忘却の呪い~霧と双子のピアニスト~

渦目のらりく

第一章

一日目

   忘却の呪い


『その結末に蓋を出来るのならば、この渦の中で夢を見ている方が良かった』


   第一章 一日目


 東の果てで、霧の魔女が死んだ。


 そう口火を切ったアルスーン王国からの伝令は、村の戸口で諸々の事情を話した後、逃げ去る様に馬を走らせていった――

 山岳に囲まれたこの秘境の地に住む僕らは、巨大な夕焼けに向かう一頭の馬のシルエットが、麓に向かって小さくなっていくのをいつまでも眺めていた。


 ……聞いたのは、十年にも渡り敵対していたエルドナ魔族連合王国――その女王の死だった。

 すなわちそれは、アルスーン王国とエルドナ魔族連合王国による、大陸全土を巻き込む戦争が終結した事を意味していた。


   *


 ……夢を見たんだ。

 それは幼い日の記憶……身の丈に余る大きなグランドピアノを前に、僕らは二人で一つに椅子に座って鍵盤の上に指を走らせていた。

 僕に届かない所を彼が、彼に届かない所を僕が……僕らはそうやって支え合って、一つの曲を奏でていた。


   *


 雨季の空に張り付いた一面の薄雲より、微かな朝陽が斜めに差し込んで、僕の瞼の裏をチカチカと刺激した。

 木組みのベッドに藁を敷いて布切れを被せただけのベッドから身を起こすと、寝惚けた目を擦りながら、すぐ傍らで眠りこけているスノウの肩を揺する。

「朝だよスノウ、今日は大忙しなんだ。知ってるだろう?」

 呆けた口元で吐息を繰り返したスノウを僕は強く揺する。もぞもぞと動き始めた彼は寝返りを打ち、だらしのない口元で話し始めた。

「……起きた、起きたよレイン……今日、キミは夜会の卵の……配達を……」

 グレーの瞳を半開きにしたスノウだったが、やっと上体を起こしたと思ったら、また枕へと沈んでいった。

「そう、卵当番! 任されたんだろ」

「……それって、レインが任された役割だろう? 僕には僕で、別の役割を任せられているじゃないか」

「今日の夜会にオムレツが出て来なかったら、僕たち双子は、一生村のみんなから恨まれるんだぞ」

 パチリと開いた灰の眼差しが、僕の瞳を映す位の目と鼻の先に起き上がった。「仕方がないな……」そう言ってスノウは、不服そうに目尻を垂らし手ハネた耳の上の髪を撫でつけた。

 今晩村では、終戦を祝う夜会が催されることになっている。僕たちの村はそんなに大きくないし、物資や食料だって潤っているとは言い難い。牛のステーキなんて勿論、ブドウ酒だって少ししか準備できない。だけどそれでも、今日というこの日には(本当は昨日したかったんだけど)何が何だってお祝いをしなくちゃならないんだ。

 立ち上がった僕にピッタリと続くように、スノウもまたベッドから降りて二人して大きなあくびをした。示し合わせるでもなく、姿見に映る自分を見ているようにピッタリと。

 窓を開け放ち、相変わらずの仏頂面で灰の空からの木漏れ日に目を細めたスノウは、白銀の髪をサラサラと風に流しながら、伏せた瞳を村に落とす。

「また始まったんだね、今日が」

 窓際に立ち、物憂げに視線を落とす少年の姿が照らし出されると、伏せったまつ毛と生白い肌が強調されるようだった。僕の視界からは逆光に映るその姿はなぜだか、何処か大人びている様に見えて、少し不安になった。そのまま視線を水平に移していくと、ガラスに反射した僕がそこに立ち尽くしている。

「お父さんたち、帰ってくるかな」そう僕が問い掛けると、スノウはこめかみをコツコツと指で弾きながら振り返った。

 この誰に媚びる事もないかのような沈んだ目付きが、僕ら双子を見極める僅かな手がかり。そんな彼とは対極になるように、瞳を見開きながら相棒の返答を待つ。

「来るんじゃないの、戦争が終わったんだから」素っ気無く返って来た答え。

 ……そうは言うけれど、未だに僕にも、おそらくはスノウにだって終戦の実感は無い。何せ僕らに物心が付いたのは戦争の真っ只中で、側にはずっと戦火の気配があった。そんな環境が当たり前で生きてきたんだから。

 頷いた僕はスノウに言った。

「みんな二年前に徴兵されたっきり一度も村に帰ってきて無いんだ、早く会いたいよ。お父さん僕たちのこと誰だか分かるかな」

「わかるよ、なにも変わってはいやしないから」

「でも、僕たちもう十二歳だよ? 身長だってこんなに伸びて……」

 僕の気苦労を知って薄く笑ったスノウは「そんなに変わりゃしないよ」と言いながら、年季の入った焦げ茶のランタンが置かれた床頭台に手を伸ばし、そこに転がった革紐を取りながら、肩ほどまである白銀の髪を後ろで結んでハーフアップにした。

 これがそっくりな双子である僕らを見分ける第二の手掛かり。どちらかが髪を切りさえすれば、結ぶ必要もなく簡単に見分けがつく事ではあるのだが、僕とスノウは同じである事を望んだ。だから髪も肩までの同じ長さに揃えているんだ。違うのは性格と目付きだけ。本当はどちらかが髪を結ぶのにだって僕らは反対したんだけど、周囲の人たちからしたらそれが不便極まりないらしく、お母さんからの頼みもあって、スノウの方が髪を結ぶことになった。でも僅かな抵抗の甲斐あってか、僕たちは夜眠る時の寝室でだけは全く同じ姿で居る事ができた。

 服を着替えた僕たちは二階の寝室を降りて、一階の居間に向かっていった。階段を降りていく途中から、僕らの大好きなジャガイモのスープの匂いと、パチパチと鳴る炎の音と温もりに気が付いた。微笑みあった僕らは居間へと続く扉を開ける。そこにはテーブルに座ったお母さんの笑顔と、パンとサラダとスープの並んだ豪華な食卓があった。

 僕とスノウは同時にお母さんと朝の抱擁をする。その後に、いつもはパンとサラダだけの食卓に温かなスープが付いているのをニコニコと眺めた。三人分ある白いスープの中には、何日かぶりの鳥肉の姿まで見える。

「おはようレイン、スノウ。戦争は終わったんだ。今日くらいは少し贅沢したって、誰も文句言わないわよね」

 温かい湯気に包まれて、僕たちは神に感謝してから食事を食べ始める。

「こんな毎日が、いつまでも続いたらいいね」

 目を擦りながら、お母さんは僕らにそう言った。

 窓の近くで小鳥が鳴いて、朝の風が流れ込むと、温かな香りが部屋を満たしていった。


   *


 カゴ一杯になるだけの卵を収穫してきた僕とスノウは、どんよりとした空の下を歩いていた。

 陽気に歌うおばさんに、手を繋いで僕らを追い越していった幼い少女。井戸の水を汲む若い女性と、フルーツを抱えた黒髪の女性……この小さな集落では全員と顔馴染みだ。

「よう卵屋」

 レンガの花壇が続く大通りを歩き、古ぼけた井戸を通り過ぎた辺りで不意に声を掛けられた。そちらを向くと、神の悪戯かのようなタイミングで、風に乗った木の葉が彼女の鼻先を撫でていくところだった。

「ちょっとお前に聞きたい事が……へぇ、へぇっ……ッへぇッくしょい! あぁちくしょうめ!」

 庭先に吊るした干し肉を下ろしながら、赤毛のお姉さんが鼻先を擦りながら渋い顔をしていた。僕は彼女を象徴するようなそばかすと、横で結んだ目の回る位カールした髪を見つめてムッと眉を下げる。

「僕らには名前があるんだから、その呼び方止めてって言ったじゃないかセレナ」

「あ〜? 卵家なんだから卵家だろうが」

 この村では各家庭に役目が与えられ、村全体で自給自足の生活を営んでいる。僕らウィンセント家に与えられた役目は鶏の飼育と卵の管理、つまりセレナはチーズ屋だとかブドウ屋だとか、不躾ぶしつけにそんな名称で皆を呼び付けるんだ。

 腰に手をやったセレナが、てんで僕らの要求を飲み込んでくれ無さそうに右の口角だけを上げたのを見て僕は付け足した。

「嫁入り前の若い女の人が、そんなに汚い言葉遣いをしてて大丈夫なの、貰い手がなくなるよ?」

「年頃の男なんてみーんな兵役に行っちまってるんだ、まだ帰って来てねぇからセーフだよセーフ」

 黙っていれば奇麗なのにな、なんて思いながら、僕は一人ため息をついた。そうして先程からだんまりを決め込んでいる相棒に目配せしようと振り返ると、彼が僕の背中にすっぽり隠れてしまっている事に気付く。

 スノウのこのような反応を僕はつい先日までただの人見知りかと思っていたが、どうやら違う。退屈そうにした表情に、拒絶するように寡黙に徹した態度……スノウは多分、ひたすらに興味がないんだ。

「……なぁところでレイン」

 ふくれっ面で過ぎ去ろうとした背中にまた声が掛かる。スノウと一緒に振り返ると、セレナは頬を掻きながらこう尋ねてきた。

「うちの爺さんを見てねぇかよ、それと小麦屋の所の婆さんも。何だか、今朝方から姿が見えねぇんだ」

 爺さんというのが、セレナと一緒に暮らしている、彼女の祖父のオルト爺さんの事だということはすぐにわかった。小麦屋の婆さんというのはフィル婆さんだ、もちろんわかる。僕とスノウが顔を見合わせていると、その返答を察したか、セレナは大して気にした風も無く手を振り上げた。

「ま、この村もだだっ広いからな、どっかで道草を食ってんだろ。終戦でみんなが浮かれてんだ。石の壁もあるし、万一外に出ちまうなんてこともねえだろうさ」

 二人ともかなりの高齢だから少し心配だけど、大方畑や家畜の世話に出掛けたんだと思った。日々それぞれの農業をする僕たちに、休みなんてものは、嵐の日くらいしかないのだから。

 ……だから、気にしなかった。


   *


 石畳を歩いて酒場にたどり着いた僕らは、開け放った扉にもたれかかりながら豚鼻を鳴らした太ったおばさんに、掠れた怒声で迎えられる。

「あ、やぁっと来たね。奥に運んで頂戴、卵がなけりゃあ始まらないよ!」

 汚れたエプロンを前にした調理係の酒場のおばさん――グルタに追い立てられるままにキッチンに卵を置いた僕たちは、一息ついてまたカゴを持った。約五十人の村人が全員集まるんだ。卵の十個や二十個じゃあまるで足りないから、町の中心部にあるこの酒場から、最南端にある養鶏場まで何往復かしなければならない。いそいそと酒場を後にしようとすると、腕まくりしたグルタにリンゴを一つ投げ渡された。

「お昼はまだだろう? 新鮮な卵を頼んだよ」

「新鮮な卵と言ったって、村に鶏は二十羽しか居ないんだよ? 一羽につき一日一個しか卵を産まないんだ。今持ってきたのだって昨日のさ、一昨日のだってある」

「オッケーオッケー。なんでもいいから持ってきて頂戴」

「なんでもって……もうグルタ、こっちの気も知らないで」

 何だか釈然としないまま酒場を出て、一つしかないリンゴをかじり合いながら歩いていると、スノウがサッと僕の背後に回った。目を凝らして前方を見ると、豆粒みたいに小さな影が、頭にミルクタンクを乗せて走って来ているのに気付いた。やれやれと言った感じで僕は眉を下げる。

「いい加減みんなと仲良くしたらどうなんだい。病弱だった昔の頃とは違うんだ。僕はもうキミとみんなの仲を取り持ったりはしないんだからね?」

「……」

「それにティーダもキミと同じ病弱体質、いわば病弱同盟じゃないか」

「そんな同盟組んで無い……キミってたまにデリカシーが無くなるよね」

 表情一つ変えずに黙々と口を開くスノウ。やがて僕たちは山羊のミルクを運ぶ色黒の少年とすれ違った。背丈や体格は同じ位だけれど、彼は僕らより少し年下のティーダという少年だ。ニコリとこちらに笑みを向けて「じゃあ夜会でな」と言って走り去っていった。どうやら随分と忙しくしているらしい。

「スノウ……あいつはいい奴だろう? よく僕らを“狩人ごっこ”に誘ってくれる」

「誰かを尾行するだけの悪趣味な遊びだろう。僕はわざわざ他人に干渉したくないだけだよ」

 冷めた瞳でティーダの背中を眺めて答えるスノウ。彼は毎回僕らを妙ちくりんな遊びに付き合わせるけれど、なんだか憎めない奴なんだ。

 首を振った僕はスノウに言った。

「そんな調子で、今夜のキミの役目は全うできるのかい?」

 僕が言っているのは、今日の夜会でスノウが披露するピアノ演奏の事だ。今でこそ僕の役目である卵係を手伝わせてはいるが、朝に言っていたスノウに任された役目とはまさにその事なんだ。そんな僕の心配も虚しく――

「大丈夫」眉根も動かさない平坦な声が返って来る。

 まともに他人の目も見れない癖に、人前に出て演奏なんて出来るのか、なんて思うだろうけれど、スノウはきっとなんでも無いような顔をして立派な演奏を披露して見せるんだ。――だって彼はただのピアニストとは違うから。

 スノウはピアノの天才だ。こんな時代じゃなかったら、きっとその道を歩んでいた逸材だったと思う。村のみんなもスノウの奏でるピアノが大好きだ。

 ――でも僕はピアノを弾くスノウが、あまり好きではない。

 貰ったリンゴをシャクシャクかじり、空っぽのカゴを手元で遊ばせていると、村のみんなの会話が聞こえて来る。スノウはレンガの花壇を渡り歩きながら僕について来ていた。

「じきに戦争に行った男たちも帰ってくる」

「そしたら村は復興していくんだろうね、もう魔女の脅威は無くなったんだから」

「変わるのさ、この村は」

 ――これから村が変わっていく。

 何処か浮足立った明るい喧騒。長い戦争が終結したという知らせは、果ての見えない暗黒に一筋の光が射したのと同じだった。いま村人たちの瞳に映るは、未来に対する希望の狼煙のろし。争いが終わり、輝かしい未来へ向かってみんなが変わろうとしていた。

「ねぇレイン。村が変わっていったら、僕たちも変わるのかな」

 そう問われ、背後にあったスノウの灰の眼差しを見下ろした僕は、心に起きた言いようの無い感覚に拳を少し握った。

「変わらないさ、僕らはずっと二人で一人だ」

 僕たちはいつだって一緒なんだ。それは変わらない。これまでも、これからも……。

 スノウの瞳に反射した僕の瞳は、少し濁っているように見えた。流れる事をやめて、淀んでしまった水のように。


   *


 僕らがヘトヘトになって、三度目の卵の運搬を終えた帰り道。人々の行き交う大通りで、スノウが僕の服の袖を引いた。丁度曇天になった空からポツリと雨が降り始めた時の事だった。

 振り返った彼の視線を追っていくと、丁度井戸の横の大木のある辺り、広場の端に人だかりが出来ているのに気付く。なんだなんだとスノウの手を引いて野次馬に混じっていくと、焦げ茶色のハットの下に白い仮面をした、妙な人間が大木にもたれかかっているのが見えてきた。声からしてどうやら男であるらしい仮面の男は「妙だ、まことに妙だ」とうわ言のように繰り返しているみたいだった。さらに人混みをかき分けて進み、やがて男の全貌が明らかになってくると、薄い光沢を帯びた赤黒いシャツが目に飛び込んだ。見た事もない目がチカチカする模様だ。腰のベルトには曲刀が下げられている。その出で立ちからどうやらこの人が、異国から来た旅人である事がわかった。

 するとそこで、僕らの右隣で腕を組んでいたじゃがいも畑のおばさん――ボナがヒソヒソと教えてくれる。

「ああレイン。村を囲んだ石の壁をどうやって乗り越えたのか、何だかおかしな人が紛れ込んでね。商人なんだってさ、でもこんな時に外をほっつき歩いてるなんて変だろう?」

 目尻にシワを刻んだボナが言っているのは、昨日の伝令より伝えられた、の事だろう。

 僕らが頷いていると、背後から頭に腕を回してきたお姉さん――サーシャが言う。

「それも何だかトンチンカンな事を言うのよ。聞いたことも無い国から来ただとか、死の霧なんて無いだなんて言って」

 背後に見えるのどかな自然を背景にして、男勝りな村の女たちに圧倒されている商人を眺めていると、ボナが僕らの背中を押した。

「今夜は大事な夜会だろう? もう行きな、この人は変だけど、私たちに敵意はないようだから大丈夫だよ」

 物珍しいこの商人をもっと観察していたかったけれど、スノウは待ってましたと言わんばかりに僕を人混みから引っ張り出していった。そそくさと立ち去っていくスノウの背中に、何人かの女の人たちが振り返る。

「あら、みんなお前の演奏を楽しみにしているからね」

「あんたのピアノだけがこの村の自慢で、私たちの楽しみだよ」

 僕は瞳を伏せた。スノウは振り返らずに、足早に立ち去っていく。

 よくわからないけれど、村のみんなで夜会の準備をしたり、見知らぬ旅人が来たり、本当にお祭りみたいな一日だ。


   *


 まだ闇の浅い夕刻。すっかりと本降りになった雨の中をレインコートを着て歩く。雨で滑りやすくなった石畳みでお母さんが転ばないように、僕らは両脇に立って歩いた。お母さんはまだ若いけれど足が悪いから、僕らはこうして杖代わりになるんだ。

 お母さんの手を引きながら、遠景に村を包囲した暗い影を眺める。この村を円形に囲んだ高さ十メートルの石の壁。かつては城壁であったとされる旧世紀からの遺物を利用したこの防壁の向こうには既に、死の霧が押し寄せているのだろうか?

 やがて酒場に辿り着くと、そこではもう賑やかな雰囲気が始まっているようだった。

「あら、ウィン。遅いじゃないか」お母さんはそうボナに声を掛けられて「ごめんなさい、今日はなんだか夜目が効かなくて」と笑みを返していた。

 酒場の中心にある大きな木のテーブルには、見た子もないようなご馳走が並んでいた。ひもじい生活を続けてきた僕らにとって、食べきれないような食事にありつけることがどれ程嬉しい事か。僕らは三人空いた席に座る。

 こんな贅沢な光景を目の当たりにしても、スノウは表情も変えぬままつまらなそうにしている。彼の意識は食事よりも、天窓からの白き月明かりに照らし出された、壇上のピアノへと注がれているみたいだった。

 するとそこで僕らの元にグルタが近づいて来た。あらかたの調理を終えて手持ち無沙汰にでもなったのかと思ったが、太い眉の下に落ちたその剣幕に、どうやら暇を潰しに来た訳ではないとわかった。

「あんたら、村長を見てないかい? それとオルトの爺さんとフィル婆さん……あとそうだ、あんたらの友達のロイドと、リズ……それから」

 見ると、広い酒場のテーブルにチラホラと空席が見える。昨日の急な集会では全員がここに集まったのに、この夜会を催すと言い出した白髭の村長の姿さえない。首を振ったお母さんを認めて僕はグルタに言った。

「リズは……来ないと思うよ。でも、他の人たちはどうしたんだろうね。昨日は全員、あんなに意気込んでいたのに」

「本当だよ、こんなご馳走があるってのになんなんだろうね。無駄にはならないけどね。私が食べるから」

「ダメだよグルタ。きっと何か事情があって来られないだけさ」

「それにしたって村長が来ないのは変だね。家を訪ねても留守だったらしいよ」

 唸ったグルタはそのまま引き返していった。奥のテーブルに何処か浮かない表情をしたセレナの姿が見える。結局、朝からお爺さんの消息が掴めていないみたいだ。

 それでも僕らは夜会を始める。始めなくちゃならないんだ。今日この日この時の夜会は、終戦を祝うだけのものじゃなく、もう一つある特別な意味を持って開催されるのだから。

 仕切りを任された、若く美しい金髪の女性――フェリスが、十八時の定刻と同時に席を立った。

「皆さんよくお集まり下さいました。本日は終戦のお祝いと、今宵迫り来る死の霧を乗り越える為の、夜会を始めます」

 可憐に笑った彼女の音頭で、僕らはハーブティの注がれたカップを、大人たちは一杯のブドウ酒が入ったグラスを打ち合わせた。皿に手を伸ばし始めた僕たちは、嬉しさのあまりお母さんに笑い掛ける。

「すごいよお母さん。こんなご馳走見たことがない、これ全部食べてもいいの?」

「いいのよレイン。今日はたくさん食べて楽しく過ごすの。それ以外のことは考えてはいけないわ。お腹一杯になって、そのまま眠るのよ」

 さっきフェリスが言った通り、今日の夜会は終戦の祝福と、僕らの村に迫る脅威――死の霧の恐怖を和らげるために開催された。

 昨日僕たちは、アルスーン王国からの使者よりこう聞いた。


 東の果てで、霧の魔女が死んだ――その名の通り、霧の如く実体の無い魔女だが、勇猛なるアルスーンの騎士たちは、確かに奴の心臓に剣を突き立てた。しかし魔女は死に際、大地に死の霧を残した。無色透明のそれは、這うように大地を侵食し、生きとし生けるものを死に至らしめる。この村は明日より、その脅威に襲われるだろう。ただし、死の霧は高い所に登らない。村の周囲に高い壁を張り巡らせたこの村ならば大丈夫であろう。死の霧の脅威は時間と共に薄れる。本日より少なくとも十日の内は村を出ぬように。


 ……とは言っても、あの石の壁を魔女の残したという死の霧が越えないという確証は何処にも無い。無色透明の霧は、音もなく僕らに忍び寄ってるかも知れないんだ

 テーブルの下でお母さんの手を握ると、微かに震えていた。みんなの表情にも不安の影が落ちているように思える。忙しなく夜会の準備をしていた間はそんな事など忘れる事ができたけれど、今は目に映らない死の恐怖が、暗がりからこちらを覗いているみたいに感じられた。

 僕らはそんな恐怖を誤魔化す為に夜会を開いたんだ。だから誰もがそうしようと振る舞った。けれど僕らの空元気は、誰かが震える手で皿を落としたその物音で――一挙に張り詰めてしまった。

 静まり返った喧騒。皆が自然と食事の手を止めた。大人たちはもっと酒に酔いたいとグラスを傾けるが、ブドウ酒はその一杯しか無かった。お母さんの目尻から、熱い涙が溢れ始めたのに気付く。他にも泣き出しそうな人が大勢見える。だけど誰も声を上げる事はしなかった。もし誰かがそうしてしまえば、その感情は水面を伝う波紋のように伝播でんぱして、僕らの目論みの全てを無駄にしてしまうことが直感的に理解できたから。

「行くよ、レイン」

「……え?」

 そんな中、スノウは一人立ち上がった。こめかみに添えた指を何度か弾き、すすり泣く彼らを切長の視線で見渡しながら、小さな壇上に鎮座したピアノに向かって腰掛ける。鍵盤蓋を開いたそこに彼が軽く指を触れると、ポロンと音が漏れた。

 たったその一音が――静まったホールに反響して涙の音をかき消した。

 みんなの全身をむしばみ始めた恐怖の感情が、今や喉から漏れ出しそうになったその時――僕らは天使の姿を見る。

 ランタンの灯火に照らされる堂々たる佇まい。何処か気品に満ち溢れた余裕げな表情のまま、スノウは僕と同じ筈のその小さな体、か弱い指先で――

「――――ッ!」

 ……奏で始めた。


 古の名曲――ピョートル・チャイコフスキーより『四季』――「十月:秋の歌」


 白く、か細い指先が滑り始めたその瞬間――

 旋律が流れ出した、この瞬間――

 ……世界が変わった。

 今しとしとと降り注いでいる。雨を思わせるような、陰鬱で叙情じょじょう的な旋律、

 ――だがそこには、確かな栄華の予感が同居していた。

 流麗なる音の波が、僕らの心を彼方へさらっていき始める。

 ゆったりとした繊細で奥ゆかしいメロディの情緒が、僕らの心を鷲掴みにする。


 ――スノウは、ピアノの天才だ。


 僕は、僕たちは、確かに彼の奏でるピアノ以外を聴いたことが無かったけれど、それが揺るがぬ真実だということは、つい先程までの混沌を忘れ、脱帽し切った表情を見せるみんなの様子からも明らかだった。

 スノウにはピアニストとしての天性の才覚があって、こんな廃れた村にもなぜか、神が彼に授け与えたかのように、質の良いピアノの一台と、擦り切れそうになった、終わった世界の楽譜があった。

「こんなに、上手かったかな……スノウ」

 僕はそう呟いた。その声は、誰にも届くこと無く震える音響に飲み込まれて消えた。

「…………っ」

 何故なんだろう。僕と同じ筈のキミが、キミの奏でる音楽が、切なげに、儚げに、微細に揺れる人の感情を表現し、深淵ともなる人生の滑落と、絶頂ともなる歓喜の全てを知っているかのように――情緒豊かに、大人たちの心を揺さぶるのは。

 人と話すのはめっきり苦手な癖に、スノウは堂々とピアノを演奏する。その様子はまるで、水を得た魚のように生き生きとしていて、躍動し続ける。スノウ自身もまた、ピアノを通して自分を表現しているかのように、聴く者に強く何かを訴えかけて来る。

 ――でも僕は、ピアノを弾くスノウが、あまり好きではない。

 体を揺らし、眉根をひそめて悲しき音を奏でるスノウに、みんなが釘付けとなっていくのがわかる。

 ――だって、僕たちはいつだって一緒の筈なのに……

 彼の頭上にある天窓からの月光が、輝く汗を散らし、視線を落とした白銀の天使に、スポットライトを当てる。

 ――キミがそうしてピアノを弾いている間、僕は一人ぼっちになるんだ。

 僕たちは二人で一人だ。いつだって一緒だ。キミに無いものを僕が持っていて、僕に無いものをキミが持っている。僕らは二人で一人なんだ……だけど――

 ――この才能に返せるだけの何かを、僕は持っていないんだ。

 見渡すと、嬉しそうに微笑んでいたオーディエンス。彼らの涙が絶望から色を変えた時、僕はまた拳を握り締め――

「すごいよ、スノウ……」その目尻から、正体の知れぬ涙を溢した。

 喝采に包まれたホールで、僕は鼻をすする……。


   *


 夜会を終えて、自宅に帰った僕ら。

 お母さんとの長い抱擁を終えた僕らは、抱き寄せられるまま告げられる。

「大丈夫よ。明日もきっと同じ一日が来る。頭の中でスノウのピアノを繰り返すの。そしたらすぐに眠りにつくわ……大丈夫。だからいつも通りに」

 額にキスをされた僕らは、いつもの様にと努めたぎこちのない笑みを返して二階へ上がっていった。いつもと同じように、普段通りに、変わらぬ明日がまた訪れるように……死神に悟られないように。

 足の悪いお母さんは一階で眠り、僕らは二階の寝室で眠る。

 寝巻きのボロに着替えた僕は、窓から石の壁を眺めたスノウの背中に話し掛けた。彼はまだ外着のシャツのままだ。

「毎日聴いてる筈なのに、今日の演奏は全然違った、本当に素晴らしかった! みんなが言ってたよ、スノウは天才だって! あんな風にどうやったら弾けるんだい?」

「毎日、何百回も何千回も弾いてたら、誰にだってあれ位は弾けるよ」

 別段舞い上がった風もなく、スノウは静々と服を着替えながら「明日はシューベルトを弾きたいな」と漏らしていた。

 スノウは部屋に灯したランタンを消して、結んだ髪をほどき、テーブルに置いた蝋燭だけを残した。ゆらめく炎の赤い火が、暗く静まった寝室を照らす。

「ごめんよスノウ……僕は、キミの才能に返せるだけの何かを持っていない。僕らは二人で一人なのに、僕だけが、キミのような才能を何も持っていなくて」

 僕の声に、スノウは振り返らずに答える。

「なにも返す必要なんてないよ。レインにはきっと、僕に出来ない事が出来るんだから」

 何処か冷徹にも思えたスノウの一言が、僕の胸にチクリと棘を刺した……

 ――村に消灯の鐘が鳴り響いた。

「疲れたから、もう眠ろう」スノウが僕にそう言った。

 僕らはいつもの通りに一つのベッドに横たわり、寄り添うようにしてシーツを手繰り寄せる。スノウが蝋燭の灯りを消す刹那に――僕らは吸い寄せられるみたいに瞳を一瞬だけ合わせた。……そして室内は暗黒へと変わる。

 闇に包まれた村――窓の向こうからは雨音しか聞こえない。

 ふと脳裏に恐怖が込み上げそうになる……薄い目を開けると、目と鼻の先で、微かに漏れた月光にグレーの瞳を灯らせたスノウの姿を認めた。夢の中でもそうしているつもりなのか、彼は口元で微かにメロディを口ずさみながら、シーツを鍵盤に見立てて長細い指を這わせている。

「いつか……が弾けたらなぁ」

 スノウはそう言った。聞こえるか聞こえないかの微かな声……けれど僕は確かに聞いた。――彼の中にある、確かな夢の話しを。

 ……頭の中で繰り返される、彼の奏でた旋律の海原に身を沈めながら考える。

 ――死の霧は石の壁を越えないだろうか……セレナさんのお爺さんは見つかっただろうか……村長は家に帰って、大好物のオムレツを食べられただろうか……リズはどうしているだろうか……

 押し寄せる疲労と、ピアノのメロディが、僕の意識を薄らがせていく……

「明日も……みんなで……変わらない、一日を……」

 眠りに落ちるその直前、祈るように独りごちた声に――「そうだね」と声が返ってきた。そして静寂の後に付け足される。

「それでもいつかは、変わらなくちゃいけないんだよ」

 途切れる意識……闇より変わり、夢に飛び立つ瞬間――世界がホワイトアウトした様に感じられた……。

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