第73話 避難

領民の話を聞いて、ミールはすぐ様領民達に避難指示を出した。


ミール男爵がこうやって農作業を率先して行なっていることから分かる様に、フィールダー領の騎士達も皆、農民として農業を行っていた。


なので、いきなり戦争が始まっても鎧や武器を取りに行かなければ丸腰で戦闘行為などできるはずもない。


ミール男爵は決断として領民の命を優先して農地を放棄。


前線を下げて自分達の戦闘準備を整える事にしたのだ。


前線を下げれば農地だけではなく、町も戦場になるだろうが、遮蔽物があった方が、数的不利があるこちらに利があると考えてのことだ。


農作業をしていた領民は、ミール男爵の指示で避難するのだった。



避難する領民の中に、トリエはいた。


義母とレミーは別の場所での避難誘導に行ってしまった。


みんなから、トリエは貧弱で、避難誘導をしていたら逃げ遅れてしまうから先に逃げろといって逃がされたのだ。


トリエは必死だった。


ドラゴニア聖国と言う戦争の起こらない国に生まれて、戦争に巻き込まれる事など想像もしていなかった。


このフィールダー男爵領に嫁いでも、毎日が農作業の平和な農村であったし、周りも戦争の準備で殺伐としている訳でもなかったので、兵士が攻め入って来るなんて思ってもみなかった。


周りで領民と一緒に逃げるこの時間がとてつもない恐怖を与えてくる。


遠くに敵の兵士達のカシャカシャと鎧の擦れる音が聞こえ、その音の大きさから、近づいてきているのが分かる。


「みんな、早く逃げないと追いつかれますわ!」


トリエは、恐怖に痺れを切らして声を上げた。


トリエ1人なら、もっと早く逃げられるだろう。


しかし、家族になった皆が領民の避難誘導に動く中、この集団は、自分に任されたのだと思っていた。


先に避難をしている集団なので、子供とお年寄りが多い。


必然的に、通常よりも逃げるスピードは遅くなった。


「トリエ様、あなたは先におゆぎなさい」


集団の中の1人が、トリエにそう言った。


「私達は生い先短い身だ、だがら子供達を連れて先におゆぎなさい」


声を発した老人は自分の膝を擦りながら言った。


「必ず戻ります、少し待っていてください」


トリエはそう言葉を残してこの場を立ち去った。



トリエは先頭を逃げる子供達を呼び止めると、その子供達の中の年長者達に逃げる先は自分の家ではなく、男爵家に逃げる様に、年下の子供を気遣って、置いていかない様に指示して、子供達を先に行かせた。


そして、また遅れ気味な老人達の元へ戻ってきた。


「トリエ様、どうして……」


「子供達には先に逃げる様に行ってきましたわ! 私がここに戻って何ができるかわかりませんが、領民を置いて逃げたとあってはお義母様に怒られてしましますわ!」


トリエの宣言に領民達の顔が変わった。


「みんな、気合いを入れて逃げねえと、私達のせいでトリエ様が死んじまうよ! 気合い入れて進みな!」


トリエが戻ってきた事により、領民の避難スピードは上がった。


トリエも共に避難しようとした時、ある事に気づいた。


「皆さん、ヤノムさんは?」


ヤノムとは、先程トリエに先に逃げる様に進言した老人だった。


「なに、ヤノム婆さんがいない? まさかどこかで遅れたのか? 誰か気づかなかったのか?」


他のみんなも、体力の限界もあり、自分自身が逃げるのが必死で、1人居なくなった事に気が付かなかった。


「皆さん、先に逃げてください。私はヤノムさんの所に行きます」


トリエは、そう言って道を戻っていった。

呼び止める声はあったが、トリエは止まらなかった。


しばらく戻ると、岩に腰掛けるヤノムを見つけた。


「ヤノムさん、良かった。早く逃げましょう」


息を切らしてそう言ったトリエに驚いた様にヤノム婆さんは返事を返した。


「トリエ様、私はもうダメじゃ。足が痛くて動けん」


「そんな……」


「早く逃げなさい。あんたは私と違って大事な身体じゃ。そうだねえ、心残りと言えば、あんたの子供を見れなかった事だねえ」


ヤノム婆さんは悲しそうに笑った。


このヤノムは、トリエがこのフィールダー男爵領に来て、男爵家の人達以外で初めて話をした領民であった。


「あんたが新しく嫁に来た貴族様かえ? これはうちの畑で取れたモロコシだぁ。良い出来だから持って帰りなせえ」


初めて畑仕事をして、ヘトヘトだったトリエにそう言ってコーンを渡してくれたのを覚えている。


疲れた体には大変な荷物だったが、あの甘いコーンの味は今でも覚えている。


トリエにとって、初めて平民と話した経験であり、初めて忖度のない優しさに触れた日であったからだ。


今の自分が、素直に慣れないまでも、フィールダー領に馴染んでいるのは、優しく自分を受け入れてくれた男爵家のと、領民の皆のおかげだと理解している。


だからこそ、トリエにはヤノムを置いて行く選択はできなかった。


「ヤノムさんには、私の子供を見るだけではなく抱いてもらいますわ! それに、私は来年もまたヤノムさんのコーンが食べたいのですわ」


「トリエ様……」


トリエはヤノムに肩を貸して、2人で逃げる様に頑張った。


しかし、無情にもダスティブの兵士達の射程圏内に入ってしまい、トリエとヤノムに向かって矢が放たれてしまった。


放たれた矢は真っ直ぐ2人に向かい、風を裂く音が近くなっていく。


終わり。そう思った時、目の前に現れた影と共にガチンという音がした。


逆光で黒に見えるその背中は、最近親しみを持って見る大きな背中であった。


「俺の奥さんと領民に傷一つつける事は許さねえぞ」


矢をフォークの様な農具で叩き落とし、鼻息荒くミール男爵がそう口にした。


しかし、ダスティブの兵士達が迫る中、鎧も無しに農具だけ持った男爵は無謀である。


「トリエ様もミール坊ちゃんも、大将が1人でこんな所に来てどうするんだ!」


ヤノムが大声で叫んだ時、3人を照らす太陽の光を、大きな影が遮った。








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