんなは、この真実を知ったらなんて思うかな」

「そこに書いてある事が本当なら、一日経てば全て忘れるさ」

 過ぎる疑念の数々と、夢を見ているかの様な浮ついた心情……いっそ夢であってくれと願いながらも、僕らの意識はハッキリとそこに残り続け、醒める事は無かった。

 手元に置いた情報を要約した紙に、思い出したように自分の名を記した時だった。

「来るよレイン」スノウがそう言って、僕を見つめる。懐中時計の針が、〇時二十一分を指している。もう数十秒ともせぬ間に、この呪いにおいて最も不可思議なリセットという事象が発生する。

 異様なくらいに怖くなって、僕らは手を取り合った。

 ――次の瞬間、世界を包むかのような白き発光が窓の向こうで爆ぜた。そうして一瞬、ホワイトアウトした景色の中で気付く……光と思われた白の正体が、濃密な白きであるという事実に――

「レイン、見て!」

 外の世界の霧が消失した後に、視線の先で、懐中時計の針が物凄い速度で逆回転を始める。さらに屋根裏の小窓から、巻き戻っていく村を目撃する――

「世界が、目まぐるしく動き回っている……!」

「夜が明けて、雨が降って、陽が差してっ! 村が超高速で巻き戻っているんだ!」

 今日過ごした丸一日が、ものの数十秒という間に巻き戻された。夜が戻り、夕暮れを抜けて、雨と日差しを垣間見たかと思うと、また夜に変わる。目眩を起こす情報過多。翻弄ほんろうされ、吐き気を催し視線を背けると、巻き戻った懐中時計の針が〇時二十二分を示し、正常に回り始めた事に気付く。

「今のが……」

……魔女の呪いが、本当に起こった」

・〈〇時二十一分三十二秒になると、世界がホワイトアウトしてリセットが行われる〉

 僕らの世界が昨日に巻き戻った。この視界に映った景色は全て、もう通り過ぎた筈の時間なんだ。言葉を失いながら思う……

 ――僕が、変わらない毎日を望んだから……

 なんと皮肉な結末だろうか、僕らは刻の流れから隔絶されていたのだ。まるで生きたまま氷結されたかのように。そうとさえ気付かずのうのうと繰り返していたんだ。

 僕らの喉が同時に鳴った。そして仰け反り、窓に映る静寂の闇に絶句し合う。

 ――もしこれが、霧の魔女によって引き起こされた呪いだというのならば……

「僕らの止まった秒針を、誰かが動かさないといけない」

 囁いた僕の横顔をジットリと眺め、レインは静かに頷いた。

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